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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

お墓参り 行ってる?【図書館便り】

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こんばんは。にゃんちーです。

今日はお墓参りに行ってきたのだ!ということで、お墓参りについてちょっと小話。

うちは仏教なので、宗派に多少の違いはあれど、仏教に絞って書いていきます。後半はほとんど、おばあちゃんとの話。

 

 

はじめに お墓参りって行ってる?

お墓参りって、盆暮れ正月くらいで、あと、行ってる??

地元から離れて生活していたら、滅多に行けなかったりするよね。うむ。

 

館長ことにゃんちー、今年の目標(やりたいこと)のうちの1つが、毎月のお墓参りです。とりあえず1月はできた◎

去年の12月も暮れにお墓参りに行けたので順調、順調◎

 

月命日とか言っていると、うちのお墓には故人が4人もいらっしゃるので、月4回…えらいことになります。笑

なのであまり縛られずに、でも月1回くらいは顔出したいなーって感じです。

にゃんちーのご先祖様が眠る菩提寺、そこそこ遠いのです。それもあって月1回。

車で片道1時間半。往復3時間かかるので、お墓参り行くだけで午前中が終わるっていうレベルで結構キツイ。それでも、みんな(ご先祖様)に会いたいなって思うのだ。

 

そもそも お墓参りって

お墓の手入れがなされていなくって荒れ果てている状態も珍しくない昨今。

それはそうだよね。

みんながみんな、地元に残っているわけじゃないもの。地元から離れた大学に進学し、そのまま就職って方も多いもんね。そもそも、自分の実家と、本家が遠かったりすることもあると思うしね。

 

お墓参りって、単純に言えば先祖供養なのだけど、個人的には、小さな或いは日常的なお葬式、だと思っています。

お墓参りって、普段にはない、故人を偲ぶ時間だからです。家に仏壇があれば別ですが、今どき仏壇ないお家も多いです。そもそも、本家にしか仏壇ないしねぇ。

故人を偲ぶという点で、お墓参りはお葬式と同じだと思っています。本当のお葬式の様に、盛大にお見送りしないだけで。

 

私、お墓参りに行くと、いつも思うことがあります。

おばあちゃんに会いたいな、ひいおばあちゃんに会いたいな。夢でいいから出てきてくれないかなーって。天国でみんなで元気にしてるかなー?って。

 

私はおじいちゃんとひいおじいちゃんには会ったことがなにのだけれど、私の趣味趣向がおじいちゃんと全く一緒だそうで*1もし生きていたら気が合っただろうなー、とか思います。

会ったことないのに、会いたいと思うのは不思議な感覚です。

 

そして、一緒に過ごした時間がある人を懐かしむ気持ちは、なんともホッコリするのです。その人と居た時間というのは、確かに存在していたのだけれど、相手はお空の上ですし、もう私の心の中にしかないものだからです。

亡き人を想う時間が、お墓参りなんだなーって思っています。

そう考えると、お墓参りに行けなくても、時々思い出してあげることで充分なのかもしれません◎

 

 

お墓参りのお供え物

お墓参りのお供物ってあるじゃない?

お線香とか、お花とか。なんとなーく、それらを持っていくけど、意味はよく知らない。

お墓参りの際に全部揃えて持っていくことは珍しいと思うのだけれど、お盆を思い浮かべてもらうと分かりやすいのであります。

 

お供え物は五供(ごくう・ごく)と言います。

仏壇へのお供え物も同じなんだけど、仏さんって香りを食べると言われているのだ。

 

①香り:これがお線香です。お線香の煙が、あの世とこの世を繋ぐとも言われます。

②お花:これも香り。

③灯明:ロウソクの灯です。仏教では、世の中の全てを照らす光と言われています。

④ご仏前:飲食(おんじき)といって、基本的には炊き立てのご飯。

     炊き立てのご飯のいい香りを食べるってことだと思う。

     ちなみに、別に他の食べものがダメってことじゃないらしい。

⑤お水:死者は喉が渇くと言われている。お墓に水鉢があると思う。それが、飲み水。

    このお水に関しては宗派でかなり違うところかも。

 

 

今と昔では事情が違うので、なんとも言えないところなのだけど、滅多にお墓参りに行けない場合は、お花はお供えしたら帰るときには下げちゃったほうがいい。朽ちてしまうので。お花、勿体ないと思っちゃうんだけどね・・・。

食べ物をお墓の前において帰ると、カラスに食い漁られるので、これも下げた方がよかったりする。これは、お墓の場所にもよると思う。お寺の敷地内にあるなら、食べ物は本堂にお供えすればいいだよね。

にゃんちーのとこは、お寺の敷地内にお墓があるので、いつも本堂にある位牌(いはい)*2にも行って、お線香あげて、お小遣いおいてくる。みんなで美味しいもの食べてねーって。

勿論、そのお金が寺の懐に入るのは承知の上ですけど、気持ちの問題ね。

 

 

おわりに おばあちゃんが教えてくれたこと

にゃんちーの歳の割には、こんな事、よく知ってると思う。(自分で言ってしまった。)

実は全部、今は亡きおばあちゃんが教えてくれたのだ。

私は家を継ぐわけではないから、こんこんと教え込まれたわけではない。小さい頃の私は、何につけても、すぐになんで?と聞いてしまう「なんでなんで博士」だったので、それに答えてくれていただけだと思う。

おばあちゃんが仏壇に炊き立てのご飯をお供えするのを見て、なんでご飯あげるの?と聞けば、仏さんは香りを食べるんだよと教えてくれた。それでお腹いっぱいになるの?と聞けば、ご飯だけじゃなくてお線香も香りだからお腹いっぱいなるんだよと。

聞けばなんでも教えてくれる、おばあちゃんだった。

 

優しい嘘

おばあちゃんにとって私は初孫だったので、とてもお世話になった。

 

だけど本当は、私とおばあちゃんに、血のつながりは、ない。

それでも分け隔てなく可愛がってくれたこと、色々経験させてくれたこと、教えてくれたことに、とても感謝している。

 

私は随分前に、おばあちゃんと血縁関係がないことを知っていた。

(知った時は結構衝撃的だったのよ!戸籍謄本見て、おばあちゃんの名前違う!誰や!?ってなった)

それでも、おばあちゃんは、死の間際まで、私と血縁関係がないことには触れず、私の母=おばあちゃんの長女 が産まれた時には・・・と話てくれていた。私のおばあちゃん、私の母にとっては継母なので、おばあちゃんの子ではない。つまり嘘の話。

私は私で、血縁関係ないの知ってるよ、なんて言わず、おばあちゃんの話をうんうんと聞いていた。互いに嘘をつきあっていたわけなのだが、この時私は、「優しい嘘」ってあると思った。

私は今でも、この優しい嘘を守っている。本当は知っているなんて、お墓の前でも言わないのだ。優しさをそのままにしておきたいのだ。

 

お墓参りに行くと、いつも思う。

一人で生きたわけじゃないんだなーって。先祖代々・・・とか、そんな壮大なことを感じるわけではなくて、もっと個人的な想い。

一緒に旅行したこととか、教わったこととか思い出す。それを俗に、想い出と言うのだと思う。想い出を大事にすると時間を持つと、一人じゃないんだって気が付く。そんな感じ。私にとって、お墓参りはそういう意味もある。

 

図書館便りが、館長の独り言徒然草みたいになってしまった💦

今日はこの辺で。またにゃん🐈

*1:母談:写真、ギター、読書、メモ魔、たばこ。私は祖父の趣味など知らなかったけれど、私の趣味趣向のこれら一式揃った時には、あんたはまるでおじいちゃんだわ!と、笑われたものです。今でも言われるので、本当に似ているんだと思います。

*2:ご先祖様の戒名とか書いてある木の札みたいなやつ(解説が雑だ。笑)

SNS疲れちゃったな…その理由【頭の中の本棚より】

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こんばんは。にゃんちーです🐈

このところ、頭の中の本棚=私の考えていること・感じたこと の蔵書が増える一方です。本の感想を楽しみにしてくれている方が多いと思うんだけど、ごめんよ🙇とほほ。

 

さて。今日はSNSとの付き合い方について考えてみたのです。

 

 

はじめに (基本的に)SNSって楽しい!

スマホを持っている人がほとんどのこのご時世、SNSやっていない人が大半じゃないでしょうか。

今、みんな、どのSNSやってるんだろう??

 

 

にゃんちーこと、私。今は諸事情により匿名でやっているSNSと言えば、Twitterのみ。

(LINEは連絡手段なので除く。)

じゃあその前はというと、FacebookもTwitterもInstagramも全部やってた。笑

全部同時進行というわけではなく、Facebookから始まって、ブームとともにSNSを転々としていた感じです。アカウント削除するまでは、投稿する頻度に差はあるけれど。それだけ楽しかったのかもしれない。

 

SNSってやり始めは、いつも凄く楽しい!

それがFacebookのようにリアルな友達のつながりであろうと、Twitterのようにリアルから派生して見知らぬ人と仲良くなれたりとか。Instagramも同じで、新たに誰かと繋がったり、同じ趣味や嗜好で盛り上がったりと、リアルではないけど半リアルみたいな感じがとても楽しい。

なんだか自分の世界が広がった気がするしね◎

リアルだったら知り合えないような人と、ネット上で知り合える。いや、本当に意気投合してマジでリアルに会えるってこともある。そう考えると、凄い面白い世界だよね。

 

 

突然にくる SNS疲れ…

本当にSNSを楽しめてる人って、正直羨ましい。

こんなことを言うと、情緒不安定な人に思われてしまいそうだけど、私、結構な頻度でSNS疲れがくる。特にこのところ、ひどく。

Twitterしかやっていないのにも関わらず、めっちゃ疲れて、不登校気味。特定のハッシュタグで繋がりを持っている人に会いに行く、まるで学校みたいで、結構楽しかったのに、だ。

 

Twitterだけじゃないんだけど、SNS、ぶっちゃけ、(たまに)疲れない?

 

ちなみにそういう時、どうしてる??

もう、素朴な疑問。マジで。

 

SNSめんどくさいなって放置。気が向いたらやるっていうのが出来る人は、本当に上手な付き合い方だなあって思う。

 

だけど、大半の人は、みんなやってるし・・・って思って、SNS開いては片っ端から💓つけていく、みたいになってるんじゃないのかなあって思ったんだ。

その状態で💓つけるのって、「私、生きてます」的な生存報告になってるじゃない?

あるいは、「(とりあえず)見てます」っていう合図。

こうなってくると、マジで全然楽しくないよね。リアルな人間関係でも消耗しがちなのに、SNSでも疲れるとか勘弁してくれーって思うじゃん。

 

じゃあその、SNS疲れってどこからくるのかな?と考えた。

 

①「有益な情報」という名の 押し付け・強制・圧力 がキツイ

これはTwitterにありがちだと思う。字数制限があるせいもあって、どうしても断定的な物言いになってしまうから。

そして、Twitterにいる人たちの属性もあると思っている。俗にいうインフルエンサーは恐らくTwitterをマジでやってる。どういうことかというと、Twitterで言われるところの、「有益な情報」とやらを、バシバシあげてくる。これによってほかの媒体、例えばブログとかオンラインサロンとか自分の金脈に誘導している。

私「有益な情報」を持っている人です→ご興味のある方はこちらへ、みたいな導線として使っている。Twitterの拡散力を最大限に利用しているという点で凄い。ただし囲い込み方がエグイ。笑

 

それが見たくないならフォローしなければいいのだけれど、実はフォローしていなくても目に入るから困るのだよね。

例えば自分のフォロワーさんが💓したり、リツイートすると、出てきちゃうんだ。

あ・・・私その人(疲れる)からフォローしてにゃいのに…ってなる。

もんのすごく自分勝手な事言っていると思う、自分でも。こんなこと書くくらいなら、もうSNS辞めればレベルな気がしてきた・・・。

 

「有益な情報」じゃないものは、無意味・無価値っていう雰囲気が苦手なのかもしれない。もうちょっと、ほっこりというか、ゆるい世界があってもいい気がするのだ。

そして、断定的なものの言い方が出来る人だけが、勝ち上がっていくというのが、なんとも優しさに貧しくて見ていて寂しい気持ちになるんです。

欲しい人には欲しい情報なのだけど、SNSと言えど、画面の向こうにはリアルな人間がいるわけで、人の気持ちが置いてけぼりな感じが、ちょっと寂しいのです。

 

 

②リア充感 半端ない (隣の芝生が青く見える現象)

これはInstagramにありがち。なにしろ写真の世界だから、余計に。文字よりも写真の方がリアルだし、楽しそうな、リッチな世界をまざまざと突き付けられているような気がしちゃうんだと思うんだ。これはFacebookも同じ。

 

Twitterだと、収益報告とか数字で書かれることが多いかなあ。

例えば、私がやってるこの図書館も、形態としてはblogなわけで、他のブロガーさんのPV数とか収益見てぎょっとすることがある。とりわけ、収益に関して言えば、私はお金払って広告外しているので赤字。

 

じゃあここ(図書館という名のblog)を収益化したいのか、と聞かれると、答えはNO!断固としてNO!

本当に自分が好きで勝手にやってるし、ここに広告を載せない理由は前に書いた通りです。そもそも、自分のビジョンはもっと先にあるから、猶更です。

広告を載せない理由については、こちらをご覧ください☟


それでもやっぱり、隣の芝生が青く見えるのよ。

悔しさもあるし、羨望の眼差しでもあると思う。その気持ちは、否定しない。

誰だって成功したいだろうし、お金欲しいし、楽しい生活したいと思うだろうから。

 

そうは言っても、自分は自分、人は人なわけで、そもそも、自分と隣の誰かさんを比べるから、こういう気持ちになって疲弊するんだと思う。

悔しいから頑張る!ってなれればOKなのだけど、自他を比べて自分なんて…って卑下するから疲れるのかもしれない。

嗚呼、ここでも誇りに結びつくのか…。(誇りの話はこちらをどうぞ☟)

 

昨今よく言われる、自分をコンテンツ化=収益 になっている人を見ると、私は途端にしゅんとしてしまようです。

そんなこと言ったって、ちゃんと会社で働いていて、食べるのには困らないくらいのお給料もらってるんだ。なんなら、好きな本を買えるくらいの余裕はあるんだ。

フリーランス万歳!の風潮が強いのもあるかもしれない。だけど、本当にみんなフリーランスになったら経済回らない気がするのは、私だけ?

 

今のところは会社員って多勢なわけで世間的には「普通」のことだけど、その普通であることの何がいけないんだろうとも思う。会社というのは器だけで、そこで働いてくれる人が居なかったら事業にならないし、会社として成立しないじゃない?

別に会社員だからって不幸なわけじゃない。会社で楽しく働けている人も大勢いる。それに、そうやって雇われる形で働くほうが向いている、ということもある。

そんなものは人それぞれであって、消耗しているとか、社畜だなんて一概に言われる筋合いはないと思ってしまう。被害妄想っぽいね、この発言💦

 

 

③ネット上の変化は光の速さ(で、ついていけない)

社会の変革よりも、ネット上の社会の変化は、本当に凄まじいスピードだと感じている。まさに光の速さで変わっていく。時々刻々と。

社会の変化をいち早く察知するには、SNSって超便利なんだと思う!流行の兆しを見つけるにも、SNSを始めネット上の社会ってすごく敏感に出来てると思うもん。

これが目に見えた、リアルな社会の変化になるには、もうちょっと時間がかかるわけだ。そういう意味では、マーケティングなんかにはいいよね。

 

ただ、この速さについていけない時、ない?

変化の速さというか、発言力ないし発信力を持つ人の移り気の速さと言い換えられるかもしれない…。

(正直、イケハヤ率いる脱社畜サロンと、はあちゅうサロンががっちゃんこした時点で、オンラインサロンは終焉を迎えたと感じた。オンラインサロンの限界も見えた。)

 

時代が変われば考え方もかわるし、それによって発言や行動がかわる。

それは分かるのだけど、おそらく、その変化に至るプロセスが見えないので、汲み取りづらいのかも。かといってイチイチ説明してくれるほど、優しい世界でもないのがSNS。

事実だけを突き付けられても、たとえそれが正論であったとしても、窮屈な感じがする。それは打算的な下心が見えるからだろうし、人の気持ちを蔑ろにしているように感じるからなんだ。

 

 

おわりに 個人的な見解・SNSとの距離感

時代も技術も色々かわっていくけれど、本当のところ、生きていくうえで大切なことは何も変わっていないんじゃないのかなって思っている。

哲学がいい例で、いつの時代も、みな、似たようなことで悩んでいるし、「今どきの若いもんは…」という台詞は、ずーっと言われているわけだし。人の悩みって、いつの時代も同じなのかもしれないなって思うのだ。

だから結局のところ、人の気持ちに寄り添えないものは、滅んでいくような気がしている。ビジネスのルール(例えば駄目だと思ったらさっさと切るという決断の速さなど)を、そのまま人間関係にあてがってしまうと、間違えるんじゃないのかな?って感じている。

 

こういうものに逐一、反応してしまうと、心が刺激されてしまうとSNS疲れになるのだと思ったんです。

学校や会社をやめるのとは訳が違う。学校は辞めたら、また行きたいと思ったところでまた受験!?ってなるし、会社辞めたら生活どうすんの!?ってなる。学校も会社も辞めるのは簡単なのだけれど、やっぱり戻ろうと思った時に、今の日本社会では再建は難しい。よほどの事情や、志や目標がない限り、私はオススメしないです、はい。

 

だけどSNSから離れたところで、どうともならない。

SNSで生きているわけではないので、リアルな生活は、何も変わらないのだ。

馬鹿と鋏は使いよう、と言うけれど、自分がSNSによって「使われる馬鹿」にならない程度の距離感って必要だなって思った。

SNSには、がっついている人、自己プロデュース力にたけている人が多いので、その距離感がとても難しく感じている。

距離感がつかめなくて疲れた時は、離れるのもあり◎

 

自分の適度な距離を探し出せたら、SNSって本当に有意義な世界だよ🐈

アポとって実際に会うことが難しいような人たちと、話すことができる。少なからずの交流は持てる。(ちなみに、私は茂木先生がそうだった)

自分の知らない世界を垣間見ることも出来る。そこにワクワクしたりもする。

SNSって、ネットの社会って、うーんと広く見えるようで、案外ちっぽけな塊(集団)で出来ていることもある。違うと思ったら、移動すればいい。

 

たまにしか行かなくたって、顔を出せば声をかけてくれる人たちもいる。私はTwitterがまさにそうなのだけれど、沢山のつながりのなかでも、そういう人間らしい優しい人たちが好きだ。

ここ(この図書館)に来てくれる人もそう。やっぱりそういう目の前の人を大事にしていきたいなーってつくづく思ったのだ。

 

話が全然かわるんだけど、言いたいことが盛りだくさんで、ぶわーって書いてしまうところ。で、話変わるけどと、まるで手紙の追伸、のような終わり方。

私の悪い癖なんだけど、これ、どうしたら直るのかにゃ…😿

 

もうちょっと楽しく出来たらいいんだけどな、Twitter。ぼそり。

今日はこの独り言で終わります。笑

最後まで私の小言に付き合ってくださって、ありがとうございました◎

最近、ビジネス書ばっかり読んでいるから頭がどうかなりそうな、館長です。

したらばまたにゃん🐈

プライド ではなく 誇りを持つ【頭の中の本棚より】

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こんばんは。にゃんちーです。

毎日アウトプットをしたい!でも、なんだか気が乗らない時があるんです。

普通の会社員なので仕事でいっぱいいっぱいなこともあります。そうでもないのに、筆がのらん…みたいな気持ちになるのです。それって、何だろうって考えてみたのだ。

 

 

はじめに

本を読むのが好き。文章書くのが好き。

でも、ここに書かなくては!とか、ここに書けないならTwitterに書かなくては!とか思ってしまう。●●しなくてはと、思った途端に嫌になるのだ。笑

おかしいよね。だって好きでやってるのに。本を読むにしても、文章を書くにしても。

この目に見えないハードルって何かなあって思ったのです。

 

小説家、ブロガーでもいいのですが、文章を書く人たちがよく口にすることがあります。

それは「とにかく、書く」です。1行でもいいから書く、1言でもいいから毎日、書く。

もはや勉強の習慣と一緒で、まずは机に向かう。ということで、ニトリで机を買ってとりあえず机に向かうテンションだけは上がるように設定◎

じゃあ書けるのかというと、書けにゃい…。

なんでなんにゃー!?と。

環境もあるけれ、これはもう、自分の中の何が阻んでいるとしか思えなくて、自問自答してみることにしたのです。

 

 

100点を取りたい そして全部書ききりたい

と、見出しに書いたものの、だいたい私の記事は尻切れトンボなのであります。全部書ききれないから終わり!って感じです。自分の気分で終わってしまうようなところがあります。それが出来る緩さが、blogやTwitterの良いところでもあると思っています◎

 

ところが、私は書き始める時、100点を目指してしまう。

文章だけではないですが、なんでもいきなり100点は取れない。頭では分かっているんです。でも、その100点って、誰からの100点なんだろう??そう思いました。

 

 

プライド が邪魔をする

いーっぱい考えてみたのですが、これしかないです、私の場合は。

何しろprideが、自分の気持ちよりも先に立って邪魔をしてくるのです。このprideによって、「好き、やりたい」という気持ちがシュルシュルーっと、しぼんでいってしまうです。我ながらこれって、ものすごく勿体ない気がしました。

 

じゃあこのprideってなんだろう?と。

英語のprideを、日本語にするといくつかの意味があります。例えば、自尊心、自負、誇り。どれも似たような意味な気がするかもしれません。これは日本語あるあるだと思いますが、類義語が多く、厳密な意味など分からなくても、なんとなく感覚的に言葉を使い分けていけるところがあります。

話をもとに戻しますが、英語にしても日本語で言うプライドにしても、何故だかちょっとネガティブなものを含んでいる気がします。

そのネガティブなもの、それは「傲慢さ」なんじゃないかと思ったんです。

 

例えば日本語だったら、こんな言い方をしますよね?

●あの人はプライドが高い。

●プライドが傷ついた。

プライドが高いと言うとき、そこには皮肉が入っている気がします。それがまさに「傲慢さ」、他の言い方をすると高飛車(たかびしゃ)っていう意味になります。特に他人に向けて、プライドが高いなんて言うときは、お高くとまっている、高飛車な人ってイメージだと思うんです。

プライドが傷ついたと感じる時、それは「自尊心」が傷ついたという意味だと思うんです。これをもっと具体的に言うと、この自尊心がさすところは、「自分が尊大であると思う気持ち」あるいは「自分は優秀だと思う気持ち」ではないでしょうか。これも自分が思っているにすぎず、はたからすれば「傲慢さ」になります。

 

そう。

私の「好き」を邪魔するやつは、プライドという名の傲慢さだったのです。

そして、誰から100点を欲しいかというと、他でもない、自分からなのです。他の人から100点をつけてもらっても、自分が満足しなければ100点じゃなかったのです。

嗚呼、情けない。しゅん。

 

誇りを持つ

プライドっていうと、途端に偉そうになるので、じゃあ代わりに何を持てば、邁進できるのかなあと考えました。行きついた答えは、「誇り」でした。

誇りって、自尊心とも近いような気もしますが、この2つには決定的な差があるように感じています。

●誇り高い

● 自尊心が強い(低いとは言うのに、自尊心が高いと言うのはどうもしっくりこないですね)

 

自尊心については、先に書いた通りでもあります。ただし、心理学的に解釈する*1 か、社会学的に解釈するのかで、少し意味が違います。私がここで言っているのは、どちらかと言えば社会学的な解釈=自己評価という意味です。

 

ここから私は、誇り=志 なのではないか、と思ったのです。

 

誇り高き人でありたい。

それは、志を高くもつ、ということでもあります。

誇りも志も、自分の深層心理に根付くものなので、まずは自分が何かを思い描いていないと生まれるものではありません。そして、それを信じ抜く力が必要です。

そうして生まれた誇りや志というのは、決して他人に傷つけられることはないのです。なんだか、ちょっと先日紹介した『武士道』に通じるものを感じました。

 

『武士道』についてはこちらをどうぞ☟ 


 

おわりに だから夢を持つ

散々考えたあげく、ここに辿り着きました。

誇り高く生きたい。志を高く持っていたい。そのためにも、自分の実現したい夢をきちんと描くほかないのだと。

夢を持って、と言われても、そもそも「夢」という言葉がとても抽象的だし、なんだったら夢って叶えられないから夢っていうような潜在意識もあります。他の言葉にするなら、「願い」でもいいでしょうし、もっと具体的に「なりたい自分」とか、「やりたいこと」とか。「実現したい何か」≒夢 なんだと思います。

こう考えた時、やっと「夢」を持つことの本当の意味が分かった気がしました。

 

自分でも不思議です。

私には今はきちんと「夢」があって、だからblogという形でネット上で図書館を開館して、時々Twitterで独り言のように言っていたり、自分の心が揺さぶられた誰かの言葉をリツイートしてストックしています。

最終目的地はもっと描いているものがあるので、そこに辿り着くには、もっと計画をたてる必要があるでしょうし、戦略も必要でしょう。だけど、実際に、こうして少なからず夢の実現に向かって動き出した。それは紛れもない事実です。

それにも関わらず、自分が信じられなくて、夢のために好きでしていることにも、自分の夢にも疑心暗鬼だったのですから。

 

私に足りなかったものは、信じぬく力と、他ならぬ誇りだったようです。

自信なんてそう簡単につかないのかもしれない…と言うのも、今書いていて思いましたが、思い込みなのかもしれませんにゃー。

 

何か成し遂げようとしていて迷っている時、不安に飲み込まれそうな時、一度立ち止まって自分の誇りを取り戻してみてください。自分を信じてあげてみてください。

そうしたら、きっと、消えかけていた、ふつふつと湧き上がる何かが見つかると思います。それがあなたの夢でもあり、誇りです。

 

と、こんな風に、自分の変なprideに邪魔されて、つまらんことに頭を悩ませていただなんて、にゃんだかにゃー…と思ったのでした。

ちゃんちゃん!

今日はこの辺で。

明日は3時起きなのだ。寝ねばならぬ。またにゃん🐈

 

*1:こちらは、自分の人格を大切にする気持ちとか、自信を持つことを意味するので、結構ポジティブ思考です。

『メモの魔力』に大苦戦中【読書、そのあと】

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こんばんは。にゃんちーです。

読書感想文がまだなのですが、もう苦戦も苦戦、大苦戦中なので、先にこれを書くことにしました。

 

 

 

はじめに

先日、前田裕二 著『メモの魔力』 を読んだんです。

 

頭とお尻だけ読んで、前田熱量半端ないって思って泣いただなんて、Twitterに書いた気がします。

そのあと、ちゃんと中身を読んだわけです。が、感想を書けていないのは、なんだか自分の中できちんと消化できていないからなのです。言ってることは分かるし、これが出来たらマジ、マジック!って思うんです。

 

前田式メモ術の基礎すら徹底されていないのだけど、何しろ私が出来る方法に、前田式メモそのものを転用してみたのです。

これが思いの外、自分にハマッたので、読書感想文より先に書いています。

私のように右脳型はもしかしたら、1000問ノックで息詰まるんじゃないかと思ったので、助太刀致す。しゃきーん。

 

 

『メモの魔力』の1000問 に大苦戦

 もうね、1問目、なぜこの1000問とくの?に対して、速攻で、「面白そうじゃん!やってやろうじゃねえか!わくわく」と書いてしまったのだ。懺悔。

 

前田式メモ、基本的なやり方は次の順番で、展開していく。

①ファクト(事実・事象)を書いていく。

 この時、自分が感じたことがあれば主観だと分かるように書く。

ファクトをより抽象化して言語化する。

抽象から、何か他のことに転用できないか、次の展開を考えてる。

最後に、標語(一言でいうなら何?)をつける。

 

と、ざっと説明するとこんな感じなのだ。

 

ここで先の私の答えを見てもらいたいのです。

前田式メモでいうと、私の答えがファクトになる。

◎面白そうじゃん!やってやろうじゃねえか!わくわく。

自分で書いた答えなのだが、これを、どう抽象化しろと!?と。

いきなり1問目で 詰んだ…と思ったわけであります。他にも考えた答えはあるのだけれど、やっぱり、面白そう!を真っ先に書いちゃうっていうのは、もうそれが一番の私にとっての事実なわけです。

これ以上でも以下でもなく、この答え自体がそこそこ抽象度をもっている。

◉面白そう!って思えばやれちゃうし、わくわくするタイプ。

しかも1000問。挑戦状たたきつけられた気分になった。これを抽象化するなら、◉負けず嫌い。

 

そこからの転用って…いや、だから1000問解く!みたいなことになる。

 

実はこれはまだいい方で、3問目で実は止まったままなのである。

左脳と右脳、それぞれ別々でなら考えられるにも関わらず、左脳から右脳へ一連の流れの中で切替て考えるというのが、どうにも自力でできなかったのです。

 

 

順序立てては考えられない でも ヒラメキ はある

振り返ってみれば、これは自分でも気が付いていて、読んでいた途中にTwitter書いてました。

 

どうして私がこのツイートのことを気が付いたのだろうか、ということを自分自身で考えていなかった。今思えば、右脳からさかのぼる方が得意だったから、思いついたはずです。

 

私が前田式メモにつまづく理由はここにあったのです。

前田式メモは、小さい事実から大きな抽象へ、そしてアイデアへと、視野を広げていくようなやり方です。

これは事実検証から始まって、少しずつそのモノから離れていく必要があります。

 

でも私は、そもそも具体的なものに対する検証がすごく苦手。

抽象的思考が自分の特色であることも、自覚しているところ。じゃあ、前田式メモの順番を変えればいいんじゃないのかという発想に、自分では至らなかったのであります。

ここを救ってくれたのが、他でもなく彼氏なのですが、それは彼が私の思考回路をよく知っていたから他ならない。マジ、天才!って思った(多少のノロケは許してにゃ🐈)

 

私は抽象からの入りが得意。逆を言えば、ファクト:事実を、現実のそれ以外にどう見ていいのかが分からないからなのだ。理屈から創造への転換は、私には難しいということ。

だから不思議なことに、右脳から左脳への切替は可能だったのです。

 

 

右脳型 前田式メモ (なんちゃって🐈)

ということで、私のメモの順番はこうなりました。

 

①ファクト:とにかく事実を書く。この時は抽象、転用ようとか考えない。

②転用:浮かぶだけアイデア出す。

③抽象化:②の転用に共通する項目をあぶりだす。この時に選ぶ言葉を抽象にする。

④再度ファクト:転用から導かれる抽象化されたものから、今度は、例えばそれは既に何かあるんじゃないのかな?とか、具体的な事実に落とし込む。

⑤ループ:②~④を可能な限り繰り返す。これにより、実は案外、ファクトが充実してくることが分かった。

すると、途中でまた別の転用がおもいつき、それを抽象化し、事実へと戻る。

⑥標語:ループし終わったら、最後に1言でまとめる。

 

こんな感じで、例えば希望(あったらいいな、やりたいなとか)、つまり俯瞰してみたところから、少しずつ核心に近づいていくような思考回路。

これを前田式メモに転用すると、上のようなやり方になったのだ。

 

本の中では抽象化することを「レイヤー」という言葉を使って説明している。PCで絵を書く人には分かりやすいと思うのだ。「レイヤー」って、他にも言い換えることができて、チャンクとか、分野(カテゴリー)とかって言い換えられる。自分がしっくりくる言葉にしてみるといいと思う。

 

 

おわりに✒

まずは前田式メモのやり方をマスターするのが良いとは思う。そのほうが、順序だてて考えられるから。

ただ、右脳と左脳で言えば、右脳のほうが強い(働きやすい)人もいると思うのだ。まさに私がそうだったのだけれど。右脳の人って結構、突拍子もないこと言い出す傾向にあると思うんだけど、そこはメモの魔力を使って、トップダウン的に落とし込んでいくことが出来るんじゃないかと!

 

「メモは姿勢だ」って、前田さんは本の中で書いていたけれど、本当にそうなんだと思う。何も前田式メモをマスターすることが達成項目なのではなくて、「メモ」を使ってどれだけ自分の世界を豊かにしていけるのかが最終目的なんだと思うの。ってことは、自分にあった「メモ」の仕方を見つけるっていうのも、ありなんじゃないかと思ったのである。

 

今日のところはこの辺で。またにゃん🐈

 

 

 

武士道 それは奥義【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

寒い。寒すぎる。朝、車のフロントガラスが凍っていて、そこに水筒にいれたお白湯をぶっかけるのが日課になっています。飲むつもりで水筒にいれているのに・・・。

早く春が来て欲しいけれど、ひどく花粉症なので、それもまた悩むところです。(注文の多い客だにゃ)

 

さて、今日はとっくに読み終えていたのだけれど、この1冊。

ご紹介につき、ネタバレです。いつにも増して、寄り道多いです。悪しからず🙇

 

 

 

 

『1分間武士道』 齋藤孝 監修


ぬ。埋め込むと内容が表示されないので…HPより拝借m(_ _)m

 

『1分間武士道』 概要

武士は何を学び、どう己を磨いたか


◆品格をもって生きる。日本人としての徳目、美徳を取り戻す!

現代人が失ってきた「日本人としての背骨」を取り戻す。
人間の品格と強靭な精神力――武士道精神は日本人にとって「最強の武器」になりうる!

武士は何を学び、どう己を磨いたか――日本人の精神の基盤がわかる。
もともとは英文で書かれ、欧米人に大反響を巻き起こした新渡戸稲造の名著を、こなれた現代語訳かつ1見開き完結で展開。

■目次:
第一章 責任が人を磨く――武士道とは何か
第二章 他人を責めず自分を変えよ――仕事の心得
第三章 批評するより行動する――志とは何か
第四章 加えるな。そぎ落とせ――.覚悟の心得
第五章 平伏させずに心服させる――組織人の心得
第六章 命がけとは死ぬことではない――死生の心得
第七章 貧富を忘れて生きよ――処世の心得
第八章 人は能力より人格ではかられる――品格とは何か
第九章 自分より大きな何かを守る――.誇りとは何か

 

そもそも 『武士道』って誰がかいたの?

あまり知られていないのかもしれません。今日ご紹介している本『1分間武士道』、監修となっているのには訳があります。

 

私も原著を読めていませんが、そもそも『武士道』という本があります。『武士道』は、新渡戸稲造が書いたものです。(新渡戸稲造というと、私の中では旧五千円の人と変換されます。)

そして驚くことなかれ、この『武士道』の初版は英語で書かれたものなのです!

新渡戸稲造、国際結婚してます。妻はアメリカ人なので、英語ペラペラなはずにゃ🐈

そして新渡戸稲造はキリスト教徒でもあります。そんな彼が、切腹とかするような武士について『武士道』という本を、日本のスピリットとして英語で書いた。世界に広めようとしていただろうことは想像がつきます。私としては、どうして彼はこの本を書いたのか、とても興味深いところです。

 

 

ちょっと寄り道🐈 装丁・装丁から想定されること

ついにこんな見出しをつけるようになってしまいました。お茶でも飲んで、ふーんと読んでもらえたら嬉しいです。

 

本書紹介の前に、ぜひ元となった 新渡戸稲造『武士道』の装丁を見ていただきたいのであります!!*1

初版の装丁はこちらになります☟ ちょっと大きめ画像で貼り付けます。

 

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良く見てみてください。是非に!

武士道を、そのままアルファベット表記にしています。

これは今で言えば、すっかり世界共通語になっている、kawaii(かわいい)に通じるものがある。かわいいも同じですが、武士道を英語に翻訳出来ないこともないと思うんです。でも、あえて、BUSHIDO。カッコいいですね。

 

ではそのBUSHIDOが何かといのは、副題が定義しています。

THE SOUL of JAPAN という副題。しびれる…。というか、しびれた、私は。さっき、私はスピリットと書いてしまったけれど、SOULなのです。武士の精神とか、日本の精神とかではなくて、もやは日本魂といったところでしょうか。

新渡戸稲造は武士道というものを、武士という階級がなくなってもなお、日本人の中に脈々と受け継がれている、それが武士道という日本魂だと言いたかったのじゃないかと私は感じています。

 

装丁のデザインも非常によくできています。日出国(ひ、いずるくに)日本、なので水平線から太陽が昇っています。そして、桜の花。桜は、国花です。*2

 

この桜、言葉としての「桜」が持つイメージは時代とともに変化してきました。それがすごく面白いのですが、これについて書くと死ぬほど長くなるので、簡単に。

桜を見て、「一番良い時に散る、それが儚げで美しい」というイメージは、現代に生きる私たちも持つイメージです。でもそのイメージは、ある意味で戦略的に使われてきました。その最たる例が、悲しいことに、実は特攻隊なのです。

武士もまた、幾多の戦を生き抜いてきたわけです。そして外国からすると、切腹という謎の行為もあります。武士道の神髄と、桜のもつイメージというのは、そう遠くはないと思っています。

 

ということで、寄り道はこの辺にして、本題へ。

 

 

1分で読める 『武士道』のエッセンス

本のタイトル通りに構成されています。

見開き1ページに凝縮されていて、右ページに『武士道』から選りすぐられた1文から、齋藤先生の解釈により更に凝縮されたエッセンスが1つ。左のページにはその解説と、元になった文章、そして監修している齋藤先生の考えがちょろっと、まとめられています。

 

さすがに1ページに詰め込むのが難しいところもあって、ちょっと解釈が飛んでいるようなところも感じました。行間を読むと言えばいいのか、よーく考えると言いたいことが分かってきたので、1分では読めない箇所もあります。笑

でも、見開き1ページで完結しているので、とても読みやすいです。

 

本家『武士道』は、17章から構成されています。一方で、今日紹介している『1分間 武士道』は9章と、よりコンパクトに体系化されています。現代に置き換えながらも、名著を再構築しているのです。もうこれは、監修者の齋藤先生の腕だと思います。すごいです、本当に。

何しろ本家の『武士道』を読んでみたい!と思わせる力があります。少なくとも、私は『武士道』、読んでみたくなりました。とりあえず、日本語訳版からではありますが。英語で書かれた本当の『武士道』も読んでみたいものです◎

 

なんだか具体的な紹介にはなっていないので、私の心にグッときたものをつらつらと紹介していこうと思います。

 

平凡な教えも 徹底すれば 非凡に至る

これは斎藤先生がまとめた文章そのままです。新渡戸の文章はこうです。(孫引きですがご勘弁を)

武士道は、文字に書かれた掟ではない。 

 

これを斎藤先生は、「武士が自分に課した生き方のルール」と定義しています。

いわば人生の軸です。それは今、まさにみんな探しているものなんじゃないでしょうか。それって、簡単に見つかるものではないのかもしれません。

武士道の凄さは、武士がいた長い時間をかけて、時代の変化とともに、親へ子へと代々受け継がれてきたところにあります。そういった意味で、武士道というのは、実は物凄く柔軟な教えだったのかもしれません。あるいは、ごく当たり前=平凡な教えだったのかもしれません。

 

その平凡なものをどれだけ己のものにしていくのか。

これは全てに言えることなのでしょうか。仕事でもスポーツでも、音楽でも、いわゆる「基礎」というものがあります。別の言葉で言えば、「守破離」かもしれません。最初からオリジナルなんてなくて、平凡なごくごくつまらない基礎を習得したうえで、型を破り、そこから離れて初めて自分のものになっていく。

そうやって平凡な教えをまずは自分に徹底し、自分の精神と照らし合わせていく。いわば人生のルールを築き上げていくうえでの土台なのだと思います。

自分の人生の軸を決めていく際、もしかしたら他の誰かの人生のルールが役立つのかもしれません。色々な考えを垣間見ることで、自分の中で考えが精査されてくると思うんです。自分は一体、何を大事して生きてきたいのか、ということが。

ルールが決まれば後はそれを自分に徹底していく。年齢を重ねれば価値観も変わるでしょうし、時代も変わっていく。そうした中でもなお、揺らがない絶対的な軸が出来上がってくるのではないでしょうか。

自分の人生の軸があったとて、それを日々どれだけの人が意識して過ごしているでしょうか。なんだかシンプルですが、その平凡な教えを徹底できるほど、自分を律する難しさを感じました。

 

苦しまぎれのイエスではなく 正直なノーで生きよ

こちらも斎藤先生がまとめた文章そのままです。新渡戸の文章はこうです。(またも孫引きですがご勘弁を)

武士の一言(いちごん)は、その言葉が真実であることの十分な保証であった

 

これは映画や時代劇にみる台詞で言うところの、武士に二言(にごん)はない!です。武士に二言はない、というのは、こういう意味だったのか…と。それだけ言葉に重みがあった、たった一言に命を懸けるほどの責任をともなっていた、ということです。

斎藤先生も文中に書いていますが、「大量の言葉が安易に消費される時代」だからこそ、今、言葉の重みとその発言の責任を再認識する必要があるのかもしれない。そう思います。と、今これを書いていて、身が引き締まる思いです。

 

徳という見えないものさしが 価値を決めている

こちらも斎藤先生がまとめた文章そのままです。新渡戸の文章はこうです。(またも孫引きですがご勘弁を)

徳が根本であり、富はその所産である。

つまり、徳を積んだ結果として生み出されたものが富である、という意味です。

キンコン西野をはじめ、最近売れに売れているビジネス書にも良く書かれている「信用を積む」という言葉と非常に近いと思っています。

新渡戸は「徳」と言っていますが、松下幸之助の言葉にも似たようなものがあります。

人間として一番尊いものが徳である

 

徳といってもピンとこないかもしれません。徳というのは、宗教的な意味合いもあったりしますが、ここでは道徳とか倫理観に近いものだと思います。倫理的や社会的あるいは道徳的に「善」とされることを成し遂げられること、を「徳」と言っていると、私は解釈しています。平たく言えば、善き行いをする。

 

言葉にするとこんなにも簡単なのだけど、じゃあ何が「善き」なのか、とても曖昧なんです。その素地となるのが、倫理観であり道徳心になります。そして「徳」がさすところは、その「善き」とされることを「行い」にまでもっていけるかどうか、なのです。

善い行いが分かっていてもそれだけでは、徳を積むことは出来ない。それを実行して、あるいは実行できる能力をもってこそ初めて「徳」と成りうるのです。結構ハードル高い気がします。

 

これは近頃よく言われる「信用を積む」と本当に近いところがあって、信用を得るためには「徳」が必要不可欠です。

信用って、実質的な行為ではなくて相手の気持ちによる評価だから。信頼できるかどうか、という判断をされる。その判断というのは、自分の行動によるところです。その行動が「徳」なのかどうかにかかってきます。

 

「信用を積む」と言われてもどうすれば…と感じている方は、「徳を積む」と言われた方がまだしっくりくるのかもしれません。何故なら、「徳」は自分の行いそのものを指しているからです。「徳を積む」には、まず自分の倫理観を高めていく他なく、ひいては価値を高めていくこと他ならないからです。そうした高い倫理観に基づいた行為が「徳」なのだと思います。

斎藤先生はこれを、

武士道は、寛容やいつくしみ、他者への情愛などを最高の徳として尊重していました。 

 と書いています。

ここに「徳」のヒントがあるような気がするんです。倫理観なんていうとちょっと難しく聞こえるけれど、実はもっと簡単な、人として当たり前な心理であり真理を大事にすることを指していると思うのです。

 

 

駄目だ…これ、挙げだしたらキリがないのでこの辺にします。笑

 

おわりに 自分の奥義

この本の中には、トップに引用した目次の通りで、志・品格・誇り・覚悟など、目には見えない精神論について『武士道』を通して、また斎藤先生のフィルター(解釈)を通して現代に置き換えて説明されています。

何度も書いていますが、新渡戸稲造が書いたのです。お札になるくらい、随分と昔の人なのです。

 

それでも日本人として自分を掘り下げていったとき、この本は強烈でした。日本人の精神的なルーツってここにあったんだなと。私はそれがとても面白かったです。

 

国民性が…みたいに言われるけれど、これってちょっとやそっとで構築されるものではない。ましてや根付くまでには相当の時間がかかります。

でも自分にも流れているんだなって、サムライ魂が。サムライなんて、とっくの昔に居なくなってしまっているのに、受け継がれていたのだから。なんだか変な言い方ですが、自分の体内に流れる血が、少しざわつきました。

 

どうでもいいですが、私の今年のおみくじ、

思ふことつらぬかずしてやまぬこそ 大和をのこのこころなりけれ だったのです。笑

いや、私、男じゃない!って思いましたけど、なんだかもう、この本を読んだこともあって、大和をのこ…と、ザワザワと血が騒ぎました。本当に。

私は、自分の奥義を見つけていく時なのかもしれません。

 

今日のところはこの辺で。したらば、またにゃん🐈

 

*1:ホートン図書館から画像拝借:Hearn 92.40.10、ハーバード大学のホートン図書館。英語あんまり読めないけど、読んだ感じでは、この画像、一応パブリックドメインって書いてあったから大丈夫なはず◎

*2:厳密には、法定された国家はないです。ただし硬貨や陸海空軍には桜の紋章です。一方でパスポートは菊ですよね。菊は天皇の象徴でもあります。なんとなーく、どちらも国花という扱いになっているんです。

学校といじめ、そして居場所②【 頭の中の本棚より】

 

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こんばんは。にゃんちーです。

今日は昨日の続きです。

昨日の記事はこちらからどうぞ☟

 


 

 

 

はじめに

何から書けばいいんだろう。私のこと、書いていくしかないのだけれど...。

出来る限り具体的な内容は書かないように努めるけれど、それでも濃厚だと思うので、ショックでどうかなる前に、どうか離脱してください🙇💦

 

私は小中学校で、いじめられっ子だった。

ピークは小学校だ。

 

一時期、いじめられていた事をカミングアウトする人を叩く風潮があった。その風潮は、今でもあまり変わらないのかもしれない。確かにわざわざ言わなくても良いのかもしれない。

だけど、話したり書いたりする側からすると、嫌なことを思い出すんです。書くの好きとはいえ、あんまり気持ちの良いもんでもないです、思い出す作業は。

いじめられていたという、自分の暗黒時代と弱さを曝け出すことに対して、賞賛や拍手が欲しいわけじゃない。まして、乗り越えてきたこてを自慢したいだとか、褒めて欲しいわけじゃない。

 

今まさにいじめられてる子、いじめてる子、あるいはその周りにいて考えあぐねている大人たちに何か伝わればいいなって思っています。

そんな気持ちから、昨日に引き続き書いています。

 

 

いじめが私に教えてくれたもの ① 世の中は理不尽

 

未だになんでいじめられたのか、どんなに考えても分からない。本当の理由は、いじめっ子達に聞くしかない、と思っている。

 

だけど、妬み嫉みやっかみ、だったんだと思っている。

 

何しろ一番始めは、「お父さんがいないこと」を理由に追いかけ回されていた。

うちは母子家庭。今では珍しくないけど、私が子供だった頃はまだ珍しかった。田舎だったせいもあるかもしれない。

親を筆頭に大人達でさえ、新聞記事の1面より、半径1kmの変化(噂話)のほうが、ずっと大事そうだなと、私の目には映っていた。

子供になればその範疇はますます狭まり、まるで学校は自分の世界の全てのようだった。

 

私は母子家庭だから、いじめれたわけじゃないと思っている。

唯一、人と違って特異なものが家庭環境で、つつきやすかったんじゃないかと。

 

いじめられた要素って、いくつかあると思うのね。

主には能力・性格。

私は1番になれなくても、なんでもソコソコに出来るタイプだった。勉強も運動も音楽も美術も。好きでやっていたら勝手に上手になったものもあるし、テスト前にはその場しのぎの勉強したりとかは、したけれど。

 

私の場合は、性格がかなり大きかったと思う。

小さい頃から周りに大人しかいない世界だった。本もよく読んだ。おかげで、同い年の子よりもずっと論理的な思考回路、話し方だった。そして色々なことを知っていた。

性格もあいまって、正論ぶつけて論破してしまっていた。今思えば、「逃げ道をあげなさい」と、親にも指摘されていたくらいだから、相当だったのかもしれない。

正論ぶつけられると逃げ道がなくなる。ぐうの音も出ないから、例えば言い返せなかった時、相手はどうなるかというと、違う論点で攻めてくるか、手がでちゃう。

 

この論理的な思考力は、大人にとってはとても都合の良いものでもあったと思う。

別の言葉にすると、「ものわかりの良い子」となる。これによって、言わずもがな、媚を売るわけでもないのに先生のご贔屓を頂戴するはめになった。

先生に贔屓されるって、やっぱりすぐ分かるじゃん?笑

先生はそういうの見せないように気を付けているのかもしれないけれど、やっぱり端々に出るわけであってさ。それも周りからすれば、気に食わん!ってなってた。

 

結果的に、とりわけ出来ないこともなければ、大人に好かれ、とかく容姿に特徴もなかったがために、「母子家庭」という点でいじめられた。

 

世の中って本当に理不尽だ、そう思った。

別に好きで母子家庭になったわけじゃないんだもん。それは親の都合であって、自分が望んだことではないし、自分の力ではどうにもならないことだから。

「なんでお父さんいないの?」と自宅まで追いかけまわされる日々を3年近く耐えた。

そこからどんどんエスカレートしていく。ドラマの世界かと思う、今でも。

 

自分で耐えられなくなった時、初めて、そして1度だけ母親に話したことがある。

でも返ってきた言葉はこうだった。

 

「お父さんのとこ、行く?あんたが幸せになるなら、お母さんはそれでいい」

 

そんな言葉が欲しいんじゃなかった。別に、どうにかしてほしいわけでもなかった。

ただ、ぎゅっと抱きしめて欲しかった。

お母さんは私の味方だって、知りたかった。それだけだった。

これは私が勝手に、母親に期待していただけのことで、この言葉をどれほどの気持ちで母が私に言ったのか、今であれば充分すぎるほどに分かる。当時もなんとなく分かっていたけれど、心では全然受け入れられなかった。母に拒絶されたと思ったのだ。

 

この時、いかに自分が無力で、親(大人)も無力なのかを知った。

理不尽なこの世界なんてなくなればいい!と思った。

 

 

世界をなくすことは出来ない でも自分は…

 

世界をなくすことは出来ない。みんな消えればいいと思ったところで、一体どれだけの人を自分の手で・・・略。

ということになるので、だったら、自分が居なくなればいいんじゃない? と思った。

自分が消えたら、自分の世界はそこで終わる。私は私の人生ゲームを終わりにしたかったのだ。本当に終わりにしたかったのかと聞かれれば、きっと、生きたかった、のだと思う。

だけどこんな理不尽な思いをするくらいであれば、消えてしまいたいと思った。

それほど、耐えられなかったのだ。

 

こうして今、blog書いているわけなので、生憎消えることは叶わず、今生きている。

今はようやく、生きていて良かったって思えるようになった。自分にも、こんなに面白い世界が待っていただなんて、あの当時は思いもしなかった。タイムスリップ出来るなら、本当にあの時の自分に教えてあげたいくらいだ。

 

どうにかして自分を消そうとして、結果消えなかった。その時に私の死生観は、確立されてしまった。

死生観については、前に書いてあるので、こちらをどうぞ☟

 


自ら命をたつことを、愚かだと人はとても多いんじゃないかと思う。そう思える人は、実はとても幸せな人生を送ってきた人か、とても強い人なんだろうと、私は思っている。

 

死ぬ勇気があればなんだって出来るという。確かにそれは間違いではないけれど、死生観というのは人によっても違っていて、学校に行くよりも、死ぬ方が「楽」だったりもする。そして、死ぬ勇気があればなんでも出来るというのは、あまりに正論すぎて、実のところ、相手を追い詰める一方なんじゃないかとも思う。

この正論は、死という選択肢を安易に選んだわけではない、という相手の本当の気持ちと、そこに至るまでの葛藤を見つめていないのだ。苦しみの渦中にいる者にとって、ちっとも優しくない言葉なのだ。

 

いじめが私に教えてくれたもの ②レベルを合わせる

世界を消し去ることも、世界から消え去ることもできなかった。同じく、相手を変えることも出来ない。ならば、自分が変わるしかないと小学3年生にして思ったのだ。

で、どうしたかというと、たまたま保育園が一緒だったちょっとヤンチャ坊主たち(後にヤンキーに育つ)と仲良くなり、後ろ盾を得たように見せかけるところから始まった。要するに、私に逆らったら痛い目みるぞっていうフラグを立てておくイメージ。

 

女子も見方につけなければならないので、くだらねえとか思いつつ、一緒に馬鹿なことをしてヘラヘラしてみる。時には噂話だってした。最初は本当に自分を偽るのがきつかった。

この当時、本当の自分なんかそっちのけで、「みんなと同じ」を目指して、徹底的にキャラを演じきっていた。自分のことは自分だけが分かっていれば良くて、誰も信じられなかった。学校という小さな理不尽な世界を生き抜くには、目立たないように、みんなと同じになるしか、小学生の私には思い浮かばなかった。

 

しかし一方で、そんな子達と本当の意味で同レベルになるのはご免だったので、親に言われない程度に勉強もし、習い事もして、自分で何でも出来るようになることを目指してコツコツ自分を育てることもしていた。

勉強さぼって遊んでばっかいたら、本当に堕落してその子達と同じになってしまう。

もう、そんなの絶対嫌だったんだよね。優劣とかじゃなくて、自分が上にたちたいとかでもなくて、とにかく同じになりたくなかった。言ってみれば、ああは成るまいと人知れず心に近い、さもみんなと同じようなフリをしてカモフラージュし、いつか「お前とは土俵が違うんだ!」って言えるように準備をしていたんだと思う。

多分、この頃から異常に自立・自律にこだわるようになっていった気がする。早く一人前になりたい、そんな気持ちだった。

 

学校から逃げるという手もあったと思う。でも私はその選択肢を知らなかったのだ。

だって「義務」教育、って言うし、みたいな。本当はその「義務」がさすところは、何も私に課せられた「義務」じゃないのだけれど。

 

こうして本当の自分を押し殺して、バックを得て(得たフリをして)馬鹿を演じて数年過ごすことになる。

 

するとどうでしょう。

 

追いかけまわされるとか、嫌がらせされるとか、目に見える形での「いじめ」は無くなっていた。

相変わらず先生のご贔屓は変わらずで、学級委員もやったし、委員長もやったし、部活の役にもついたよ。俗にいう優等生だったと思う。でも本当は、全然そんなんじゃなかった。目立ちたくないから、嫌々やっていたし、大人の機嫌をとるのも仕事と思ってやっていた。

ここにシコリが残ることとなった。目に見えるいじめはなくなったけど、陰でくそみそに言われているのは知っていた。これは中学まで続くことになる。羨望の眼差しだけは、消えなかった。

 

 

いじめが私に教えてくれたこと ③圧倒的な力の差

 

私が通っていた学校は、1つの小学校からしか中学に上がってこない。要するに9年間顔ぶれが変わることがない。ちなみに公立。

だからもう、嫌だった。

馬鹿なフリするのも疲れたし、大人のご機嫌取りも疲れた。6年もやったんだ、充分だろって思った。

 

中学に上がりクラスが決まって教室に入るなり、開口一番、どでかい声でみんなに宣言をした。

学級委員は絶対にやらない。委員長もやらない。推薦で私の名前だしたら、どうなるか覚えとけ!困った時だけすり寄ってくんじゃねえ!と。笑

これを言った時に勇気なんていらなくて、「一人で生きていきます、もうお付き合い頂かなくて結構です」っていう拒否するような感覚だった。

振り返ってみても我ながらアホだと思うけど、腹のうちでは悪く思ってるくせに、困った時だけゴマすりされたり、学級委員とかそういう時だけ都合よく使われるのに飽き飽きしていた。

 

そして、本当にやらなかった。

学級委員に自分の名前がだされた時、すかさず「私を推薦した奴、誰だ!?」って言えちゃうくらいだった。先生からすれば、ひどい反抗期に見えていたかもしれない。だけどそうじゃなかったのだ。付き合いたくなかった、それだけ。

 

なんでそんなこと出来たのかと考えると、力量の差だったと思う。

どれをとっても負けない!っていう自負。

何か1つ秀でたものがあれば十分だったのかもしれないんだけど、もう誰にも何も言われたくなかったから、何をとっても絶対に負けない!って思っていた。万遍なくね。

自分の性格はさておき(いや、そこ直せよって思うけど)、中学になれば先生のご贔屓ではなく、成績がものを言うようになる。先生のご贔屓は変わらずだったけれど、そこは内申点に反映されてくるので、私にとっては非常にお得なシステムだったと思う。

 

みんなに勝ちたかったわけじゃない。強いて言うのであれば、自分自身に勝ちたかったんだ。大人数で食ってかかってきたところで、私はお前らになんて負けない!って証明したかったのかもしれない。今書いてて思ったけれど、私はいつの間にか負けず嫌いになっていたようだ。

 

学力でもスポーツでも何でもいいのだけれど、力の差が見えた時の周りの反応は本当に素直だと思う。今、振り返ってみても、そう思う。力の差がついたと、自分でさえも思えた時、それは自信になる。自信が持てると、不思議と怖いものがなくなる。当時はなんとなく思っていただけだけれど、今だからこんな風に言葉に出来る。

力量の差、それは別になんだっていいんだ。好きな事、ゲームでも読書でも、学校とは全然関係ないことで良い。

私は読書によって、語彙力と大人をも論破するという、言葉の魔法を手に入れたと思っている。これは面白エピソードでしかないけど、こんなこともあったのだ☟

 

 

だから何かに没頭することは、本当に素敵なことだと思う。

自分に自信をくれるから。そして没頭している時は、絶対に自分に負けないから。その時は自分は自分の味方で居てあげられるから。自分を好きでいてあげられるから。

もしかしたら、好きな事を見つけなさい、あちこちで言われているけれど、本当はこういう意味なのかもしれないね。

 

 

いじめが私に教えてくれたもの ④優しさ

はっきり言って、誰かに優しくしてもらった覚えはない。特にいじめられている渦中は。もしかしたら、自分のことで精いっぱいで気が付かなかっただけかもしれない。

私は小さい頃から未だに揺るがないポリシーがあって、「自分がされて嫌なことは人にしない」と決めている。

自分がいじめられていたからって、他のいじめに加担することはしなかった。だって自分がされた時、死にたくなるほどつらかったから。

自分は嫌というほど傷ついた。そして子供ながらに戦った。当時、勝ちにこだわっていなかったし、勝てたかどうかは分からない。とりあえずボロボロだったのは確かだけど。

 

だからその分、人に優しくなれた。いじめのおかげで。読書のおかげで。

色んな考えがあって、いろんな気持ちがあるということを、知ることが出来た。決していじめられたことは良い経験だったとは思わないけれど、少なくとも自分の肥やしにはなったと思っている。そう滅多に出来る経験をしたのだ、とポジティブに考えることも出来なくもない。

骨を折った時の痛みは、骨を折らないことには本当の意味では分かりっこない。そこを想像力でカバーできるのが人間の素晴らしいところでもある。

 

でも、本当の痛みを知っている人間は、無敵だと思っている。

だからだろうか。

私はよく、人から「初めて話すんだけど・・・」と言って話してもらえることがあったる。そして私は「大丈夫」が口癖なんだけど、「にゃんちーに大丈夫って言ってもらえると(根拠はないのに)本当に大丈夫って思える!」と言ってもらえることが多い。

それは人の痛みが分かるからだ、と自己分析上はこう推測している。

 

酸いも甘いも噛み締めて、今を生きる。そう思って日々過ごしている。こんな風に思えるようになるまで、ものすごく時間がかかったはずだ。ただ、今になるといつからこんな風に思うようになったのか、定かではない。いつの間にか、出来上がっていた。

一人で生きていくもん!って宣言しておきながらも、気が付けば、そんな私にも友達ができ、恋人ができ、居場所が出来た。

 

おわりに 居場所がない人はいない

今日は結構早いペースで書けたぞ!事実を書くだけだったからかも。ほんと、どうでもいいけど、おわりにという見出しを入れた途端に気が抜けるというか、話題がそれるね、毎回なんだけど・・・🙇

 

本当に一人で生きていくつもりだった。もう兎にも角にも早く自立・自律したくて仕方なかった。一人って、めっちゃ楽だと思っていた。それに憧れてもいた。

だから今の自分が不思議でならない。

だって、ちゃんと、今、私の居場所があるんだもの。

 

一人だったかもしれない。でも気が付いたら、独りぼっちではなくなっていた。どうしてか、いつの間にか、本当に気が付かない間に、大事な人たちがそばに居てくれるようになった。そこが私の居場所になった。

居場所って自分で作るものだとも思っていた。もちろん、自分で旗揚げして創れたら最高なんだけど、居場所というのはどうやらがむしゃらにやっているうちに、勝手に出来るようなものでもあるようだ。

 

だから声を大にして言いたい。

みんなの居場所は、必ずあるんだよ、って。どんなに時間がかかっても、きっと自分が居るべき場所=居場所 に辿り着けるはず。

 

ヘビーで胃もたれしそうね。最後まで目を通してくれた方、本当にありがとう◎

今日こそちゃんとお風呂入って寝る。

それではまたにゃん🐈

 

 

学校といじめ、そして居場所①【頭の中の本棚より】

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こんばんは。にゃんちーです。

こんな事、書く日がくるだなんて思ってもいなかったです。

クマップさんのこの一連のtweet☟を見て、なんだか得も言われぬ気持になったので、徒然と。

 

 

クマップさん🐻、ちょいと拝借いたします🙇

そして先にお礼を申し上げます。これを書くきっかけをくださって、ありがとうございます◎

 

ではでは、さっそく。私の頭の中から1冊。

 

 

この世から消えないもの それは戦争といじめ

縁起でもないことを書いている、と我ながら思います。

いつかきっと、戦争もいじめもこの世から消え去る!と信じたい気持ちでもあります。

でも物凄くシンプルに考えて、多分なくならないんです。ただ、ゼロにはならないかもしれないけれど、限りなくゼロに近づけていくことは可能だと考えています。

そういう気持ちで今これを書いています。

 

しかし、ゼロにならなければ、結局のところ「ある」になってしまうので、結局のところ、戦争もいじめも「なくならない」になってしまう。今のところはこれが私のなかでの結論です。

 

では。それは何故か。

 

戦争と愛は、表裏一体だから。

戦争の根源は憎しみという感情です。憎しみの感情は、愛するものを奪われたことから湧き、復讐へとコマを進めます。憎しみの規模が大きくなり戦争になる。戦争が終わらないのは、憎しみの連鎖は断ち切れないからです。

価値観が違えば、愛するものが違うのだけれど、その違いを認めあえない以上、戦争はなくならないと思うんです。

「戦争がなくならないのは愛があるからだ説」、ビートたけしさんだったか、タモリさんだったかが言っていたのです。(定かでない記憶で調べもせずに書いて、すみません)

これを聞いた時、うわあ!ってなったので、とても良く覚えています。そして私なりに考えてみたのです。戦争と愛の関係を。

今のところ私の中では、さっき書いたような流れが答えになっています。

 

いじめも限りなくこれに似ていると思うのです。

愛と憎しみとの関係に似ているということです。これはもう少し嚙み砕くと、憧れと悔しさとの関係でもあります。もっともっと砕いて、可愛さ余って憎さ100倍、みたいな感じです。

ただし、「いじめ」というのはある種、なんとも説明のつかない特殊な側面があります。

 

「いじめ」だけにある特殊な側面(異様さ)

いじめというと、どうしても学校と連想されると思うんです。不思議ですよね。

学校=いじめ、なんだもん。

でも大人になっても、社会にでても、いじめみたいな事ってあるんです。若い人たちからしたら、なんとも夢のないことを言ってますね・・・でも今のところこれが現実だと思います。

会社にいたって「いじめ」は、ある。(滅多にないけどね、学校に比べたら)

要するにこれは、学校なり会社なり、どこかに「所属」することで発生する現象ってことになります。

 

ただし、無所属なのに「いじめっぽいもの」が発生することもままあります。

出る杭は打たれるってやつです。

これはネット社会になってからだと思いますが、とりわけSNSの誕生とその発展が大きく絡んでいると思っていて、会ったこともない人に対して、顔や名前を伏せるという姑息な手法が可能になったばっかりに、言いたい放題できてしまうので、良くも悪くも目立つ人はめっちゃ叩かれる。これは限りなく「いじめ」に近いと思います。

でもこの場合、本当に、出る杭は打たれるであって、叩いている人(俗にいうアンチ)の深層心理は、憧れが憎しみへと移行してしまった、というところです。こんなこと書いたらマジ叩かれそう。笑

本当はめっちゃ羨ましいとか、自分が出来ないことを成し遂げていることへ憧れてるだなんて・・・と、自分の気持ちや自分の現実とは向き合いたくないばっかりに、その矛先が目立つ人に向かい、叩くという歪んだ形で表に出てきているんじゃないかと思うんです。

そう考えると、これってまだ可愛いほうで、戦争やいじめとは少し毛色が異なります。

 

話が脱線しちゃった・・・。(よくあることにゃ🐈、すまぬ)

話をもとに戻します。

 

どこかに「所属」することで発生する現象という点では、戦争だって同じ理屈で通るんですけど、いじめと戦争には決定的な差があります。

 

それは、背徳感中毒性、そして自己防衛本能です。

これは本当に「いじめ」特有のものだと感じています。

だって いたずらとゲームに似ているんです、いじめって。

むしろ、いじめって、いたずら×ゲーム×自己防衛策 という、なかなか複雑な掛け算で成立している。そして時代の変化とともに、技術革新によって、いじめはより複雑化しているとも言えるんじゃないでしょうか。

 

話の腰を折るようですが、今ここに書いていることは、本当に私の超個人的な考えです。世の通説ではないので、念のため。

 

 

いじめ にある背徳感

背徳感、というと少し難しいかもしれません。後ろめたさという気持ちです。

この後ろめたさって、もっと可愛いレベルに落とすと、ちょっとした「出来心」とか「いたずら心」なんです。

ダメだと分かっているけど、ダメなことしているという変な高揚感とか楽しさ。

小さい時に規模はどうであれ、そして多かれ少なかれしたことがあるであろう、いたずら。いたずらした時の、ハラハラドキドキ感と近いと思うんです。

でもこれ、間違えると、例えば万引きとかっていう犯罪行為に繋がる。

はっきり言って、いじめもこれと同じです。

 

分かってない人なんて、居ないと思うんだ。本当は「いじめ」なんてしちゃ駄目だって、きっと知っている。知ってはいるけれど、大人(ないし他の属性の人)には気づかれないように、いたずらするのがハラハラドキドキする。そんな感じ。

 

 

いじめ というゲームの中毒性

人によってはゲーム好きじゃないこともあるから、ゲームだけじゃないのかもしれない。だけど、ゲームって一度ハマるとエンドレスでやってられたりしない?

大人だったらギャンブルとかもそうだと思う。

ちなみに私は、ロールプレイングゲームを1日徹夜になってでも最後まで攻略するタイプ。ハマったら一気にやり遂げたい、そういう意味では超短期的中毒症状になる。(ので、ゲームしない)

 

ゲームって、単純に楽しい。

楽しめているうちはまだいい。飽きたら止められるから。

ところが困ったことに止められなくなるほどに、ハマることがある。実はそうなっている頃には楽しさなんか関係なくて、他の欲求にすり替わってしまっている。例えば、支配欲だったり、達成感だったり、ストレス発散だったり、多分挙げたらキリがないのだ。

そしてその欲求が次から次へと移り変わるか、増えていくかのどちらかなのだが、「楽しさ」ではない何か他の欲求にすり替わっていることに、当人は気が付かないので、ゲーム以外にその欲求を満たす方法を見出せない。結果、ゲーム中毒になる。

 

いじめにもこれと同じ中毒性があると思う。

最初は、からかうとか、いじるとか、そんなところから始まっているはずだ。その頃はきっと楽しかったはず。(いじるならOKと言っているのではない。からかわれたり、いじられたら嫌だと思う人もいる。そこは人によるから、配慮は必要だぞ!)

ところが、続けているうちにちょっとの刺激では飽き足らず、段々とエスカレートしていき、いじめと化す。これはいじめになっても終わらることなく、ひたすらにエスカレートしていってしまう。

例え、この世でたった1つしかない命という灯が消えたとしても、だ。

 

ターゲットを変えて、またどこかでいじめというゲームが始まる。止められないんだよ。本当に。ねえ、それ、中毒だよ。もう、病気だよ。

 

 

いじめ にみられる防衛本能

これについては少し的を絞って、「学校」という場所での「いじめ」について話を進めていきます。

 

これは本当にいじめの特殊だよ・・・。いじめ撲滅の難しさは、ここ、つまり自分を守る事という本能であり防衛策、という点にあると言っても過言ではないと思っている。

表立っていじめている当事者だけじゃない。傍観者(見て見ぬふりをしている人)もいじめの加担をしていることになる。

結構キツイこと言っているかもしれない。だけどそう認識してほしい。

見て見ぬふりをしているのは、暗黙の了解であり、いじめを許している他ならない。

 

でも、私はこれを安易に責めることが出来ない。

何故なら、「次のターゲットは自分かもしれない」という不安と恐怖から、いじめに参加し、あるいは傍観者としていじめを容認することで、自分を守っているというケースがあるからだ。

誰だって、いじめられたくない。そう考えるのは、当然だよ。だからその気持ちを、私は否定しない。否定できない。

 

そして、「いじめなんて止めろよ!」と言える強い心を持っている人ばかりじゃない。

圧倒的多数は、本当はいじめなんてやめなくちゃって思っていても、見て見ぬふりして心の中ではごめんって思っていても、怖くて口に出せない。何しろ次は自分に降りかかってくるかもしれないのに、そのリスクを取ってまで、いじめ反対!って言えるのかっていう話だ。

自分が口を挟んだところで、そのいじめは無くならないかもしれない。

それどころか、自分がいじめを止めに入るということはゲームを中断させるわけであって、いじめのターゲットが自分に移ってゲーム再開となるかもしれない。

あまりにもリスクが大きすぎる。むしろリスクしかない気がしてきた。

 

 

どうか、気づいておくれよ。もう、時代が違うんだ。

 

そこで問題なのが、周りにいる大人なのだ。

子供からすれば、大人って、まあ厄介よなー、本当に。

(まるで自分が子供であるかの如く言っているけど、私は三十路を過ぎているのにゃ🐈)

 

どうしてって、先生であれ親であれ、周りにいる大人が学校に通う子供だった頃の時代と、今まさに子供が生きているこの時代とは、全然違うんだもの!

ちょっと前までスマホではなく、携帯電話(通称ガラケー)。その前はポケベル。その前は、そういう類の機器は家の固定電話しかなかったんだから!笑

 

私は、スマホの誕生によって、いじめは見えない世界へと、完全に闇の中へ放り込まれたと思っている。

ネットの世界って、確かにそこに繋がりはあるのに、実態としては目に見えないから。SNSが最たる例で、それこそ証拠は残りやすいけれど、まずもって大人に発見される確率は低い。

(ちなみに、心配なのは分かるけど親だからって子供のスマホ、勝手に見ちゃだめね。場合によるけど、その行為が法律違反になることもあるのだ。お母さん、お父さん、気を付けてにゃ🐈)

 

十数年前、インターネットこそ普及していたけれど、ノートパソコンなんかあったかな?みたいな時代。30過ぎの私が学校へ通う子供だった頃でさえ、こんな感じだ。

今の大人たちはそういう時代に、子供だった。もしかすれば、もっと昔に子供だったわけじゃない。

そんな大人たちが、現代に生きる子供たちの「いじめ」に対して、どれだけ理解していて、一体何が言えるのだろうと思う。

 

そもそも考えてみておくれよ。

先生、お父さん、お母さん、ちゃんとスマホ使えてる?

ググれるくらいで、SNSやってるくらいで、スマホ使えるし!とか言ったら、子供たちには鼻で笑われるから、言わない方がよろしいかと思われます。

 

どんなSNSも、やり方次第で複数のアカウントを持つことが出来る。SNSの種類にもよるけど本当にうまくいってしまえば、いくらでも自分の分身が作れる。アカウントを複数持つということは、自分の分身を増やせるということでもあるし、違う自分をいくつも持てるということでもある。他人になりすませるってことでもある。

例え1つのSNSを使っていたとしても、ネット上にグループ(つまり所属先)すらも複数作れるし、非公開設定もできる。

これらが一体、何を意味するのか、今の大人たちは分かるのだろうか。

この見えない闇にどうやって立ち向かっていけばいいのか、知っているのだろうか。もっと言えば、その世界を知ろうと、学ぶ気はあるのかにゃん?と聞きたくもなる。

 

大人からすれば、何を偉そうに!と思うかもしれない。あるいは、耳が痛い…と思うかもしれない。かく言う私もいい大人なので、構わずガシガシ話を進めます。

(嗚呼、大人に対する優しさのかけらもない…。俄然、子供の味方・見方です。今は。)

 

大人に限らず、人は、自分の知らないものに対して恐怖や不安を抱く。

大人の理屈としては、ネットやSNSは良く分からないから危ない✖、だから子供には極力やらせたくない。そんな感じだと思う。

危ないからダメ。確かにそうだ。ネットもSNSも危ない世界でもある。だけどこれによって社会が凄まじいスピードで変化し、豊かになったのも、また事実だ。

 

正直、スマホは今やライフライン。ガス、水道、電気と同じレベルだ。

それでもなお、ダメだと思うのであれば、いっそのこと、一度、電気のない暮らしをしてみたらいいと思う。あくまでも、ものの例えですけれど。

 

そう。時代は変わった、ただそれだけのこと。

変革した社会に生きている以上、自分もそこに適応していかねば、いつか取り残されてしまうだろう。

例えば仕事で、プレゼン資料作ってと誰かにお願いしたとしよう。パソコンが使えないからって手書きで紙芝居みたいなやつ作ってきたら、ぶん殴りたくなるでしょ?

職種や場合によってはそれもアリだけど、稀。(でもインパクトは強いよね。笑)

 

これと同じなんじゃないのかなあ。

その道具が使えないから、他の道具でってわけにはいかない。使えるようにしていくじゃない。パソコンだって、普及したばかりの頃はそうだったでしょ?使っていくうちに、多少のトラブルがあっても、対処できるようにもなっただろうし。

具体的に何がどう危ないのか分かっていれば、どう対処すればいいのかも分かるだろう。分からないから、教えられない。ということで、例えば、学校ではスマホ禁止という謎の校則が出来るわけだよね。なんともお粗末だなと思う。

 

仕事と同じスタンスで子供に向かうのはちょっとズレるとは思う。そして確かに大人からすれば歳は下で子供なんだけど、一人の人間として、未来の大人として、捉えてみたらきっと違ってくると思う。

仕事で分からないことがあれば、部下だろうが先輩だろうが誰かに聞くのと同じで、知らないから教えてって子供に聞けばいい。教えてくれるかは、別だけど。

そうでなければ、自分で調べればいい。そして、子供と一緒に考えていけばいいのではなかろうか。

大人も変なプライド捨てて、もっと子供に歩みよればいいのにって思う。

 

おわりに

おわりにと言っても、今日のところのおわりに、です。

自分の思っていた半分しか書けていまへん。今日全部書ききる予定が、続く…というまさかの展開になった事をお許しください🙇

この文字数(6,000字越え)で、5時間ちかくかけてる。いつもの倍以上の時間を要してしまった。こんな予定じゃなかったのだけれど、つまるところ、乱暴なところが多々ありますが、これでもすっごく考え抜いて書いたのです。

 

あれこれ書いたけれど、私ももう大人になっちまったのだ。

きっと今の子供たちからすれば、私とて、子供たちの周りに居る大人となんら変わらないかもしれない。そう思う。

だけど、クマップさん🐻のTwitterを見て、どうしても書きたい!というか、書かなくちゃ!って変な使命感にかられたのだ。

どうしてでしょうね。

 

いじめっこ、いじめられっこ、あるいは我が子がいじめられている親からすれば、今日の私は、分かったような、うんと偉そうな顔をして書いているように映るかもしれない。

だから先に言っておこうと思います。(これは、匿名の特権だな!)

私は小学校・中学校と、約9年間、いじめられっ子だった。脅迫状という名のラブレターをもらった。そして、自ら命を絶とうと試みた。

 

だから私は身をもって知っている。

いじめたくなる気持ちを、いじめられる苦しさを、死にたくなる気持ちを、死ねなかった時の絶望感を。

その時に抱いた大人に対する嫌悪感や頼りなさ、考えの甘さ、安っぽい嘘くさい愛情を。

そして、大人の無力さと、自分の無力さを、私は知っている。

 

だけど、今、生きていて良かったと思っている。それだけです。

 

ギブアップ!体力が持たん。もう寝ます。

当事者として自分のことは明日書きますのでお許しを―。

今日のところはこの辺で。またにゃん🐈

 

ちょっと知りたい、これからの人生②【読書感想文】

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こんばんは。館長のにゃんちーです。

新年なので、やっぱり今年の事、色々考えるだろうと思うんです。本当は年末に紹介できれば良かったのですが。むむ。

ということで、今日は第二弾。

紹介につきネタバレは悪しからず🙇

 

 

はじめに

前回は石井ゆかりさんの『3年の星占い』を紹介しました。

前回の記事はこちらから。


今日紹介する本の著者も、石井ゆかりさんと同じように 「占い」の人です。

その名も しいたけ.さん。

占い続きなので怪しまれるかもしれませんが、占い妄信しているわけじゃないんです。

石井ゆかりさんもそうですが、私は、しいたけ.さんに至極憧れています。

しいたけ.さんの文章が大好きなんです。私にそこそこの知名度がついた暁には、絶対にしいたけ.さんに会いたい!と思うほどです。対談とか、しいたけ.さんの本の帯を書かせてもらったりしたら、もう有頂天です。

しいたけ.さんの占いもめっちゃあたる。ということで、私は普段から身近な人に、勝手にしいたけ.さん布教活動しているので、後程リンク張っておきます◎

 

さてと。

 

しいたけ. 『しいたけ.の部屋 ドアの外から幸せな予感を呼び込もう』

角川HPより拝借m(_ _)m

 

しいたけ.さんのエッセイ本となっております。

とは言え、タイトル通りで、しいたけ.さんとお茶しながら、ゆるゆるとお喋りしているかのような気分になります。

開運アドバイスなんていうと、急に胡散臭くなるのであれなのですが、こうしたら幸せになれる!!!!! みたいな押し付けがましさは、一切ありません。

(経験値から)僕はこう思うんですよねー、といった具合です。

 

このしいたけ.さんの文章を、絶妙な緩さととるか、曖昧ととるかは、読み手次第だと思っています。

ただ私はここを、しいたけ.さんの絶妙な緩さ=優しさ だと思っています。そこに物凄く魅力を感じるんです。どうしたら、こんなに優しく言えるんだろうって毎回思うのです。

 

優しさ という難題

にゃんちー こと私は、人に優しく「する」ことはできても、優しくは「言えない」んです。

選ぶ言葉にも問題があると思いますが、特に自分に熱量がある時ほど、語気は強まります。それは少なからず自覚しています。自覚しているにも関わらず、話していたり書いていたりするうちに、コントロール不可になってしまいます。

優しさとともに、冷静さや客観性も常に併せ持っていないと、本当の「優しさ」にはならないなと、つくづく思います。

 

そして、優しさって時と場合によって、振り返ってみると本当は優しくなかった、ってなることがある。これは、甘さと優しさの違いとも言い換えられます。甘やかしてしまったのか、優しくできたのか。このふたつは似て非なるものです。

 

更には人によって「優しさ」のハードルの高さも違う。万人に寄り添った言い方というのは、本当に難しいものがあると思うんです。

なにしろそれは、自分がこの図書館をやり始め、Twitterをやり始め、言葉を活字にして人に伝えることをした時から強く感じていることでもあります。

 

例えば、目の前の友達に対してであれば、その個人をよく知っているから、何て言っていいか分かるんです。

でも自分の発言が不特定多数に向けられた時、ぐっとハードルが上がる感覚が、私にはあります。本当に「みんな」に寄り添うことは出来るのか、という問題も、いつも付きまとっている気がしてなりません。

 

それでも、しいたけ.さんは、いつだって、誰にだって優しいんです。

この差はなんだろうと、いつも考えるのですが、今のところ私にはわかりません。笑

 

この本に限らず、ぜひ占いも読んでもらいたいです。(最後にしいたけ.さん関連のリンク貼っておきます)

占いを信じる、信じないは個人の自由です。当たるから読んでみて!ということではなくて、ぜひとも、しいたけ.さんの文章に触れてもらいたいんです。98%の優しさと、2%の毒気のある文章を知ってもらいたいという想いです。

ちなみに私はこの2%の毒気が病みつきになっています。(褒め言葉です)

 

『しいたけ.の部屋』は、本当に色々なことが書かれています。

しいたけ.さんの考えもあるし、個人相談に対する回答もあります。取り上げたいエッセンスが多すぎて、正直ここで何を紹介したらいいか迷って、もう何でもいいから読んでみてってぶん投げたくなるほどです。(この本に対する褒め言葉です。乱暴すぎますが💦)

ということで、今回は思うままに徒然方式でいきます。あちこち話が飛んだら、ごめんなさい。

 

運とかチャンスとか、運命とか

運が良かったり、悪かったり。誰しも、なんらか波があると思います。

チャンスを掴み取ることもあれば、うっかり、あるいは泣く泣く逃すこともある。

少し話がそれますが、私は今は亡き祖母から、チャンスの神様は前髪しかない、だから迷わず掴め!と教わりました。

この話を祖母から聞いた当時、まだ小学生だったリトルにゃんちーは、脳内でチャンスの神様を映像化しちゃったんです。ちょっと一緒に想像してみてください。

掴めるくらいだから、前髪だけは結構長め。貞子みたいな感じになっちゃう!怖い。

でも前髪以外はつるっぱげ・・・なのにそれを迷わず掴むの!?ただでさえ少ない髪の毛を、むしり取ってしまうかもしれない!?で・・・出来ない、と思いました。祖母からすれば、ものの例えだったはずなんですけどね。わはは。

 

話をもとに元して。

生きていれば色々あるものです。でもそれを「運命」の一言で片づけられてしまったら、何をどうしても逆らえない気がしてくると思います。

 

でもそうじゃない。

著書の中第1章は、運を味方につけるには、という副題がついています。

じゃあ、本題は何かというと・・・チャーハンに信頼される人になる、です。

ネーミングセンス!って思った方、ナイスツッコミです。

私は、しいたけ.さんの発信物はおそらくほとんど目を通しているので、ああ、あの話のことだなとピンと来るのですが、知らない人からしたら、なんら意味の分からないタイトルですよね。笑

でもそれをそのまま使うところが、好きです。なんだか、ただただ、しいたけ.さんへの告白文みたくなってきたので自重します。はい。

 

チャーハンに信頼されるひとになる(第1章)には、たくさん素敵な文章があるので、ちょっと引用させていただきます。

「運が良い」とか運命を動かす力って、奇跡を受動的にもらう力のことではなくて、信頼関係を大事にしていたから、あるとき「この人なら」と大きなプレゼントを渡されることなんじゃないかと個人的には考えています。

 

運命に愛される人は、ボコボコにされたとしても「戦ってやった」と笑っている人です。 

 

「成功とは、ある程度の努力を続けてきた個人にチャンスや状況が整い「当たりクジ」を引くということ 

 

ハズレクジって引く人にやさしいのです。・・・中略・・・

ハズレクジをどのように扱ってきたか。ハズレクジを捨てずに丁寧に扱ってきたのなら、その人がもつ実力以上に「ものを見るやさしさ」が備わっていくようにもなります。  

 

チャレンジによって与えられる結果に怯えるより、ただ夢中でやり続ける自分でいたほうがいいのです。つまり・・・中略・・・挑戦するなら、安心して「チャンスは逃せ!」なのです。 

 

引用過多でごめんなさい。

これでも選び抜いたんだ!書くより、読み直して選んでいた時間の方が長いくらいです。

 

引用で紹介した、これら全てに言えることがあります。

運命だろうが、運だろうが、はたまたチャンスだろうが、全てにおいて「努力は報われる、努力すればどうにでもなる、だから動け」という強引な背中をぐっと押すようなものではないのです。

 

失敗したって負けたって言い、それを笑い飛ばせるなら。笑い飛ばしたら、また戦えばいいんだよってことなんだと思っています。

 

成功を掴むってクジ引きみたいなものなんだけど、ハズレクジをも大事に出来るかどうか。絶対に当たりを引かねばならないわけじゃない。

クジ引きってじゃんけんと似ていて、そういうところで妙に勝負強い人っていると思うんです。私はじゃんけんめっちゃ弱いんですけど、じゃあそういう人が一生ハズレクジだけか、というとそうでもないと思っています。

私は不思議なことに、神社やお寺で引くクジはだいたい大吉なんです。でも何か物事がかかったくじ引きは、ほぼハズレを引いてしまう。何かかかっていると、途端に弱くなるようです、私は。

でもハズレクジを引いてきた分だけ、優しくなれると言ってもらえて涙ホロリでした。

 

そして、絶対に当たりくじを百発百中で引くだなんて、中身が分かりもしないのに、無理でもあります。だから、ある意味で運任せなのだけれど、そこでどれだけ腐らずにやり続けられるか、目の前のことに丁寧に、適度に向き合って取り組んでいけるかが鍵なんじゃないかと言われている気がしました。これを俗に、努力、というのかもしれません。

 

成功の話のくじ引きに通じるところがありますが、チャンスも同じで、チャレンジし続けるのであれば、チャンスは逃したっていいんだってことです。

まずそんな風に言ってくれる人は、しいたけ.さん以外に、私は知りません。どこぞの有名な経営者でもない、私の祖母でさえ、チャンスの神様の前髪を迷わず掴めと言っていたんですから。

どうしてそういう風潮とか思想が生まれたのか気になるところではありますが、チャンスを逃したからなんだ、ってことです。

無論、挑んだ方が成功率は上がるし、前髪掴みにかかる方が、チャンスの神様を掴める確率は上がります。それでも、自分の準備ができていなければ、大きなチャンスは、チャンスではなく、ただのプレッシャーになってしまいます。そして恐らくプレッシャーによって呆気なく負ける。するとチャレンジすることが怖くなると思うんです。

それって、悪循環じゃん。そんなくらいなら、いける時にいけ!ってことなんだと思ったんです。ただし、準備は怠るなってことだと思います。

それは決して、自分になんやかんや言い訳をして、チャレンジしないということではなくて、多分、チャレンジし続けていくうちに自分が成長して全てが整った時、おのずとチャンスの神様が来てくれるってことな気がするんです。そこまで続けられるかどうか、っていう話なんじゃないのかなって。

 

大器晩成 について

今、本当に時代の過渡期にあると思っています。

これは私が彼と話していたことですが、私も含め、ようやく、みんな、自分自身のことを大事にするという思想に切り替わってきている気がするんです。だから、企業の看板じゃなくて、自分のブランディングとか、個人で活躍するインフルエンサー呼ばれる人たちが賑やかになっているのではないかと。

そこで、この本にあった大器晩成についてに一文がすごく素敵だったので、悩める大人たちへお届けします。

遅めに咲いた花は、「みんなのおかげで咲き続けられる」という理屈を知っているから、ちょっとやそっとのことでは枯れない花になります。 

 

これは老若男女問わず、今まさに変わろうと何かチャレンジしている人達にとって、すごく温かくて希望の光になるような言葉だと思っています。

 

少なくとも、私にとってはそうでした。

この歳(年齢言わないけど)になって、ようやく自分の幸せって何だろうと考え、まだまだ陽の目を見ませんが、こうしてやりたいことを始め、いつかきっと咲くであろう自分の花を待ちわびています。待っているだけでは芽は出ませんから、せっせと水を差し、養分を与えて、大きくなーれ!って自分に声かけているようなところもあります。

でも心のどこかで早く形にしたい気持ち、何故だか生き急ぐふしがあって、突然おそろしく焦燥感にかられることも多いです。まだまだ模索中です。

 

唐突ですが、私の座右の銘は、桜梅桃李(おうばいとうり)です。桜、梅、桃、すもも、それぞれの花があるんだよってことです。だからみんな、それぞれの花があるんです。

そして、私の本名の漢字の1つ、その漢字の成り立ちが遅く実る稲からきているものがあります。だから自分のことをこっそり、大器晩成型だと思っています。稲が実る日を待ちわびていることもあって、桜梅桃李を自分の座右の銘としています。

(もっとも、単純にこの四字熟語の響きが可愛いというのもあります。えへへ)

まだどんな花なのか分からないけれど私には私の花がある。だとしたら、みんなにもそれぞれの花があるんです。そう思ったら、みんな尊いんだと思いました。

だから今年の座右の銘は、唯我独尊です。自惚れの意味で使われることが多い言葉ですが、仏教において本当の教えは違います。

 

もう、生きてるだけで凄い!みたいなことなんです。でも本当に、それだけで、尊いんです。

大器晩成っていいつつ、遅すぎる!って思うこともあると思います。植物だって成長度合いは違います。同じように人間だってそうです。多分、花が咲いた時、それは自分にとってベストなタイミングで、一番きれいに咲けるタイミングだったんだと思います。

そして、薔薇のように派手な花かもしれないし、タンポポみたいに強いけど地味目な花かもしれません。それは、咲くまでのお楽しみでいいんじゃないでしょうか。

どんな花が咲くのかな?って考えると、ちょっとワクワクしませんか?

 

おわりに

嘘みたいですけど、本の1章のうちのごく僅かな部分しか紹介出来ていません!なのに優に5000字を超えてしまったので、〆に入りたいと思います。

信じられない終わり方だ・・・。ご要望があれば、続きを紹介します、マジで。この本についてもうちょっと聞きたいという方、ブログにお問合せフォーム作ったので、良かったらご意見をお送りください🙇

 

本当にごく一部しか紹介できていませんが、こんな風に、しいたけ.さんの愛と優しさいっぱいの本になっています。ほっこりする本です。

本の最後にはちょっと、しいたけ.さんの面白エピソードも載っています。面白エピソードなんて書きましたけど、こうやって曝け出すのは相当な勇気がいるのもです。

思わず笑ってしまいましたが、最後のエピソードを読んで、しいたけ.さんの優しさの源泉が分かった気がしました。

そして、見えないけれど、みんな「何かしら抱えて生きている」ということを改めて感じました。これについては、また後日。

 

では、最後にしいたけさん情報をぶわーっと。

blog:https://ameblo.jp/shiitake-uranai-desuyo/

note:https://shiitakeofficial.com/

Twitter:しいたけ.(@shiitake7919)さん | Twitter

占い:しいたけ占い | 占い | VOGUE GIRL

 

気になった方は、どうぞ◎

 

今日はこのへんで。またにゃん🐈

 

near2図書館のこだわり

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こんばんは。館長のにゃんちーです。

つい先日、この図書館をどうしていこうか(まだきちんと工事も終わっていないのに)とっても考えました。

自分ではどうにもならなくて、相談したのです。

私にはnear2図書館(つまりはこのblog)に対して、どうしても譲れないこだわりがあるんだ。でもそれがジレンマなんだと。

でもそのこだわりって言われないと誰も気が付かないよ!と言われてハッとしました。

というわけで、今ここに書いています。

今日はそんな私の、ここに対するこだわりのお話です。

 

 

その本、読んでみたい!って思ってもらえるのが一番!!

びっくりマークが多すぎる。笑

私がここを始めたのにはいくつかの理由がありますが、一番はこれなんです。

道筋はどうであれ、最終的にここに来てくれた皆さんが、「その本、面白そう!」って思ってもらえたら嬉しいんです。

その時でなくていいから、いつか何かをきっかけに、ここで紹介された本を手にとってもらえたら一番嬉しいんです。

 

もはやここにある本を読まなくたっていい。

同じようなことに悩んでいる人の道しるべになったり、全然関係ないけれどこれを読んでビジネスのヒントを得たりだとか。

何かのきっかけになれたら本望なのです。

 

この図書館(blog)に 広告がない理由

これは言わないと気が付かないよ、との指摘を受けたのであえて書きます。

そりゃblogが金の成る木になればいいのかもしれません。

世にいうブロガーさん達は、SEOという何の予告もなしに変わるGoogle先生の気まぐれと戦いながら、アクセスを伸ばし、そして勝ち取っているんです。それって本当に凄いことです。

だから私はblog=収益を否定するつもりはありません。正直なところ、アドセンス申請もしたし、楽天のアフェリエイト申請もしています。たくさん悩んだけれど、結局私はここに広告を1つも載せていません。

 

その理由は、ただ1つです。

自分の書いた記事を、最後まで読んでもらいたいから です。

他にありません。

 

そもそもblogって、記事のあちこちに広告が入っているのが普通です。

ハテナに限らずアメブロなど、無料で作ったblogはその運営者のお金にこそなりませんが、blog内には勝手に広告が入ります。

この広告を自分の収益とするには、有料でblogを立ち上げて、自分の狙った広告を張り付けていく。お金の流れが違えど、どちらも広告があるという点では同じです。

 

私が他のblogを読んだとき、気になった広告があれば、たとえ記事の途中でも広告をポチってしまいます。記事の途中で広告に興味が湧いてしまった時、私の場合は最後まで記事を読むことの方が少ない。(ぶっちゃけ、ないに等しい)

きっと、ここに広告があったら、ここに来てくれた方だって同じ流れになると思ったんです。

ということは、どうなるか。

広告を貼れば確かにお金にはなるかもしれないけれど、せっかく書いた記事は、最後まで読んでもらえない。その可能性が高いのではないか、と判断しました。

 

私の目的は、ここを収益化することではなくて、書いたものを読んでもらう事にあります。

本そのものの紹介だったり、ADHDのことだったり、自分の価値観だったり。

私の本の感想だったり、読書の後の自分の心の揺れだったり。

ただただ、好きな事をしているに過ぎません。だからこそ、障害も含めて私のこと知ってもらいたいし、私が素敵だなって思った本のことを伝えたいんです。

綺麗事でも構わない。

それでもいいから、自分の記事を最後まで目を通してもらうことを優先したかったんです。

 

傍からすれば、どうでもいい 私のこだわり

さきの広告がまさにそうです。

傍から見たら、ただの私のこだわりにすぎず、本当に些細なことです。でも困ったことに、絶対に譲れない。

 

ハテナblogの場合、記事から広告を外すには有料化しなければなりません。ということは、ぶっちゃけこの図書館、赤字なのだにゃん🐈

独自ドメイン、サーバーのレンタルと費用かけちゃったもので。

いくら好きでやっているとは言えど、会社で考えればそこに経費が発生しているわけで、どこかで帳尻合わせしていかねばならないのかもしれません…。広告を貼らない以外の方法が、今の私には思いつきませんが💦

 

これって、ここに来てくれる人からすれば、本当に些細なことなんだと思うんです。

でもちょっと大袈裟かもしれませんが、気持ち良く、快適に読んで欲しい。いわばおもてなし感覚なのかもしれません。自己満足です。

最後まで読んでもらえればいいわけだから、もしかしたら、広告の有無は関係ないのかもしれないですし。うむ。

 

 

それから、もう1つ。

どうしても「書評」はしたくないのです。そして、私が素敵だなって思った本しか、今のところは紹介したくないのです。

それは、使ってもいない商品を進めるようなものだから。その無責任さに、自分が耐えられないんです。

もっと言うと紹介する自信がない、と言った方が正しいかもしれません。自分が何も分からなかった、何も感じなかった本を、一体どう伝えていいのか分からないからです。今の私の読書力はその程度、ということでもあります。

 

正直、ここに私が読書感想文を書かなくたって、本の良し悪しを判断するくらいであれば、Amazonのレビューでいいのかもしれません。

 

勿論、私には、今のところ良さが分からなかった本もあります。でも例えば3年後、同じ本を読んだ時、きっと感じることは違うかもしれない。もしかしたら、良さが発見できるかもしれない。

そして、「今は分からなかった」ということが、分かった、ということで良いとそう思っています。読み返してみて良さが分かった時は、追記するなりリライトできるのが、ここの図書館の良いところですしね◎

 

 

さいごに

ただただ、本を読んで自分が何を思って、何を感じたのか。自分の心のわずかな揺らぎをそのまま伝えていきたい。

そうすることで、「本を読む」ということの素晴らしさを伝えていきたいんです。

出来れば、本を読まない人にも、それを伝えたい。

本を読む時間がなかったり、特に小説なんて「読み方」とでも言うのかどう読めばいいのか分からなかったりすると思うんです。本を読まない人にとってはなおのこと。

だから、私がどんな風に読んで、何を感じたのかを、つたない文章かもしれないけれど、そのまま伝えていったらどうだろうかと。

本の要約であれば、ググったらいくらでも出てくると思うんです。でも、個々に何を感じたのかその過程そのままを知るのは難しいじゃないかな、と。

それが見えたら、面白いんじゃないのかなって。

 

本当に図書館、やりたいんです。

今のところ「図書館」という名前だけれど、今の公共図書館のようなものではなくて、図書館と本屋さんの中間地点を目指しています。読みたい!って思ってくれた本を買えるような道筋を考えなければなりません。

もしかしたら、私が書き込みをいれた本が欲しいと思う人がいるのかもしれない。今のところそれは中古本で傷本になるわけだけど、そこに価値があるなら、新しいプラットフォームが必要かもしれません。*1

 

嗚呼、恐ろしくまとまりのない終わり方になってしまいましたが、こんな気持ちで、ここで館長をやっています。

 

今日のところはこの辺で。またにゃん🐈

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:キンコン西野さんがやっている「しるし書店」というものがあります。実のところ正に「しるし書店」は書き込みをいれた本を売ることのできるプラットフォームです。でも「しるし書店」をするにはFacebookが必要なのです。私は諸事情によりFacebookアカウント削除しているので、実名でなんて猶更できないんです

ちょっと知りたい、これからの人生①【読書感想文】

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🎍明けましておめでとうございます🎍

館長のにゃんちーです。どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。

 

それではさっそく。

今日は頭の中の本棚が、半分をしめそうです。

 

 

 

はじめに (本の紹介の前に少し。例えば初詣)

初詣、行ったかにゃ?🐈

 

おみくじは引きましたか??

神社でもお寺でもいいのだけれど、初詣行くとおみくじ引きますよね、きっと。

(うちの近所の神社はおみくじ、置いてないんだよ・・・トホホ)

 

おみくじに限らずではありますが、そういったおみくじのような啓示や、占いの類って、当たるも八卦当たらぬも八卦みないたとこがある。

その時の運、とでも言えばいいでしょうか。

そんなこと、頭では分かっているのに、初詣に行くと、やっぱりおみくじ引いちゃう。

 

 

初詣って、ちょっと特殊な風習だと思うんです。

それはなぜか。

理由は2つ。

 

1つめ。日常的に神社やお寺に行かない人でも、何故か初詣には行くという年明けのイベント要素満載なこと。

そして2つ目。わざわざ遠出して初詣に行くことも多く、せっかく来たんだから!というお土産要素(あるいは思い出要素)がある発生すること。

 

これって、日常的に同じ神社やお寺に参拝していたら、こんな盛り上がりにはなりません。

 

だから初詣のおみくじって、日本人が割と気にする「占い」みたいなもの。

本当に神様からの啓示だなんて思っているのは少数派で、占いとなんら区別ないと思うんです。

 

 

日本人の信仰心、日本人にとって神様って

日本人の多くは信仰している宗教を持っていない。

自分の家系は例えば仏教だったとして、その菩提寺(ぼだいじ)はどこで、仏教の中でも宗派は何かまで知っている人って、おそらくめっちゃ少ない。

(うちは曹洞宗だにゃん🐈 ちなみに菩提寺の坊さんは、坊さん兼会社員にゃ。流行りの兼業ではなく、後継いだ時からずーっと兼業で坊さん。お寺も大変らしい。)

 

仏教のなかでも様々な宗派があるし、神道なのか、キリスト教なのか。他、いろいろな宗教がありますが、特別何かを信仰している人って、どういう訳か日本では珍しい。

 

じゃあ、日本人は神様仏様を信じていないのかというのはあまりに愚問で、(ただし結構な確率で自分の都合よく)神様仏様は信じている。

 

歴史的な背景があるのでここでは割愛しますが、宗教としては違うものなのに、神仏の区別がない。これを神仏習合と言います。この言葉のほうが、案外馴染みがあるかもしれません。

実際この神仏習合の名残は今でも残っていることが多く、お寺の敷地内に鳥居⛩があることがあります。

 

思い出してみてください。

お寺の敷地に入る時、鳥居⛩くぐりますか?

 

そう。くぐらない。

鳥居は神社の象徴なので、お寺の敷地内にあるのは、本当はおかしいんですよ。

でもずっと昔は、坊さんが神社のお世話もしていたんです。本当に神様も仏様も一緒だったんです。二つの宗教が共存しているのって、よその国から見たら異様な光景なのかもしれません。

 

この日本人の信仰心のなさとか、神仏の区別がないところとかって、良くとらえれば、八百万神(やおよろずのかみ)の精神。森羅万象すべてに神が宿る。

だから、例えば受験前に「だけ」、神様お願い!ってお参りに行く。笑

でも受かったからって、ありがとうとお礼参りには行かない。そういうところ、自分の都合よく神様登場するよね。くくくっ。

 

だから、おみくじがある。そして、それをみんなつい引いてしまう。

 

 

占い好き大国の日本

よく言われるのは血液型占いだよね。他国からすると謎過ぎるらしい。

血液型なんて4つしか種類ないのに!?って、毎回思う。いや、本当に。

血液型×占いって強引すぎるし、そもそも4種類しかないわけで、しかも日本人ってA型とO型が人口のほとんどを占めているわけさ。

情報操作感が半端ない・・・これは匂う。国民の圧倒的多数になるであろうA型とO型が賛同してくれれば市場は動くわけだから。

もしかして、血液型占いってそういう仕組みなのかもしれないにゃ!と、書いていて思ったわ。今。

 

ちょっと脱線しちゃったけれど、まあ血液型に始まり、いろんな占いがあるわけだ。

年末年始に賑わいを見せる(とりわけ雑誌)、それが 占い!!ででん!

 

初詣のおみくじがいい例だと思うけれど、本当はやっぱりみんな、自分の1年がどうなるのか、あるいはこれから先どうなっていくのか知りたいという心理からくる行動だと思うんです。

もう少し言ってしまえば、みんなそれだけ自分の未来に「不安」なのです。

 

ということで・・・

 

 

石井ゆかり 『3年の星占い 2018-2020』

 


ということで、おみくじ心理もあることだし、新年だし、たまにはこんな本も良かろうかと。まさかの占いの本。

 

ここに張り付けているリンク↑は射手座ですが、この石井ゆかりの『3年の星占い』は12星座ごとで1冊になっています。

自分の星座だけを読むもよし。

家族、彼氏彼女の星座も盗み読むでもよし。にやにや。(言い方!笑)

 

この本、占星術による3年間の見通し図、といったところです。

石井ゆかりさん、Hatenaブログで筋トレという謎なタイトルの週報もあるので、リンク張っておきます◎

筋トレ 

この親サイトから、自分の星座をクリックすると、Hatenaブログで自分の星座の筋トレ週報が読めまする◎

 

 

私の推しメン 石井ゆかりさん その理由

さて、私の推しメン、石井ゆかりさんなのですが、占星術を独学で学んだそうな。自分で学べるものなのか!?とびっくり。本も週報もですが、とても独学とは思えないほどの内容です。

 

こんなに推してますが、それでも私は基本的なスタンスとして、占いは、当たるも八卦当たらぬも八卦、だと思っています。

だから占いありきの日々を送っているわけではないんです。自分の良いように使わさせてもらってる、という感じです。

 

私が彼女の占いが好きなのには、理由があります。

まずもって彼女の文章そのものが好き!これにつきる。時々汲むに汲めないこともありますが、彼女の表現は本当に独特です。時に哲学的です。時に物語を読んでいるかのような気分になることもあります。

文学とは違うので、そこを稚拙だな、幼稚だなって思う人もいるのかもしれません。

でも彼女の熱量はとてもよく伝わってきます。

彼女が今星の並びを通して見ている感覚を、どうやって不特定多数いるその星座の人に伝えられるのか・・・悪戦苦闘しているのがありありと浮かぶくらい、必死に伝えようとしてくれるんです。

 

だからでしょうか。

彼女の文章はいつも控えめ。ちょっと自信なさげな時もある。

決して結論を押し付けてくるようなことがないのです。

断言できないという事は、曖昧さでもあり不安にさせる要素かもしれませんが、あんまり強く言い切られても、逆に困ることもあるじゃない?

そういう意味で、彼女の文章は私にとってはとても良い塩梅(あんばい)なのです。

一生懸命さが愛らしい。なんだかそこに、親近感も沸くんです。

 

 

過去を振り返っても仕方ないのですが、時間は続いています。結局のところ2018年からの地続きで2019年の時間があるのです。

 

だとしたら、どんな年だったのか気になりませんか? にやにや。

そのうえで、今年ってどんな年なんだろう。そしてその先には何が待っているのか。

 

当たるとか当たらないとか、運が良いとか悪いとかじゃないんです。

どういうモチベーションでいられるか、どういう時の流れの中にいるのか。それが分かるだけで、ちょっと違うのかもしれないと思うんです。

そのくらいフラットな気持ちで、ぜひ読んでみてください。

きっとこれからにワクワクしてきます。そして仮に去年がしんどかった1年だったとしても、案外納得できちゃったりします。

 

私はこの本を、忘れたころに、ふと、読み返します。

不思議と読み返したくなる時があるのです。正直なところ、いつも当たってる。笑

そういう時は自分にこう言います。

今、ちゃんと波に乗ってるわ!大丈夫だ。って。

 

 

さて。今日はこの辺で。

またにゃん。

 

年越し蕎麦【図書館便り】

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こんにちは。館長のにゃんちーです。

 

年の瀬ですねー。大晦日ですにゃ。いかがお過ごしでしょうか。

ということで、今日のお便りは・・・

 

年越し蕎麦

諸説ありますが、お蕎麦の、「細く長く」ということから、健康長寿や家運長命などを願った縁起物とされているのが一般的なのかもしれません。

ちなみに、引っ越し蕎麦もこれと同じような感じですよね◎

 

もう一つ紹介したいのが、こちら。

お蕎麦は他の麺より切れやすいことから、「一年の災厄を断ち切る」という意味もあるのです。

どうやら江戸時代には年越し蕎麦の文化は定着していたのだそうです。

 

はてさて、この年越し蕎麦、いつ食べるのか問題。

大晦日のうちに食べればOKなんじゃなかろうかと思います。

厄を断ち切る、というのをふまえると食べながら年越しをしてしまうと、厄も一緒に年越しちゃいそうです・・・。(縁起でもない!)

晩ご飯でもいいし、年の瀬でもいいし、大晦日のうちに是非◎

 

お蕎麦食べながら、一年を振り返り、明くる年の健康長寿を祈る。

年越し蕎麦って、なんだかとても素敵な風習な気がします。

 

にゃんちーこと私は、ゆく年くる年を見ながら、年越し蕎麦を食べていた気がします。だから小さい頃は、眠くて眠くて・・・うとうとしながらお蕎麦食べてました。

 

 

暮れのご挨拶

始めたばかりで、しかも工事中の当館。

それでも、たった2ヶ月でたくさんの方にお越しいただけて、本当に嬉しかったです。

茂木さんに、ここに蔵書した『ペンチメント』の感想に感動してもらえたことも、本当に嬉しかったです。

ここを始めて、色んな出会いがありました。

ただただ好きで始めたけれど、始めてなければなかった出会いです。感謝感謝です。

 

とはいえ、もっつりこっつりで亀の歩みです🐢

当館の設備工事(記事整理など)、そもそも本を読むこと、そして蔵書(記事投稿)。

ペースダウン気味だなあ・・・、楽しみにしてくれている方には申し訳ないなと思いつつ、自分が楽しく続けられるようにしていきたいと思っています。

お蕎麦の如く、細く長く続けていきたいです。

 

本を読むということの楽しさとか、面白さを伝えられたらいいなって。

本を読んで考えるということの意味、それは読書の本質だと考えているので、そこに迫っていければいいなって思っています。だから私の読書感想文をここに収めていく。

 

特別な1冊に出会ってもらえたら本望です。

そうでなくても、本屋さんに行った時にふとここでの記事を思い出してもらえたりとか、悩んだ時にそういえば・・・とここで紹介した本を思い出してもらえたりとか、そんな感じが一番いいなと思っています。

 

ということで、本年も、本当にありがとうございました◎

来年はもうちょっとスピードアップしていきたいと思います。じゃないと、本当にサグラダファミリアになっちゃう!笑

 

ではでは。皆さま、良いお年を✨

 

「死」それは生き物すべてにやってくる平等なもの【読書感想文】

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こんばんは。館長のにゃんちーです。

嗚呼、随分と久しぶりになってしまいました。ごめんなさい🙇

年の瀬、うんと寒いですがみなさんお元気でしょうか。お仕事の方、受験生などなど。お疲れ様です。

 

ご覧の通りなのですが、図書館工事も滞っております。もう、本当に、にゃーにゃ図書館は、サグラダファミリアだと思ってください。少なくとも、私が生きているうちに完成はさせますので。はい。

 

 

さて、本日の1冊。

 

 

これは、出会ってしまったのだ

本当は全然違う本を探しに本屋さんに行ったのだけれど、絵本コーナーで出会ってしまったので引き取ってきた。

(まるで道端にいた捨て猫拾ったみたいに言ってますね。笑)

 

正直なところ、今日紹介する絵本の最初の一文を読んで、「これ、多分泣くやつだわ」って直観的に思ったので持ち帰った次第であります。

帰宅して読みましたが、案の定、泣きました。

音読もしてみました。途中からは嗚咽で読めませんでした。

鼻が詰まるくらいに、ボロボロになりました。

そして何回読んでも、どうしても泣いてしまうんです。不思議です。

 

毎度ではありますが、ご紹介につきネタバレです。悪しからず🙇

では、さっそく。

 

 

『くまとやまねこ』 湯本香樹実:文 酒井駒子:絵 河出書房新社

 

あしげく通ってくれているであろう勘のするどい方、きっとそれは正解です。

館長ことにゃんちー、酒井駒子さんの作品が大好きです。

少なくともここに蔵書した中ですでに2冊目になります。持っている本はもっとあります。紹介しきれていないというか、絵本を収蔵するときは、とても迷うのです。

 

当館所蔵の1冊はこちらをどうぞ◎


 

『くまとやまねこ』あらすじ

 


何しろこれは本当に、子供向けに書かれた絵本です。

ひらがなばかりですから、実のところ文量としては、あらすじも何も、まとめる必要がないくらい短いです。

せっかくなので、絵本の文とは違ったかたちで、いわば大人向けの文章として、それをあらすじとして書いてみます。

 

 

ある日、一羽のことりが死んでしまいます。

そのことりは、主人公のくま ととても仲良しでした。くまは悲しみにくれ、ことりを大事に箱にしまいます。それを宝箱でも持つかのように、どこに行くにも持ち歩きます。

でも森のみんなに言われます。ことりはもう戻ってこないから忘れなくちゃ、って。

くまは自分のお家にこもってしまいます。鍵をかけて。窓も占めて。

 

何日たったでしょうか、くまは窓を開けて外の匂いを嗅ぎます。何故だか、何もかもが新鮮でした。

そして、ことりを入れた箱をもて、ことりと一緒に森に出かけます。

 

そこで見慣れない やまねこ と出会います。

くまはやまねこが持っている変わった形の箱の中身を見せて欲しいとお願いします。すると、やまねこは、それならくまの持っている箱の中身も見せてくれたら良いよと言いました。

くまは、考えた挙句、自分の箱の中身を、やまねこに見せました。

やまねこの箱の中身は、バイオリンでした。

 

くまの箱の中身を見て、やまねこが、くまとことりのために1曲弾いてくれました。やまねこは、くまに、ことりのことは忘れなくちゃ、なんて言いませんでした。

 

やまねこは、旅をしながらバイオリンを弾くのがお仕事でした。やまねこはリュックサックからタンバリンを取り出し、一緒に行こうと、くまを誘います。

こうして、二人は友達になり、音楽団として旅にでるのでした。おわり。

 

こんな感じかにゃ?

ただし、実は心に響くところは、書いていません。話の流れには関係ないものだから。だけど、本当はそこを是非読んで欲しいと思うのであります。

 

 

そもそも 絵本(子ども向け)について 私が思うこと

子供向けの絵本って、色使いもそうなのだけれど、なぜだか明るいお話や、冒険をするようなお話が多いんです。(気のせいかな?)

生まれてたった数年しかたっていない、目に映るものすべてがキラキラして見える年ごろの子に、わざわざ暗いものを伝えなくてもいいのかもしれません。

 

だけど本当は、昼と夜とがあるように、物事にも人生にも、この世には少なくとも二つの局面があることを伝えたほうが良いのではないかと私は思っています。

それは、明るいほうが良くて暗いのはダメだ、というジャッジするわけじゃない。それは価値観の問題なので、それこそ子供が自分で考えるところです。

 

そしてこれは親のみならず、年齢の上下関係にありがちですが、歳が上だからって、年下に物事を「教えて」あげなくていい。「伝える」だけでいいんです。

教えるって、実は結構な上から目線だと思う。それは一歩間違えるとお節介なのだけれど、上から目線になっている本人は気が付かないので、厄介なのだ。

 

他にも子どもの絵本というと、お手伝いとか自立(トイレ行くとかそういうやつ)だったりでしょうか。

正直これは、完全に大人の都合な気がします。ある種の洗脳というか、別にお手伝いなんて絵本で刷りこまなくても実生活でやればいいし、自立なんてもんは時が来れば勝手に巣立っていくと思うのです。

 

大人向けの書籍にもブームがあるように(今はビジネス書・自己啓発本がブームですね)、絵本にもブームがあります。

だけれど、きっと今の大人たちも読んだであろう、そうやって長きにわたり読み継がれている絵本というのは、実は少なくて、そして実に核心をついたものばかりです。

子ども向けに書かれているので、とても短くて、時に簡略化しすぎてひどく抽象的だったりもします。でもそこに想像の余地があり、子供が自分で考えられる余白があるんです。

子どもが大きくなっていく成長という時間のなかで、子供が自らその答えを見つけ出していく。あくまで絵本というのは、「伝える」役目なのであって、いわば子供にとって頭か心の片隅にちょこんと立つ標識くらいがちょうど良いのではないかと思っています。

 

すごく個人的ですが、教育という言葉もあまり好きではありません。「教え育む」ととるのか、「教え育てる」ととるのかで、だいぶ意味が変わってくるからです。

これについては、ここ数年言われるようになりましたが、当館(そして私)として「育む」を推奨したいです。「教え」の部分はともかくとして。

 

ああ、物凄く脱線してしまった。(にゃーにゃ図書館あるあるだな、これは)

 

 

「死」という全ての生き物にある平等なもの 

子供向けの絵本の中でも、異色だと思います。

この絵本の冒頭の一文はこうです。

ある朝、くまは ないていました。なかよしのことりが、しんでしまったのです。 

 

そうなの。「死」から始まる物語なのだ。

この一文を読んだだけで買った私。私にはこの、たった一文があまりにも衝撃的でした。そして、これを読んで真っ先に浮かんだ絵本があります。それはあまりにも有名ですが、『百万回生きたねこ』です。

この世にあるすべての絵本にを読んだわけではないので、言いきれませんが、少なくとも、「死」を扱った絵本が極端に少ないのは、事実です。

 

もしかすると、この絵本を読むであろう子供は、まだ「死」というものを、知らないかもしれません。言葉としても知らないかもしれないし、身近な人の「死」という体験をしている子供は稀なのかもしれません。

 

だけれど、人間のみならず、生き物全てに必ずやってくるものが「生」と「死」です。

これは自然界で唯一といっていい「平等」なものだと思うのです。

しかし困ったことに、「死」はいつ来るのか、個体ごとに違い、誰にも分りません。ただ言えるのは、「死」はいつか必ずやってくるということだけです。

 

『百万回生きたねこ』は最後にねこが死んでしまいますが、この絵本は「死」からすべてが始まるというのが特殊だと感じています。

なぜなら、きっと子供たちは、「死」というものを分からないままに物語を読み進めていくことになるからです。

 

「死」は残酷なのかという問いかけ

あらすじに書いた通りではありますが、くまは、死んでしまった ことりを、箱にしまって大事にします。木で箱を作って、綺麗な色をつけ、中には花びらをしきつめるんです。

大人ならご存知の通り。くまのこの行為って、まるで棺に納めるかのようです。

悲しい気持ちだけれど、最期ぐらいうんと綺麗にしてあげたい。いや、綺麗に取っておきたい、そんな気持ちなのかもしれません。

 

だけれど、それを森の仲間には「つらいけど、忘れなくちゃ」と言われてしまう。

くまは

いつも『きょうの朝』にいるんだ。ずっとずっと一緒に

ことり といるんだと思っていたのに。

それが突然、いなくなってしまうだなんて、くまは知りもしなかったのに。

忘れなくちゃ。

嗚呼、なんて無慈悲で無意味な励ましなんだろうか。森の仲間たちに悪気はないのだけれど、私は胸のなかをぎゅっと握りつぶされたような気分になった。

 

突然にくる「死」。

 

それは残酷なことなのだろうか。「死」そのものを知らされないことの方が、実はずっと残酷なのではなかろうか。

子どもが、お母さんが、お父さんが、兄弟やお友達が、明日も明後日もずっとずっと生きているものだと思っていたとしたら。

勿論、成長とともに「死」があることくらい知るようになる。

でも、私が小学生のころでさえ(つまり数十年も前)、死んでも生き返ると思っている子供がかなりの数いるという統計データがでたという新聞記事を読んだ。この当時は明らかにゲームの影響だったと思うけれど、つまるところ、本当の「死」というのを、誰も教えてくれなかったということなのだと思う。

 

大人って、社会っていつまでたっても、こうだ。

本当のことはいつだって隠していて、肝心なことは子供に伝えてくれない。

 

 

「死」 その悲しみの先にあるもの

それからもう1つ。

例えばこの絵本でいうと、くまは ことり のことを、忘れなくてはいけないのだろうか。忘れてしまっては、くまにとって確かにあった ことりの存在も、一緒に過ごした時間も、本当の意味で消えてなくなってしまうのに?

 

「死」という悲しみに包まれたものを、味わい尽くしてはいけないのだろうか。

それは本当の味覚で例えれば、苦みだったり渋みだったり、しょっぱかったりするかもしれない。それもひどく長いこと口に残る、まずい味かもしれない。

だけれど、その「死」という悲しみの味を味わうことなく、忘れる?出来る?

 

私は、出来ない。

 

「死」を受け入れるって、並大抵の心構えじゃできない。

でも不思議なもので、「死」だけじゃないけれど、自分の力ではどうしようもない困難災難が降りかかった時って、その時の自分の気持ちに力ずくで蓋をして、見て見ぬふりをすることができてしまう。ただ厄介なことに、蓋をしたはずの気持ちは、いつの間にか自分の中でどんどん膨らんでいって、しこりになって、ついには取れなくなっちゃって、ふとした時にズキズキ痛む古傷のようになる。

忘れたころにズキズキ痛むもんだから、「あの瞬間」という過去の一点に一気に引き戻される。ともすれば「あの瞬間」から、ずっと自分の中の時計が止まったままになってしまう。

 

「死」を受け入れる。

それは、「もう居ない」という現実を事実として受け入れる、そして心底悲しいという自分の気持ちをも受け入れる。

ただただ悲しいという気持ちから、「もう居ない」人と過ごした確かな時間を、1枚1枚写真をアルバムにしまうように、思い出という形に昇華させていく丁寧な作業と時間が必要なのだ。

 

悲しみの先にあるもの。

それは、ずっとずっと大事にしたい、ふと蓋を開けて眺めたくなるような、「思い出」という宝箱なのだと思う。優しいスープみたいな温かいもの。

悲しみを味わい尽くした後にしか作ることが出来ない、特別なものじゃないんだろうか。

悲しみの前にあったものを、苦いまずい味を味わったあと、悲しみの先へと大事に大事に運んでいく。それは自分にとっての、心のスープみたいなもんだ。そうしてようやく、前を向く活力を得ていくんじゃないのかなあ。

 

 

おわりに タイトルの素晴らしさ

ずっとずっと悲しんでいても進まない、それは正論だ。

正論だけれど、現実から目を背けていても仕方がないってことは自分で気が付くしかない。

そして、アルバムを整理するのにどれぐらいの時間がかかるのか、本人だってわかりっこないのだから、悲しみという苦みを味わう時間を他人が無暗に奪っていいとは、私は思わない。アルバム整理のお手伝いが出来たらいいな、とは思うけれど。

 

だから、どんなに時間がかかってもいい。

たくさんの時間がかかるということは、それだけ大事だった証拠なのだと思う。

だから時間がかかってもいいから、「忘れないで」と言いたい。きっと今は悲しくて何も手につかなくて、ごはんも喉を通らないかもしれない。だけど、本当にちょっとずつでいいから、あなたの中にだけある「確かに一緒にすごした時間」を思い出して、丁寧にアルバムにしまっていくんだ。

 

繰り返しになってしまうけれど、「今はもう居ない」その人と、一緒にいたという確かな時間は、もうあなたの心の中にしかないのだから、どうか「忘れないで」と伝えたい。

 

そうして出来た、優しくて温かい心のスープを飲み干してみて。

この絵本のくまは、こんな風に言っていたよ。

ぼく、もうめそめそしないよ。だって、ぼくとことりは ずっとずっと友だちなんだ

 

やまねこは、くまとことり、ふたりにあった「確かな時間」を想って、バイオリンを弾いてくれた。

やまねこは、言葉では言わなかったけれど、くまとことりの思い出を大事にしてねって、ほら思い出してごらんって。ずっとずっと忘れないであげてって言ってくれたんだと思うんだ。

 

それから。

実はやまねこが差し出したタンバリンは、手の跡がたくさんついて茶色になっていたんだ。そしてくまは、やまねこにもむかしの友だちがいたのかなって思う。でもくまは、それをやまねこに聞かなかったんだ。かわりにこう言った。

ぼく、れんしゅうするよ。おどりながら、タンバリンをたたけるようになりたいな

 

そして、出会ったばかりの やまねこと一緒にタンバリンを持って、旅に出る。

 

絵本のタイトルはとてもシンプルだ。でもとても素敵だ。

くまとことり、じゃないんだ。

くまとやまねこ、なんだよ。

「死」という悲しみを乗り越えた先にあるものを、悲しみはずっと続くわけではないということを、実は教えてくれていたのだ。

 

 

今日のところはこの辺で。

お察しいただけるかもしれませんが、書くために読み返すわけでして、したがってやっぱり泣いちゃうのでした。ぐすん。

またにゃん。

ただ相手の為に尽くしているのか、それとも尽くしたいのか。【読書、そのあと】

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おはようございます。館長のにゃんちーです。

少し前ですが、ずーっと心の中が悶々としていました。悶々と悩むきっかけも本だったし、悶々とした霧がはれたきっかけも本でした。まるで恋煩い。なんちって。

 

書きたいな、書きたいなと思って今日までひっぱってしまった。とほほ。

久しぶりの休みでひたすらぼけっとしていました。仕事のみならず、精神的にも全然余裕なくて、なんだか虚しく時間が過ぎてしまった!嗚呼、もう年末だよ。

 

さて、今日は・・・こんな内容で。

 

 

 

 

はじめに(前置きみたいなもの)

 

さてさて。

普段ここ、near2(にゃーにゃ)図書館に、本と一緒に収めている私の書く読書感想文は、その本を読んだその時に思ったことを書いています。どちらかというと、私の中では文章読解に近いです。何しろ、たいがい「その本」についてしか書いていないから。

 

今日のこれを「読書、そのあと」としたのは、本を読んで、それから後の過ぎ行く時間の中で見つけた、自分のお話だからです。

本を読んだ直後ではなくて、本を読んだ後に自分に落とし込んだ時、内側の自分とお話したときに何を考え、どう感じたのかというお話です。

 

それはブランコみたいにゆらゆらしていて、傍からすれば、まるで私は言葉に振り回されているように見えるかもしれません。

本を読んでは悩んで、本を読んでは嬉しくなって、そんな風に一喜一憂する姿は、とても滑稽に、あるいは哀れに見えるかもしれません。

 

でもこうして、本の後味を感じていく中で、自分が何をどう考え、何を悩み、そしてどういう気持ちになったのか。そしてそれを自分はどう捉えて、また次の本によって、どんな風に気持ちや考えが変わっていったのか。

その不安定さとか、揺れ動くさまを(糞が付くほど恥ずかしいけれど)お届けします。

 

この「読書、そのあと」について書くときは、きっと時差があります。次の本に出合う時間までにどれだけかかるのか、それは私にもわかりません。

どんな本だったか、その時は私はどう思っていたのか分かったほうが、もっと伝わるかもしれないという希望を込めて、本を読んだ時の【読書感想文】のリンクは必ず貼っておきます。

私の読書感想文を読まなくたって、その本自体をご存じであればきっと読める。(ように書くよう努めます・・・。)

 

あ、あくまでも館長ことにゃんちー、私の場合はっていう途轍(とてつ)もなく個人的な、ほんの一例です。悪しからず。

 

本の余韻をどう楽しむか。

本を何冊も読んでいくと、点と点が繋がる瞬間があるんだってこと。それは点と点が繋がって線になることもあれば、点と点が繋がってまるで小惑星がぶつかるみたいに小さな爆発を起こすこともあります。

 

それが伝われば嬉しいにゃーと思っています。

 

ということで、始めます。どきどき。

 

 

『悲しみよ、こんにちは』 の余韻

いつもの読書感想文はこちらからどうぞ。

 

 

これを読んでからずっと、何かが頭に張り付いていました。

その正体は、今の私は、卒業したはずのちょっと前の私に逆戻りしてやしないか、という今の自分に対する懐疑的な眼差しでした。

 

 

この本の主人公セシル(女の子)の周りの人達は、彼女にどんな形であれ尽くしているんです。

客観的に見れば、彼女に利用されうまく操らられていて、それでいて本人達が自らの意思でセシルに尽くしているかのようにも見えるんです。

 

私は、この周りの人達、特にセシルのボーイフレンドのシリルと過去の自分に重なってしまった。

この本で言うなれば、シリルはセシル、彼女が好きだから尽くしているのか。それとも、彼女が求めるがままに自己犠牲というかたちで尽くしているのか。

 

この違いはとてつもなく大きいのだ。

彼女が好き、愛してるから、という自分の気持ちから湧き上がる自由意志(自分の心)に突き動かされての行動なのか。

それとも、単に彼女の言いなりで自分の意思や気持ちがない、あるいは例えば尽くさなければ捨てられるという不安から動くのか。

 

行動だけみれば同じ「尽くす」なのだが、そこに自分の意志や気持ちがあるのかないのかでは、全く異なる。

 

ちょっと前の私はまるでシリルだった。

人の期待に応えるだとか、尽くすだとかしているうちに自分の気持ちなんかどっかいっちゃって、自分の心の所在が分からなくなってしまった。そんな状態にあることを、自分で認識すら出来なくなっていた。

だから誰かにどんなに尽くしても、何故だか全く満たされなかった。

 

ここから負のループで、私はまだまだ自分の行動や努力が足りないんだと自己否定になり、ひたすら尽くすという行為に走る。

そして私が言わなくても何でもやっちゃうもんだから、相手はどんどん突き上がって肥大化してゆく。

気がつけば、相手は お前がやって当たり前モンスター、欲しがりモンスターと化していった。

 

はたと気づいた時には既に遅かった。

私はすればする程、自分の気持ちがすり減っていっていたのだ。

そしてモンスターは歯止めがきかないほど傲慢になっていて、持て余したパワーを、私を攻撃することで発散するようになっていた。

 

この時の私は、本当にズタボロだった。

心だけじゃなくて、思考も正常じゃなかったし、実際身体はズタボロになっていた。

それでも自分では分からなくて、何でもかんでも、私が悪いと思っていた。私はもっともっと頑張らなくちゃ星人になっていた。

振り返れば、私は奴隷のようだった。

 

この当時の私の気持ちは今でこそこうして言葉に出来るのだが、頑張ることでしか自分を認めてあげられなかったんだよね。

頑張りってある種の価値観で感覚的なものだから他人が決めることだけど、どれだけ行動したかっていうのは量がものを言うから自分でも認知しやすい。

当たり前だけど、自分の心は置き去り。ただ、心なんか持っていたら傷ついて動けないから知らないうちに手放していたんだと思う。

それはきっと、私にとっての無意識な自己防衛だった気がしてならない。

 

ちょっと快復してから、ああ私は今までずっと尽くし方を間違えていた、愛し方を間違えていたって思った。

 

 

ズタボロ卒業後、そう思ったはずなのに、まさに今、私は尽くしている。

 

そしてこう思ったんだ。

 

あれ?もしかして私、懲りてない?

また前の自分に戻っている?

あれれ?もしかして、私、愛をチラつかされて尽くしに尽くした挙句に放り投げられてしまうシリルみたいになってる?って。

 

例えば、彼がセシルみたいに、ふと「してくれた事は好きだったけど、あなたのことは必要じゃない」とか魔法がとけるみたいになっちゃったらどうしよう!

彼だけじゃない。

ああ、また誰かを、欲しがりモンスターに育ててしまったらどうしよう!

 

『悲しみよ、こんにちは』を読んでしばらく頭に張り付いていた疑いの眼差しは、こうして、あちこちに向いて行ってしまった。

挙句の果てには、もうさっぱり分からなくなってしまったのだ。

 

私は今、単に言いなり的に尽くしているのか。

それとも、その人を想う気持ちから尽くすという行為になっているのか。

 

 

『星の王子さま』が教えてくれた事

いつもの感想文はこちらからどうぞ。

 


そんなこんなで、途方に暮れちゃったので、ほっこりしたいなあと読んだのが、この本でした。

何度か読んでいるので、読書感想文を書いた時は、何度目かに読んだ感想になっています。これが不思議なことに、何度読んでも内容を案外覚えていなくて、何回読んでもほろほろ涙が出てくるんです。でも、それは多分毎回違うところで自分の心に響くんです。

 

感想文の中では触れていませんが、星の王子さまは、自分の星の残してきた1輪のお花のことを思い出して、こう思います。

つんけんと我儘なお花だったのだけれど、「してくれたことを見るべきだった」と。それは花がくれた些細なこと、花を見て綺麗だなって思ったこととか。

そして地球で同じような花たちに出会って知ります、自分の星に1輪しかなかったお花は、バラというありふれた花だったということを。何だ、他にもいるお花だったのかと少し寂しいようなつまらない気持ちになる星の王子さま。

でも、自分の星にいたたった1輪のお花との「思い出」を思い出すと、それはやっぱりどこにでもあるバラと同じではなかった。星の王子さまにとって、世界で1輪しかないバラで、他のバラとは違った。それは王子さまとバラには、きっと他の人には分からない「絆」があって、一緒に過ごした時間があって、「愛」があったからです。

 

このくだりを読んで、ほろほろしたんです。

星の王子さまは決して、花の言われるがままに尽くしていたんじゃなかったんです。本当は彼はお花を愛していたし、そう想うからこそ尽くしていた。

だから彼にとって、あのバラは唯一の存在と成り得た。

 

 

点と点が繋がる、本と本の対局性

 

『星の王子さま』のこのお花に対する気持ちを読んだところで、私の中で点と点が繋がったんです。

嗚呼、そうかと。

行動だけを見ていると「尽くす」という同じ行為なのだけど、私は今は自分の心に寄り添っていて、ちゃんと自分の気持ちがあるから「尽くしたい」と思ってしていることなんだ!って。

私、ちゃんと自分の気持ちの声を聞けているんだなって。

 

『悲しみよ、こんにちは』で抱いた疑いの眼差しが晴れた瞬間でした。変に抱いた不安もどこかへ行きました。

本質的なことは、『星の王子さま』がとても優しい言葉で教えてくれたんです。

誰に何をしていても、ちょっと心ここに在らず状態になっていたのが嘘のようです。

 

どちらの本も愛とは、自由とは、本当に大切なものって・・・という極めて本質的なことが物語の根幹にあります。でもその表現は対極的です。

 

『悲しみよ、こんにちは』は自由奔放で気分屋な主人公なばっかりに、それを取り巻く人々の気持ちを考えるといたたまれなかった。主人公はひどく楽観的なのだが、実はとってもネガティブな描かれ方をしていると思うんです。

一方で、『星の王子さま』は、子供でも読めるくらい、ちょっと空想的で簡単な言葉で書かれています。ただ、主人公の星の王子さまはブレないんです。もちろん、沢山の出会いの中で彼は大事なことを学んでいきますが、星の王子さまは本当は知っていたことに名前がついた、というような感じです。そこに一貫性がある。

 

だから私は『悲しみよ、こんにちは』を読んで不安にもなり、懐疑的にもなった。それを優しく解きほぐしてくれたのが『星の王子さま』だったのです。

 

 

おまけ  本は時に人生を変えてしまう

 

本って、時にいろんな感情や妄想を掻き立てます。

それがポジティブな時もあれば、ネガティブな時もあります。でも、それは、どちらの気持ちになったとしても、本を読んで何かを感じ、きちんと考えている証拠だと私は思います。

それは量をこなしてお仕舞いというよりは、よほど自分にとって有意義なことだと思うんです。

知識なんていくらでも詰め込めます。それをどう活かすのか。それはビジネス書や自己啓発本を沢山読むだけでなく、小説でも同じなのです。心の栄養補給でもあるし、自己対話のきっかけでもあります。

                         

本を読んで何を感じたかが大事、とようやく言われるようになりました。

本だけでなく、沢山の情報が溢れかえっている現代において、読書というのは一昔前とは少し毛色が異なってきたのではないかと考えています。

これが江戸時代なら、書物が何よりも最先端の情報源でしたし、明治になれば大衆小説が誕生し、娯楽的要素が入ってきます。この本を読んでいないだなんて、流行遅れ!とかそんなこともあったんです。本についている版画から、ファッションの流行が生まれることもありました。

 

本ってそれ自体は何も変わらないのだけれど、時代によって読書に見出される意味は変わって来ているように思うのです。

 

だからこそ、本は時に、人の人生をも変えてしまう。

困ったことにこれについては、いつの時代も同じなようです。

 

今回の私は自分の人生が大きく変わるようなことではなかったけれど、こうやって少しずつ自分の中の変化に気が付けるかどうか。そしてそれを本を通して感じ取っている。私にとって、本を読む時間というのはそれほど貴重なのものです。自分の中のアンテナを調整するような感じなのです。

 

心のどっかに、頭のどっかに引っかかっていたもの、それは喉に引っかかった魚の小骨のようになかなか取れません。でも忘れた頃に、何か別の本に出会った時に小骨がポロッと取れることがあるんです。

自分の中で、点と点が繋がる瞬間です。

そうした本の出会いは、自分が物事の本質にちゃんと向き合って来た証拠です。そうでない上滑りな読書では他の本と繋がっては行きません。

 

本と本は、点と点。

これを繰り返していくと、点同士が繋がって大きくなっていくこともあるし、点と点の連結の連鎖で一本の線になることもあります。

 

本が人生それ自体を変えてくれるわけじゃない。

そんなお手軽な本があったら、とっくに売れているでしょう。

 

そうではなくて、本を読んだ後の方が、ずっと大事なんじゃないでしょうか。

何を感じたかとか、行動に移すとか、そういう積み重ねで結果的に、気がついたら人生が変わっていった。そんな感じなんじゃなかろうかと思うんです。

沢山の本が読めるというのはある意味では才能です。でも、どれだけ質の高い本を読めるか、出会えるかも大事なんです。質の高い本を沢山読めるのが一番いいのですが。

 

ただし、質の高さの判別ができるようになるには、たくさん本を読むことでしか鍛え上げられないというのも、また事実です。

読書って勉強や美容と一緒で、1日にして成らずなのだ。

 

自分にとっての良書って、きっと自分が生きていく上での芯に触れるかどうかです。

そして自分の変化や成長とともに変わってもいきます。それでも揺らがない「何か」が掴めた時、自分にとっての本当の良書に出会えるんだと思います。

そして、量を読まなくても、たった1冊でどこまでも自分の人生を深めて行けるんだと思います。

そういう読書が、私はとても素敵だなと思っています。

 

 

ということで、今日はこの辺で。

 

明日はクリスマスイブですねー。

私、キリスト教徒じゃないけど、クリスマスって、ワクワクする。人混み苦手だし、チカチカするイルミネーションも目が痛くなるから得意ではないんだけど、なんというかほっこり温かくて、なんとなく愛に溢れている明るい雰囲気が好きなのです。

 

それではまたにゃん。

 

 

歌詞は”音”だけではない【音楽の歌詞】

こんばんは。にゃんちーです。

今日はちょいと趣向を変えていこうかと。

音楽はお好きかにゃ?

 

 

 

「獣ゆく細道」 椎名林檎×宮本浩次

 

うむ。まずはこちらをどうぞ。

 

www.youtube.com

 

 

私は断然CD派

洋楽邦楽問わず、歌詞のついている音楽についてYouTubeって本当に便利ね。

我が図書館では、音楽のデジタルアーカイブまで出来ちゃうじゃないか。嗚呼、便利。

 

今日はこの「獣ゆく細道」を題材に進めていくでござる。

 

この曲を取り上げた理由は2つ。

歌からの歌詞の聞き取りやすかったから。

そして本当の歌詞(歌詞の表記)と聞き取れた歌詞の脳内変換とのギャップがあると思われるから。

 

一昔前はCD買っていたと思うんです。

今はダウンロードが主流です。私は未だにCD買うんです。

それは何故か。

本当の歌詞、つまりどういう表記なのかがどうしても気になるから。そしてもう1つ、ジャケットも含めてその音楽の世界観が完成するから。

PVも同じことだと思う。勿論、広告のためでもあるのだが、そのPVは間違いなく曲の世界観を映像でもって視覚的に表現しているのだから。

 

そりゃ音楽1曲で簡潔しているとは思う。

思うけれど、私には音楽を耳から聞くだけでは腹六分といったところ。PVを見たとて、そうだな・・・腹八分という具合。

本当にその曲の世界を存分に味わうには歌詞カードとジャケット含めてコンプリートだと常々感じている。配信先行の昨今、なかなかCDにならない音楽もあるけれど。

 

 

歌詞、それは音(音楽)にして4分程度の凝縮された文学

 

はてさて、話を戻して。

この曲、歌唱力の高い二人ということもあって、とても歌詞が聞き取りやすいと思います。それを勝手に自分の脳内で活字に変換するとしたら・・・どうでしょうか。

恐らく余程の椎名林檎ファンでなければ、現代語、今使っている言葉と漢字で変換されてくるのだと思います。

耳慣れない単語があるかもしれないけれど、まあ分かるって感じでしょうし、聞き取れる歌詞を、その単語はひらがな?漢字?カタカナ?だなんて、考えて聴かないでしょう。

(私は逆にここ(歌詞の表記の仕方)に憑りつかれるので、歌詞カードがないと気持ち悪い。笑)

 

ということで、こちらをご覧ください。

 

椎名林檎新曲「獣ゆく細道」歌詞

 

 

いかがでしょうか。読めたかにゃ?

追っつかない方は、YouTubeを流しながら歌詞を追いかけて読んでみてください。

是非とも。

 

 

この歌詞の表記を見た時、森鴎外か?って思ったよ、私は。

この曲について昭和の雰囲気漂う・・・なんて言われてもいますが、そんなもんじゃないよね。そこはたぶん、サンバっぽいリズムとジャズを足して2で割ったような曲調が昭和っぽい雰囲気なのかもしれないけれども。

ピアノのところなんか、超カッコイイじゃないのよ。あ。話それた。

 

歌詞についてだけ言えば、これ、明治文学の雰囲気よ。

どうしてか。それを明確にしてくれるのが、この歌詞の読み方(歌い方)。

本物か偽物かなんて無意味

これ、曲の中では、

本物(ほんもの)か偽物(てんぷら)かなんて無意味(ナンセンス)と歌っているんです。

 

てんぷらって、あの、衣で揚げた天ぷらのことです。

これは明治に誕生した隠語であり、当時の若者言葉でもあります。

そのまま歌詞の活字の通り、偽物という意味です。しかしもっというと、格好ばかりで中身のない人をさす言葉でもあります。おそらく明治の若者言葉としては、こちらの意味で使われていたことでしょう。

 

ここに椎名林檎の知的さとセンスがあると思います。

曲を聴いてもお分かりでしょうが、歌詞を読むと猶更分かると思うのですが、この曲は一貫して「生き方」「自分自身というもの」について書かれています。

つまりここで言う、本物か偽物か、というのは活字の如く偽物ということではなくて、おそらく中身の話をしていると思うのです。

そこにテンプラという読みをあて、偽物という漢字をあててくる椎名林檎には脱帽であります。

椎名林檎、彼女の造詣の深さは言わずと知れたところかもしれませんが、これを最も明らかにしてくれるものが、歌詞の表記なのです。ででん!

 

歌詞の表記は、耳からだけでは聴き取れない世界が広がっているのであります◎

 

 

おまけ 互いを歌いあうことで成立している歌詞の世界

この曲に限っての話ではありますが、宮本が歌っている歌詞は、初めのフレーズを除き、椎名林檎へ向けての歌詞な気がします。とくに、「とんだかまとゝ」という歌詞。笑

かまとととは、知っているのに知らない不慣れを装うことを言いますが、とかく女に向けていう言葉なのです。

 

そして逆に林檎が歌っている歌詞は、宮本へ向けての歌詞ではないでしょうか。

着ぶくれして生き乍ら死んぢゃあゐまいかとふと訝る

という歌詞が、そう思わせるのです。

訝る(いぶかる)、怪しく思うことを言いますが、言に牙です。もう想像でしかありませんが、言葉で牙をむく漢字はエレカシの歌詞あるあるだし、エレファント、象さんには牙ありますし。

 

着ぶくれして生き乍ら死んぢゃあゐまいか、の部分は、エレファントカシマシというバンド名に由来し得るのではなかろうかと。

バンド名の由来に関しては所説ありますが、「エレファント・マン」という映画と、「かしまし娘」からとったという話があります。

この「エレファントマン」という映画、ジョン・メリックという実在する人物がモデルの映画です。この主人公であもるジョン・メリックは、プロテウス症候群だったと推測され、身体の極度な変形や膨張が見られました。そう、着ぶくれして生き乍らって、まさにこれじゃないの!?って思ったんです。

 

いや、もう、本当に巧妙すぎる!深読みし過ぎなのかもしれないけれども。

 

仮にこうだったとしたら、これは互いが互いの事を歌うことで成立している曲なのであります。誰が歌うか、それに合わせて歌詞を作る。誰が読むのかに合わせて文章を書くのとは、訳が違うと思うのです。

でもだからこそ、この4分ちょっとに凝縮されている歌詞は、こんなにも文学性に富んでいるのです。

 

 

実際に歌詞を読んでみて、その奥深さを感じてもらえたら嬉しいのだ。誰が何をどう歌っているのかにも左右されるところではあるけれど、歌詞って本当に1分小説と言っても過言ではないくらいだと思っている。

 

と、今日はこの辺で。

またにゃん。

図書館名の由来【図書館便り】

こんばんは。館長のにゃんちーです。

今日は館長のお便りにしようと思いまーす。(短め)

 

 

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ここを図書館にする!と息巻いて、しれっと図書館名(blog名)を変えたのはいいのだけれど・・・。

名前の由来、お話していなかったですね。うっかり八兵衛です。

 

near2 図書館 の 「near」

この表記方法で、だいたい私の年齢が分かってしまいそうですが、

near ×2です。

にゃーにゃ、と読むのです。

猫が好き(だけど片思い)なので、猫の鳴き声ニャーニャーにかけています。

 

そして near という英単語は、言わずもがな「近い」という意味です。

この英単語が案外深いものがあります。面白いんです。

地理的な近さをさすこともあれば、時間的な近さをさす場合もあります。また、関係性の近さをさす場合もあれば、利害関係の深さ(関係の近さ)をさす場合もあります。

もっと言えば、接近するとか近づくといった動詞でもあります。

 

私が目指しているのは、図書館と本屋さんの中間地点、みたいなところです。

 

本屋さんは、図書館に比べてきっと身近な場所です。でも本屋さんには、図書館で言うところの司書さんはいません。本のコンシェルジュと名乗っている人くらいはいますが、コンシェルジュをしている人がどのくらい本と親しいかは、人によって程度があまりにも違い過ぎるところです。

 

一方で図書館は、本屋さんよりはちょっと敷居が高かったり、貸し借りなど若干の面倒くささがあったり。いずれにせよ、本屋さんよりもちょっと、遠くにある場所です。

それは物理的な距離が遠いのではなく、心理的距離が遠い。

でも図書館には、基本的には図書館司書という本の専門家がいます。

公共図書館ではあまり司書さんとお話しないかもしれませんね。何話せばいいの?という感じかもしれません。

例えば史料(歴史的資料のこと)関係を探す時なんかには、とても助けてくれるんですよ。私は、昔、散々お世話になりました。

自分の大学の図書館の司書さん、公共図書館の司書さん、他大学の大学図書館の司書さん。このお三方がいなければ、私の論文は書き上げられませんでした。卒論でもあり、結果くそみそに言われて落ちたけれど、学会誌に出したものでもあります。

 

こんな難しい話じゃなくても、アバウトにこういう本を探しているんだけど・・・って相談してみるだけで、探し出してくれたり、他館にある場合には取り寄せの手配をしてくれたりもします。

図書館司書の仕事は膨大で、本の貸し出し、整理だけじゃないんです。とは言っても、ほとんどが公務員で、つまらない仕事に追われているのもまた事実かと思います。

 

 

私が お近づきになりたいのだ

私は図書館司書ではない。(在学中、途中まで司書の勉強してたけども)

だけれど、たくさん本を読んできて、たくさん自分とお話したり、考えたりしてきた分、図書館司書という資格じゃない「何か」を得ていると思うんです。

どちらかといえば、カウンセラーに近いのかもしれません。これは既に欧米ではビブリオグラフィー(読書療法)といって、カウンセリング後の処方箋が本ということがあります。

日本では全然認知されていませんが、私はビブリオグラフィーの勉強もしたいところなのにゃ。

 

 

本当に探しているものの解決の糸口を。道に迷っているのなら標識を。

そんなふうに、来てくれた誰かの心の「近く」に寄り添えたらいいなと思ったんです。

たとえお目当てのものが見つからなかったとしても、ちょっとお話したら気が楽になったりするじゃないですか。そういう意味でも「近く」がいいなと。これは親近感とか信頼関係とかって言い換えられるかもしれません。

 

本当は探している答えに対して、ほらよ!っと答えを差し出すほうが速いとも思います。でもそれをあえて、読書という時間で、その答えは、本を通して自分自身で見つけてもらいたいと思ったんです。

人の出した答えより、自分が自分のために時間をかけて見つけた答えのほうが、ずっと大事にできると思うからです。

そしてそれは、外の自分が内の自分とが「近づく」ということなのだと思うのです。

心と頭とを近づける。そんなイメージ。

そうしたら、やりたい事も、なりたい自分も、本当の自分の気持ちや悩みも、スーッとわかるんじゃないかって思うから。

 

はやい話が、探し物はなにかにゃ?と、私は本を通してあなたの心とお近づきになりたいのだ。

 

 

活字との距離の近さ

それから。

言葉は誰にでも平等。それは誰にでも「近い」存在ということ。

特に義務教育のおかげで識字率の高い日本においては、ほとんどの人が難なく字を読める。それって本当はすごいことなのだ。

江戸時代の日本の識字率は、当時世界一とも言われているのにゃ。(寺子屋のおかげね)

 

日本人は言葉を声にこそだせないけれど、それを認める(したためる)とか、文脈を読み解く力は案外あると思っている。

国民性と言えばそうなのかもしれない。そんなところでも内向的な感じで。

 

 

嗚呼。いかん。長い。お便りなのに、長い。

そんなこんなで、「近い」という意味の英単語を二つ重ねて、猫の鳴き声に似せたというのがこの図書館の名前の由来でしたとさ。

おしまい。(超絶雑なまとめ)

にゃんにゃんっ♪

 

【追伸】

図書館をやろう!と思った経緯はこちらをどうぞ◎

オモイノタケを書いております。そして展望も。