near2図書館

near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

near2図書館 ご利用案内

 

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はじめまして。そしてご来館、ありがとうございます🐈

near2図書館(にゃーにゃとしょかん、と読みます)

館長こと、にゃんちーです。

きっとここに来てくださったあなたは、本好きなのかにゃあ。仲間にゃ!

 

 

当館の紹介(現状報告)

ごほんっ。(本だけに)

near2図書館について、ちょっと(長くなるかも)だけご説明いたします。

 

当館、実はまだまだ工事中でして、蔵書も少なめでございます。

なにしろ私設図書館なものだから、財の許す限りでちょぼちょぼと随時蔵書を増やしていく予定です。

 

蔵書基準は、館長のにゃんちーが読んだもの。(時々読んだことになっている本も)

割りと無差別に読み漁るものだから、きちんと分類できるほど蔵書出来るまでは、まとまりのない図書館かもしれません。

 現在のところバカスカと収納しちゃったもので、整理中です。(リライト中)

蔵書が探しにくいと思いますがごめんなさい。一緒に図書館作ってる!っていう気分になっていただけたら嬉しいです。

 

 

図書館オープンの理由

見切り発車もいいとこなのですが、図書館を作ろうと思い立ってネット上で開館しました。

その理由は2つです。

 

もっとも、単純に本が好きだからです。

そしてこれまで生きてきてずっと、私は本に助けられてきたからです。これについてもっと深い話は、また何か別の形でお話したいと思います。(お便り配信かな?)

そう考えたら、一人で本を読んで、読書記録ノートに感想を書いているだけでは、なんだか勿体ないような気がしました。

私がここに書き溜めているものは、記録でもなければ書評でもないです。

本の良し悪しの判断は、読んだ人がするものなので、私は書評はしません。そしてその評価とやらは、その本を読んだ状況・タイミングで変化していきます。若かりし頃には面白さが分からなかった本も、時を経て面白さが分かったりするように。

 

評価こそしませんが、私にも本を読んだら感想は、ある。

その本を読んで考えたことも、生じた気持ちも、取り組んだこともあります。そうした他人の「本を読んでどう思ったのか」を聞く機会って、あまりないんじゃないかと思うんです。

だからそれを本を紹介しながら、お届けしていこう!と思った。

これが図書館開館の一番の理由です。

 

そして2つめの理由。

本当は本好きの集まるサイトが既にあるのは百も承知なのです。本について感想文を書いている集積場みたいなサイトはいくつかあります。

でも、私はどれを見ても面白くなかった。

感想文の文量の問題ではなくて、やっぱり書評が多かったし、そして何しろ本を読んだ人の感想の結論だけが書かれていて、どうしてその答えに至ったのかがまるで見えなかったからです。

正直、読んだ人の本に対する結論だけ聞いていても、さっぱり分からない。それを他の誰かと共有するのは至難の業だと思うんです。

もっというと、読書好きだけが集まる場所にあまり魅力を感じない。本当の本好きは、言われなくても自分で必要な本を探して読んでいけるはず。ということは、本好きにそうした結論だけの感想の投げ合いっこはいらない。

そして本好きの集まりという内輪だけの盛り上がりはとても勿体なく感じたし、それは、そこへ新参者(読書にハマり始めた人)が入りやすい空気感では・・・ない。出来上がったグループにいきなり入るだなんて、無理だよ。笑

 

本を読みたいなって思っている人、本の面白さに目覚めたばっかりの人、これから本を読むかもしれない人。

誰でもいらっしゃい🐈の空気が、空間を作りたいと思ったのが、もう1つの理由です。

 

そしてその誰でも来られるという点で、実社会なら図書館だ!と思って、ここを図書館と名付けました。

 

 

本を読む理由 その本当のところは?

 

本が好きで本屋さんや図書館をフラフラお散歩する方もいらっしゃるでしょう。

でも多くは、本を通して自分の悩みの解決ヒントを探していたり、仕事や私生活をより良くするためのヒントを探していたりするのではないでしょうか。

案外、本当は何を探しているのか当人さえ気が付いていないことも多いです。本を読んでみて、「あ!そうだ、これを探していたんだ」って自分の気持ちに気が付く。それは物凄く貴重な体験だと思っています。

本は自己対話とでも言うのか、自分とお話をする時間とキッカケをくれる。本を読んでどうするのかは、あなた次第ではありますが。

 

本は本来、そういうものなのだと思うのです。

本で得るのは知識ではなくて、体験する時間なんです。それは心の中にいる自分とお話する体験だったり、自分の価値観を変える体験だったり、共感だったり様々です。

本から得ているものは時間の他に、いわば体験と知徳(智慧と道徳)なのではないかと思っています。

勿論もっとライトに、楽しい!だけのエンターテイメント性重視の本も沢山あります。そういう物が読みたいときは、楽しい気分になりたかったり、日常でちょっとつまらない気分になっていたり、嫌な事を忘れたかったりするんだと思います。

 

 

near2図書館の展望

まだまだ青写真です。設計図書いてる途中です。

 

私は人生がガラっと変わるような1冊を提案したい!とは思っていません。少し突き放したような言い方になるかもしれませんが、人生がガラリと変わるような1冊との出会いは、あなた自身が自力で見つけるんです。その方が宝物になるから。

この図書館で、そんな衝撃的な本との出会いがあれば、勿論私は嬉しいです。その時は、コメントなりTwitterなりで是非とも教えてください◎

きっと嬉しくて泣きながら、猫踊りをしますにゃー。

 

ただ正直なところ、今の私では圧倒的に読書量と思考時間が足りていません。

こればかりは私もここで館長しながら培っていかなければならない課題でもあります。

 

でも、ここに来てくれた方の、そのなんだかもやもやしている気持ちに、本を通して、こんな道もあるよ?こんな考え方もあるよ?と、標識を立てるくらいは出来るんじゃないかなと思っています。

お顔は見えませんが、それでもここに来てくれた方が胸の内に持っている、色んな気持ちに寄り添って、本の処方箋を出すくらいは出来るんじゃないかなって。

 

実際にお薬でも、体に合う合わないがあります。だから私が出した本の処方箋も合わないこともあるかもしれません。でもそれでいいと思うんです。

外れた!という、つまり、これじゃないということが分かる。それだけで選択肢は絞られるので、ある意味、読書においては成功体験です。

(これがリアルにお薬だったら私はモルモットじゃないぞ!って言いたくなるところですが。笑)

 

そうですね。

もし私が図書館の受付のおばちゃんなら、来館してくれた方にまずこう声をかけます。

 

「お探しのものは、何かにゃ?」って。

 

それは、探している本そのものを聞いているのではなくて、本当のところは何を求めて本を探しているのかということを聞いています。

そういう図書館にしたいんです。

 

だからnear2図書館はちょっと特殊です。

本を並べるだけではないんです。(今のところ雑多に並んでるだけだけど。)

お悩み別に本に辿り着けるように分類していきます。それは小説とか、ビジネス書といったいわゆるみんなが思う分類とは違ってきます。これらはいっしょくたに、色んな悩み事という分類のなかで共存することになります。

逆引き辞典のような本の配列が出来る。

ただ・・・誠に残念ながら、現在工事中です。笑

ということで、もうしばらくすごーく気長にお待ちください🙇

(今までの記事をリライト、固定記事の作成とリンク貼りに勤しんでおります)

 

そして もう一つの本棚

near2図書館では、実際に本屋さんに並べられている本とは別に、もうひとつの見えない本を蔵書しています。

それは、私の頭の中の本です。

普段私の考えていること、ずーっと持っている自分の考えとか。実はそれが結構特殊だってこと、幼いころから自覚していたんです。

頭の中を晒すってそこそこ勇気のいることです。でもそれを直接文章化すること以外に、私には発信方法がなくて(音楽でも作れればよかったんだけど、お生憎さま)この方法になりました。

 

だけど本当は知っているんです。

私と似たようなこと思っていても、それを口にしたらヤバイ奴って思われるから、自分の中に仕舞い込んでいる人がいるってこと。

そして、案外、多くのひとが「そうだよな」とか「あるある」とか思うこともあるっていうこと。

そんな口には出せない、みんな各々が持っているであろう、頭の中の1冊を私がここに蔵書することで、少しだけ話しやすい空気になれば良いと思っています。

その気持ち、その考え、実はそんなに変なことじゃないのかもよって。

 

 

それから もう一つの理由

ちょっとヘビーな話題ですので、読み始めて、無理だ!と思ったら離脱してくださいね。いやはや、こればかりは完全に私的なことなので、本当に。

という前置きのもとでお話させてください。

 

プロフィールにもありますが、私は大人の発達障害です。ADHDとASDを併せ持っています。発達障害という名前だけはようやく社会に認知されてきたと感じています。

こんな偉そうな事を言っていますが、私自身が発達障害だとわかったのは今年(2018年)のことです。

お薬の副作用はすさまじいものでした。

体型の変化も半端なかったです。服も下着も全部買い替えなければならないほどでした。

そしてそもそも、1年近く鬱と摂食障害が続いたことで、本当は自分が発達障害だったのだとようやくそこで判明しました。

そう、私が今まで繰り返してきていた鬱は、本当は発達障害由来だった。鬱の治療したところ治るわけはなく、ぶり返してきていたんです。(鬱3回くらいやってます)

 

正直なところこれは、本とはあまり関係ないです。

でもこれをどうしても発信していきたいんです。

それは何故か。

発達障害に関する本の専門書はいくらでもあります。私もしこたま読みました。それでも正解はどこにもなかったのです。

正確には、そんな風に誰しもが当てはまるような、発達障害を抱える全員に対して「間違いなし!」という正解はあり得ないんです。

 

発達障害と一口に言っても、症状は千差万別です。

発達障害という大きなくくりのなかで、ADHD・ASD・LDと細分化したらすでに3つもの障害に分けられます。そして私の様に併発している人もいます。

同じADHDでも特性(とりわけ強くでる障害の性質)は人によって違います。いわば、障害と症状との掛け算なのです。だから当事者の抱える悩みや生活する上での困難さもマチマチです。

 

もしあなたの周りに発達障害の人が居たとして、発達障害の人が何を悩んでいて、何にどう苦労していて、そしてなんて声をかけていいのか分からなかったり。当事者の周りにいる人たちもまた、同じように悩んでいるんだと思うんです。そして当事者を支える人に向けての本は限りなく少ない。まして、マニュアルのような対処の仕方では、当然間に合いません。

 

発達障害に関してのSNSやネット上の発信内容は、やはり当事者発信が多く、そしてそのほとんどはかなりネガティブなものでした。最初は私もそれらを追いかけていましたが、どうも馴染めなくって。

だって私は、発達障害だったけれど、自分をそんな風にネガティブに捉えていなかったから。これで生きてこれちゃったから。

 

時々ここでは【凸凹(でこぼこ)日誌】として、発達障害に関して収めていきます。ほとんど私の症状についてになると思います。今はまだ振り返られませんが、自分がどうやって発達障害と寄り添ってきたのか、それをまとめられる日が来るといいなと思っています。

そして、同じように発達障害の方、その周りの方の一助になればいいなと切に思っているんです。何かヒントになれば、いくらでも話します、私のこと。

 

おわりに

ちょっとだけ、と言いながら案の定長くなりました。えへへ。(笑って誤魔化す)

最後まで読んでくださって、ありがとうございます◎

本当にまだまだ図書館と呼べるほど蔵書はないですが、幸いこのネット上の図書館では収納場所に限りがないので、館長の私が生きているうちは続けていくからきっと大きな図書館になるんにゃ!どうかその日を待っててくだされ。

 

ご来館のみなさまへ ぜひご参加くださいにゃのご案内

ちょうど作り途中の図書館なので(ものは云い様だ、サグラダファミリアだと思って。笑)、今ここに来てくれた方で、気になる作家さん、気になる本、悩んでるんだけど何かいい本ないかな?など、もしあればご連絡ください。

とりあえず今は、コメントやTwitterでご連絡いただければ、もし該当するものが私の手元にあれば蔵書します。(レスに時間かかると思うけど)

そしてあわよくば、今ある蔵書への感想もお待ちしております◎

構えなくていいのにゃ、一言で嬉しい。なんなら、本の帯考えるくらいの短さでも、みんなはどう思ったのか聞けたら、私も嬉しいです。というか、知りたい。

 

問い合わせフォーム作れればいいんだけどなあ。はてなblogで開館しちゃったから、うーん。ちょっとここは考えます。

何せCSSって何?SEOって何?みたいなド素人が知識ゼロで開設しちゃったものだから。これもまた、勉強していくところだにゃーん。

 

 

嗚呼、なんて締まりのない終わり方!もういいや。繕いようがない…。館長ことにゃんちー、こんな人なんです。笑

以上であります。

どうか楽しんでいってもらえると嬉しいにゃー。

 

 

※しばらくは記事にも掲載しておきますが、いずれ削除して固定ページのみにします。

 今のところ、記事にも固定ページにも同じ内容がある状態です。

 

心の目をあけてごらん【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

冬の夜空、星を見るには一番いい季節です。空気が澄んでいるのでね。

随分寒くなってきたので、今日はほっこりしてもらえる1冊を選びました。

温かい部屋でぬくぬくしながら、ちょっと夜空を見ながら、ぜひ。

 

 

 

 

『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 河野万里子訳

www.shinchosha.co.jp

 

 

いやはや、本当に単なる偶然ですが、先日紹介した本の翻訳も河野万里子さんでした。

 

 

フランス語の翻訳専門なのかなあ。きっとそうだよね。

 

私は多分、河野万里子さんの翻訳が好きです。

私はフランス語は読めないけれど、それを訳した彼女の言葉はとても温かくて、情緒豊かな日本語なのです。

 

さて。

こちらも言わずと知れた名作ですね。本当に。

大人も子供も読めるもの。絵本じゃないけれど、不思議と分かる。感覚的なものでしょうか。この本に書かれている一番大切なことは、大人子供にかかわらず、本当はみんな、すでに知っていることなのかもしれません。

特急列車に乗っている間に、忘れてしまうだけで。

 

 

あらすじ

あらすじを…と思ったけど、いるのかな?笑

そこらのビジネス書なんかよりもずっと、さっさと読める本なので、読んで欲しいというのが本音。

 

もう本当にざっくりと。

砂漠に飛行機で不時着した「僕」が出会った男の子。それは、小さな小さな自分の星を後にして、いくつもの星をめぐってから七番目の星・地球にたどり着いた王子さまだった……。(ここまで新潮文庫のHPより拝借m(_ _)m)

王子さまは、地球にくるまでに色んな星にも立ち寄ります。そして色んな「大人」に出合います。変なの、大人ってって思います。

地球に辿り着いても、なお、同じです。

王子さまは、お花ともヘビともキツネともお話ができるので、広い広い地球のあちこちを回り、いろんなものに出会い、色んな話をします。そして人間にも会います。

人間って、変なのって、やっぱり思う。

 

砂漠に不時着した「僕」と、王子さまは、砂漠で同じ時を過ごします。

王子さまがここに来るまでに教わってきた(変なのって思ってきた)沢山の事を、「僕」は少しずつ、本当に少しずつ共有していきます。時間という流れのなかで。

そうしていつの間にか、「僕」と王子さまの間には絆が育まれていくのです。

そして互いに、いろんなものを「本当にそうだね」って共有していきます。

それはどれも、目には見えないものです。

 

「僕」の壊れた飛行機が直った時、王子さまもまた、自分の星へと帰っていきます。とても素敵な言葉を残して。

 

あらすじになってない。笑

だって書いちゃったらつまんないんだもん。こればかりは。今日はネタバレほぼなし、悪しからず。

 

 

子供のころ それはまるで星の王子さま

この本には色々な解釈があるところです。

それには敢えて触れません。心で感じてみてください。子供と一緒に読むのもいいんじゃないかと思います。きっと、子供は、王子さまの気持ちが良く分かると思います。

 

王子さまは、とっても知的で、そうですね…大人からしてみれば、とても鋭いことをズバズバ言ってきます。ここに書ききれないくらいです。

 

きっとこのblogに辿り着いたあなたは、大人かそれに近い年齢だろうと思います。

でもきっと、子供の頃に、似たようなことを思ってたんじゃないのかな?

 

少なからず、私は思っていました。王子さまが思ったようなことを。思っていたけど、大人の世界を知らないので、なんだか怒れちゃう!っていう感じで。

そういう気持ちを、王子さまと出会った僕の言葉を借りるとするならば、

でも悪く思ってはいけない。子どもはおとなに対して、広い心を持ってあげなくては。

といったところでしょうか。笑

でも本当にそう思う。

多分、子供の頃の私のほうが、ずっとずっと心も広くて、見ていた世界も広かったもん。何も知らないけれど、何でも知ってる。本当に大事なことは言葉にこそ出来ないけれど、知っている。

本当に探しているものは、言葉に出来ないけれど、自分でちゃんと知っている。子どもですべては大人の都合の下にあったので、社会的には何者でもないけれど、何にでもなれる。そんな風でした。

 

 

バオバブには気をつけろ!

王子さまの住む星は本当に小さくて、バオバブの芽をはやく摘まないと、星がバオバブに浸食されていってしまいます。

実際にバオバブって物凄い生命力なんですよね。樹齢1,000年ともいわれているので。

そして、「僕」は、

子どもたちよ!バオバブには気をつけろ! 

 と言い、また

僕と同じように、長年なにも知らずに危険と隣あわせてきたことを知らせるためなのだ。 

 とまとめています。

バオバブ…本の中の絵にも描かれていますが、それをみると、なんとも滑稽で可愛らしい。

でもバオバブって、社会の暗黙のルールとか、大人の作ったよく分からない縛りとか。そういうものの例えだと思います。

それって慣習みたいなもので、よく分からないけれど、みんな大人になるにつれてそれに従うようになり、大人になってしまえば最早その理由なんて考えもしない。そうして気づかぬ間に「当たり前」という変なのって思っていたはずのルールに自分も浸食されていく・・・そんなイメージ。私は、そう受け取りました。

 

危険と隣りあわせというのは、命の危険があるのではなくて、子供のころにはあったはずの感覚と言えばいいのか、嗅覚とでもいえばいいのか、ある種の素直さを脅かす存在なのだと思うんです。

その子供の頃にあったはずのものは、目で見ていたわけではないんです。頭で考えていたわけでもないんです。きっと、心で感じていたんです。

 

 

なつく って なに?

王子さまが出会う最後のひとは、キツネ。人じゃないけど。

キツネが一番大事なことを教えてくれます。その前に、キツネは、王子さまに、「なつかせて!」と言います。王子さまは、なつくってなあに?と聞くと、キツネはこう答えます。

もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって 、世界で一匹だけのキツネになる・・・

 そしてこうも教えてくれます。

なつかせたもの、絆を結んだものしか、ほんとうに知ることはできないよ 

 

もしかしたら、懐く、という言葉に違和感を覚える人もいるかもしれません。

懐くよりも、慕うの方がしっくりくるんじゃないのかな?とか。

でも私は、これは、絶対に懐くだと思う。(原文知らないけどね)

 

日本語として、ちょいと説明します。この本を最後まで読んだとき、きっとなつくのぴったりさが分かると思うのです。

 

そのぴったりさを味わってもらえたら!と思うので、ここでまさかの漢字解説。

 

①慕:幕と同じで、その下に心。見えない相手を想うことから来ています。

②懐:心に、右側は衣服の象形と目から涙が垂れている象形で出来ているので、

   死者をなつかしみ想うことから来ている。

 

 

話をもとに戻して。

最後に王子さまがキツネにさよならを言いに行った時、キツネが秘密を教えてくれます。

ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ。

 

きみは忘れちゃいけない。きみはなつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。 

 

本当に探しているもの なつくほどの時間を持つこと

王子さまの言葉がとても分かりやすくて、忙しない日々を送る大人にはグサッとくるでしょう。

人間たちって・・・

特急列車にのっているのに、なにをさがしているのかもうわからないんだね。だからせかせか動いたり、同じところをぐるぐるまわったり・・・ 

 

自分のことを言われているのかと、ハッとしました。

きっとこれは、大人になった今だから分かることだった気がします。子どもからみたら、本当にそうでしょう。なんだか大人たちって、忙しい。でも何がそんなに忙しいんだろうって。何をあくせくと、探し追い求めているんだろうって。

目の前の楽しさを忘れるほど、何を、どれだけ遠くを見ているんだろうって。

 

最後に「僕」と王子さまとのお別れの時、王子さまは自分の星に帰るのだけれど、こう言い残します。

 きみが星空を見上げると、そのどれかひとつにぼくが住んでるから、そのどれかひとつでぼくが笑ってるから、きみには星という星が、全部笑っているみたいになるっていうこと。

 

とっても素敵。

どこに居るかは見えないし分からないけど、でもきっと居る。

王子さまは星に、家に帰るだけなんだけど、どこかそれが亡き人を連想させる。今はもういない人を思って星を見る。まさに、懐かしむ、なのです。

懐かしむほどの時間を、その人とは共有していたということ。そうやって育んだ目には見えない絆があったのだという証なのです。

懐かしいその人は、きっとお空で笑ってる。そう思ったら、とっても温かい気持ちになりました。

 

 

星の王子さま という日本語訳の素晴らしさ

これは今回の翻訳者の河野さんがつけたわけではないですが、フランス語の直訳では、このタイトルにはならないんです。

直訳するとすれば、小さな王子様。

もう全然違うよね。

星の王子さま、って、なんて素晴らしい訳し方なんだろうと思いました。

 

星を眺める時、懐かしむとき。それは目で見ているのではなくて、心で想っている時間なのです。確かに目には星が見えているんだけど、きっと心の目で、目には見えない何かを思っている。

そしてその星のどこかに、あなたにとっての小さな王子さまが、居る。

そういうことな気がします。

 

今回触れませんでしたが、バラと王子さまの関係も胸がきゅんと切なくなります。

バラと過ごした時間は、「はかない」と王子さまは教わるんです。その儚さって、やっぱり目には見えなくて、それはキツネが教えてくれたように、絆だったんだと思うんです。特別な存在だったんです。王子さまにとって、宇宙でたった一輪のバラ。

 

そうだよ。

あなたも、宇宙でたった一人の人なのだ。

きっとどこかに居る星の王子さまが、あなたのことを見てくれているんだよ。物語のなかの「僕」と王子さまと同じように、あなたのことを、王子さまにとってたった一人の人として。

 

星を見上げてみてください。

そこには今、だれの顔が思い浮かびますか?

 

きっとその人が(生きていても、亡くなっていたとしても)、あなたにとって、一番の、たった一人の儚い人なんだと思うな。

 

 

う・・・。寒くなってきたね。お風邪など、めされぬように温かくしてね。

あー!結局ネタバレね。書いちゃった・・・。でも全部は書いてないから、読んでみて。(ごり押し。笑)

 

たまには夜空を見上げて欲しいにゃ。

心にも、時間にもそんなゆとりをもって生きていけたら、どんなに素敵なことか、とおもったとても寒くて天気の悪い今宵なのでした。

 

したらばまたにゃん。

愛と自由と気怠さと【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

この本を読んでからというもの、なんとも言えない気怠さが張り付いてとれやしない。

読む季節を間違えた気がするね。

夏に読んだらもっとフィットするんだと思う。

 

では、さっそく。

紹介につきネタバレ。悪しからず。結構な有名作品です。

 

 

『悲しみよこんにちは』 フランソワーズ・サガン 河野万里子訳

www.shinchosha.co.jp

 

言わずと知れた名著。題名くらいは聞いたことあるかもしれませんね。

サガンの処女作。 

しかも若干18歳にしてこれを書き上げただんて!

それを知って、私は、綿矢りさの『インストール』を思い出したよ。(これはまた別の機会に感想を書こうかのお)

 

ちょっと話がそれるけど、10代マジックってあると思った。これについてはまた後程。

 

あらすじ

セシルはもうすぐ18歳。プレイボーイ肌の父レイモン、その恋人エルザと、南仏の海辺の別荘でヴァカンスを過ごすことになる。そこで大学生のシリルとの恋も芽生えるが、父のもうひとりのガールフレンドであるアンヌが合流。父が彼女との再婚に走りはじめたことを察知したセシルは、葛藤の末にある計画を思い立つ……。(ここまで新潮社HPより拝借 m(_ _)m)

セシルにとってアンヌは知的で上品で秩序の中で生きている憧れでもあり、一方ではその価値観を押し付けてくる自由を奪おうとする疎ましい存在でもあった。そんなアンヌと父との再婚なんて、まっぴらご免だと思い、どうにかして父とアンヌを引き剥がすべく、画策する。

それも父のプレイボーイっぷりを大いに利用して。そして、エルザの父への気持ち、シリルの自分への恋心を大いに利用して、だ。

それは少し時間をかけけて、セシルの思い通りに進んでゆく。

案の定、プレイボーイの父はエルザと密会し、それをアンヌが見てしまい、アンヌは泣きながら車を走らせて去っていく。

そしてアンヌは本当に、去ってしまうのだ。この世から。

事故か、自殺なのかは、分からないが。

 

その悲しみに浸ることなく、父とセシルの生活は、段々と元に戻っていく。自由きままな奔放な生活へと戻っていく。そうしてやっと、思い出話でもするかのように、アンヌの話が出来るようになる。

時々アンヌとのことを思い出しては、セシルは目を瞑ってそれを迎い入れる。「悲しみよ、こんにちは」と。

 

瑞々しい それがかえってあまりにも惨い

10代ならではの、日ごとに考えが変わる感じの主人公セシル。自由であることを望み、父を心から愛し(近親相姦的意味ではなくて)二人の空間をとにかく邪魔されたくない。

プレイボーイの父さながら、セシルは自分もバケーション先でシリルという青年に恋をする。

愛と自由を謳歌しているような父と子の二人なのだが、愛や自由があってもなくても、いつも何か満たされていない感じが、気怠さとして付きまとっているように感じる。

 

情景描写が生き生きとしていて、本当に10代ならではの視線だなあと思うのだ。全てが自分の都合よく輝きだしたり、くすんで見えたり。

思うのだけれど、突拍子もなく悪だくみというか、急に機転が利いて自己を守るために画策するセシルの姿なんてもう本当に小悪魔。

悪魔と言わなかったのは、セシルにそういう自分の気まぐれな部分とかずる賢さに対して悪気がないから。

今の自分を信じて疑わない。

根拠のない自信、みたいなものがチラつくところがまだ10代。

それでもセシルは彼氏のシリルに、諦めにも似た気持ちからこう言う。

自分が嫌いだ。 

 

10代あるあるの葛藤だと思う。

セシルは自分のことを、

卒業するための勉強に打ち込むよりも、太陽の下で男の子とキスする才能の方に恵まれている 

 と自ら思っていた。フランスっぽい。偏見かもしれないけれど。

 

セシルは、シリルが初めての相手で、この二人の描写はなんとも美しく気高い。本当にそうだったのかは分からないけれど、10代のセシルあるいはこれを書いた当時18歳のサガンにとって愛というのはそういうものだったのかもしれない。

 

例えばこんな文章がある。

怯えが欲望に手を差し出し、やさしさや、激高、やがて荒々しい苦痛から、勝ち誇るような快楽へ。

 

私は彼を覚え、自分自身を見出し、彼の体に触れて花ひらいたのだ。 

 

セシルはもっともこれを愛だと思うのだけれど、これによって愛しあうという動的なことについてとても素敵な解釈を持つようになる。

愛によって知った、肉他的なとてもリアルな快楽のほかに、それについて考える知的な快楽といったものも、私は感じていた。「愛しあう」という表現は、意味でふたつに分けると、ことばがいきいきしていて、それ自体魅力的だ。私的な抽象概念の「愛」ということばに、実際的で現実的な「しあう」ということばがむすびついている

と。

 

なるほどなあ・・・と感心した。「愛」という掴みどころのないものに、「しあう」とか「する」とか動作的な言葉がくっつく。具体的にどういう状態を指すのか、さして分からないけれど、なんか素敵!っと思ってしまう。

愛によって満たされている気がする。愛しあうという相互関係なら猶更だ。

 

ところが、自分の画策により、アンヌが亡くなった時、セシルは恋人であるはずのシリルに対してこう思う。

この人を愛したことは一度もなかった、と。いい人だと惹きつけられはした。この人が与えてくれた快楽は、たしかに愛した。でもこの人を必要としていたのではなかった。 

 

む…惨い。

悪意のない正直者ほど惨いものはない、そう思う。

勿論セシルはこれは心の内にとどめて、実際に口にしたわけではないけれど、愛し合うって素敵!と思っていたそれは、欲望のままに快楽の溺れていたにすぎず、本当の愛なのではなかったのだと気が付くのだ。

快楽主義的なところが、プレイボーイの父とも似ているし、ロココ主義的な雰囲気にも似ている。

快楽は良い。そしてしてくれた行為は、愛した。でも、彼自体は必要ではなかった。

愛していたのは彼ではなく、彼がしてくれたことだったのだ。

こう書いてしまうと、なんてビッチな!と、なりそうなのだけれど、本当にそうなのかなあ?って思う。

それに気が付いたセシルは、よっぽど素直で愚直に自分と向き合った人なのではないかと。

 

今の自分に置き換えてみたらいい。

本当に彼が好き?

お金持ちの彼が好きなの?優しさが好きなの?なんでもしてくれるから??とか。

 

愛する人が、本当に何も出来なくなるとか、稼ぎがなかったと仮定したとき、それでもその人を大事だと思えるかどうか。

そう問うてみると、実は本当に自分が愛しているものが何か、分かる気がする。

 

話をもとに戻して。 

主人公のセシルはまだ10代。愛も恋も大して違わないから、経験して学んでいくような、俗にいう多感な時なのかもしれない。

その若々しくて移り気なところが、瑞々しい文章によってより際立つ。セシルのちょっとエゴイスティックなところも、10代の幼さとかその時独特の自信過剰さとして見て取れる。

 

でもきっと、みんなそういう道を通ってきている。

私もそうだったのかもしれない。これを読んでいるあなたも、そうだったかもしれないでしょ?ぐふふ。

 

 

秩序がもたらす 退屈さ そして本当の愛

亡きアンヌのことを思えば思うほど、何かが心の中に渦巻く。それこそ愛、だったのかもしれない。

セシルは秩序と調和なんて死ぬほど退屈だと思っていたけれど、それがどれだけ愛に包まれていたことだったのか。

自由を生きているようで、愛を貫いているようで、矛盾だらけのセシル。

プレイボーイの父も相まって、不安定な生活がそこにはある。それは無秩序で退屈からは程遠い、刺激的な生活なのだろう。

でも、本当はアンヌがくれた秩序を葬り去ってしまったことが「悲しみよ、こんにちは」なのかもしれない。こんな風に、一見したら反省していないセシルも、後悔にも似た悲しみをどうにか受け入れようとしている姿なんじゃなかろうか。

 

セシルは自分のした過ちを美化しているようにも捉えられるかもしれない。でも、そうでもしないと、思い出と一緒に奈落の底へ落ちていく。

悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、私には敬うべきものに思われるからだ。

物語の冒頭にあるこの一文が、それを見事に物語っている。

 

 

おんなこどもの読み物と言われた サガン

要するに、少女漫画的ということだと思う。確かに恋路のところだけ読めば、まあそうなんだけど。もっともっと深いところにこの作品の魅力があると思っている。

セシルもこの小説の中で自分で言っているが、セシルは動物の様に生きている。それは言い換えれば、自由なのだろうけど、それでもそこには、なんだか孤独感がつきまとう。

かといって、アンヌがくれたような秩序や調和は疎ましくて楽しくない。それもまた、自分の本能的なところから逃れられずに束縛されているような感覚が押し寄せる。

どちらにせよ、いつだってどこか自分の中には「虚しさ」みたいなものが、背中にはりついている。サガンは、そんなことを書いているように思う。

 

結局その「虚しさ」を何かでもって埋めようとするのが人間だ。

上手に孤独と生きていける人ほど、強い人はいない。ある意味で普遍的なことを言っているんじゃないだろうか。

 

サガンの小説は、イチャイチャした恋愛小説とか、おんなこどもの読み物なんていう浅いものじゃないと思う。

それしか読み取れないんであれば、きっとそれは読み手自身の経験値や思考の足りなさだと思う。

 

愛も、自由も、いつだって気怠さが混じる。

まるで真夏の太陽のジリつく日差しの様に。

 

愛も自由もそんなに単純じゃないよねーって思った。

 

 

10代 マジック

これは私の勝手な推測だけれど。ちょっと聞いてくれるかい?笑

今日紹介したサガンの『悲しみよ、こんにちは』はサガンが18歳の時に書き上げた。

綿矢りさの『インストール』という小説も、彼女が17歳の時に書き上げ、そしてデビュー作にして、文藝賞を受賞している。

分野は違うのだけれど、椎名林檎の「ここでキスして」は、彼女が高1か高2ぐらいで書いている曲だったはず。

宇多田ヒカルも「Automatic」で鮮烈デビューを果たすが、この時若干15歳。

 

今ここに挙げたのは、ほんの一部で、私の好きなものばかりなので趣味が偏っておりますが、どれにも共通することがあると感じている。

別に今の彼女たちの作品がイマイチと言いたいのではなくって、眩しいほどに無防備でそれがかえって残虐的がゆえにどストレート。大人になった今、同じような勢いのあるものを創ろうったって、そうはいかない。多分だけどね。

そういう10代ならではの勢いとか、キラメキとかってあるなあ。と、サガンのこの小説を読んで殊更感じたのだ。

だって綿矢りさも椎名林檎も、宇多田ヒカルも比較的最近だけれど、サガンのこの小説はもう64年前の1954年の作品なのだから。

良くも悪くも、普遍的な年代あるあるなのかも。なんてことを、思いましたとさ。

 

 

今日はこの辺で。

またにゃん。

生き方というトレンド【頭の中の本棚】

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こんばんは。にゃんちーです。

お薬の副作用か、ぐったりなので、軽めに更新。頭の中の本棚より1冊。

 

 

生き方 って、なに?

かくいう私もそうですが、昨今の人は「自分の生き方」を模索しているようなところがあります。

そして今、それに「自由」というのが、必ずついて回っているように見える。

 

自由ってなに?

生き方ってなに?

むしろ不自由って、なに?? 逆に死に方ってあるの?

そんなことを考えてみました。(正直、常日頃これについて考えている)

 

なりたい自分を追い求めて

フリーランス、起業。

個人プレーがまるで「自由を謳歌」するための象徴かのような風潮がある気がする。

でも、やっぱりそれって向き不向きがあるじゃない?

普通に会社員で、縁の下の力持ちとしての方が自分の力を発揮できる場合もあるじゃん。会社っていう大きな看板背負っている方がパワープレー出来ちゃう場合もあるし。

 

まあ、やってみてから言えよって話かもしれないけれど。

 

 

みんな自分の理想があると思う。

理想があっても、そこに蓋をして生きている場合もあるけれど。それに対する解放的な流れは、個人的には賛成。

でも如何程の人が「なりたい自分」を思い描いているのだろうか。

どこまで「理想」を突き詰めているのだろうか。

とりあえず自由が欲しくて、目標も志もないままに、形から入るのって、危険な香りしかしなくない?

 

なりたい自分を追い求めても、本当は自分が何を求めているのか考えるところから始めないと意味がない気がするの。

 

どんな自分になりたいのか。

どんな風に生きていきたいのか。

ひいてはどんな社会にしていきたいのか、とか。

 

漠然とした夢みないなところから、もう少し細分化して、具体的にどうありたいのかを見つける。これって結構、頭の体力がいる内向的思考が必要。

勿論、自分や現実の嫌な部分とも沢山向き合わなくてはならない。

そしてその「なりたい自分」とやらから逆算して、今どうすればいいのか、これからどうすればいいのかと計画を立てなくてはならない。

結構な重労働だよ。笑

 

 

もし 自由 しかなかったとしたら

自由っていうのは、不自由なことがあるから体感するんだよね。

ということは、不自由の中に自由があるんだよ。

何でもOKというフリーダムな世界は、要するに無秩序なわけだから、そこに本当の自由があるとは思えない。不自由な思いをしない限り、今の自分が自由だ=何にも縛られていない、という感覚は味わえない。

それに無秩序だったら、自分の自由は、他人の不自由かもしれない。結局、本当の自由は叶えられないということ。

 

かと言って、自分の好き勝手にするというのも、また自由をはき違えている気がする。

 

本当の自由って何だろうか。

時間的解放なのか、経済的解放なのか。精神的解放なのか。

 

縛られている何かから解き放たれた時、人は自由を感じる。

 

今、あなたを縛っているものは何だろうか。

時間?お金?人間関係とか?

でも結局、最後は精神的に自由かどうか、なんじゃないのかな?

 

ぜーんぶ取っ払えたとしたら、自由だ!って思えるのだろうか。

そもそもだけど、本当に、今、そこには不自由しかないの??

 

なりたい自分って?と同じだけれど、自由というのもまた、自分にとって意味するところが何なのかを問われていると思う。

不自由があるから、自由があるんだよ。

 

 

人は見た目(外見)じゃない、とは言うけれど

ここで見た目とは、顔面偏差値のことを言うているのではない。そういうどうしようもないところではなくて、体形とかファッションセンスとか、自分の努力や工夫次第でどうにでもなる部分の見た目。

 

最終的には人は中身、だと思っている。

 

でも、今、その中身が足りなかったとしたら、どうだろう。

どうやって補っていくんだろう。

結局のところ、他の力を借りるしかないよね。それが「見た目」だと思う。

 

なりたい自分に向かって、今はちょっと背伸びをする。

するとその見た目と中身のギャップを埋めるべく、自ずと努力していくんじゃないだろうか。

あるいは、その見た目に伴った自分を演出しだすんじゃなかろうか。演出しているうちに、獲得して本物になる。

真似るから学ぶといったところだろうか。

これを使わない手はないと思う。

なりたい自分になるために、演出するって、一番手っ取り早いじゃん。

 

自分の中身で勝負するのはいいけれど、勝負できるほど、中身がある人ってそんなにいるの!?って思う。決して卑下して言っているのではなくて、はなから裸の自分で勝負するっていう考えが、ヤバイと言っている。笑

 

ファッションは自分を映す鏡だ。

言葉も自分を映す鏡だ。

 

世の中には、わざわざ恥ずかしい裸になんてならなくても、自分を映し出せるツールが沢山ある。

それを如何に使って、自分を構築していくか、だと思う。

だから形から入るというのは、あながち間違いではないとも思っている。

ただし、とりあえず形から入った先を思い描けているかどうかが肝だけど。

 

蓋を開けてみたら、中身がない!というのも問題だけど、だいたいそんなもんだから、見た目から攻めてみてもいいんだじゃないのかなあ。

見た目と中身のギャップを埋められるかどうかは、自分の努力次第だけれど。

中身が伴わないのであれば、その見た目は一生仮の姿だし、ただの背伸びで終わる。

 

でも中身から外身という順番で磨くのって、結構時間かかる。そして結局永遠に中身の追及に終わることもある。

見た目というのはそういうところで便利で、視覚的になりたい自分像を、自ずと確かめられるんだ。毎日そういう自分を目で確かめる。そうしたら、きっと自分の目標や志からブレないだろう。そして結果的に、なりたい自分を常に意識していけるんじゃないかと思う。

結局、見た目も大事。

 

 

いかに生きるか、という禅問答みたいなトレンド

今って、どう生きるか、みたいな万人に共通する答えはない禅問答を好む風潮にあるけれど、それで本当に自分の本質に迫っていけるなら万々歳。

でも、それを考えている自分カッコイイみたいな、トレンド感もかなりある。

あちこちにインフルエンサーと呼ばれる存在がいるから、猶更なのかもしれない。

「生き方」というトレンドを作り出した過程を見ていると、どうしてもココ・シャネルを思い浮かべてしまう。

だけれど、シャネルのように強烈なトレンドアイコンは、今のところ居ない。

いないのに、何故か流行っているのが不思議でならない。

AKB48じゃないけれど、少し手の届きそうな存在というところが、自分もやったら出来るかも!?みたいに思わせる妙な親近感になっている気がする。

 

生き方、ってトレンドなんかじゃない。

シャネルは彼女の生き方そのものが、本当にトレンドで、それはファッションのみならずスタイルとして確立されていったけれど、あれは女性が社会進出しだしたという社会的背景の後押しも大いにある。

 

一方で、今、これといって、そういうものはない。

そう考えると、本当にただの流行で、しょせんファッションアイテムというか、結局本質を掴めていないので、流行が去れば自分も消える、みたいになりそう。

働き方改革とやら、仮想通貨とか。確かに時代の変革期にはあると思う。

でも、どうもそこから抜きんでた人は見当たらない。横並びと言ってもいいかもしれない。

面白そうな人、それも結構~そこそこ成功している人が何人もいる。

でもぶっちぎりの勝者はいない、みたいな。

 

自分がどう生きるかなんて、自分が決めれば良いことだ。

それを考えるきっかけとして、今あるトレンド感に乗っかるのはあり。でも、全力でトレンドにおんぶに抱っこじゃ、まずいと思うんだ。

「生き方」探しが、トレンドじゃなくなったら終わりだから。

 

だって一昔前もあったよ?

「自分探しの旅」とかいうの。

ある程度の年齢の人にはわかると思うけど、みんなあのキャッチフレーズで、バックパッカーとかやってみたり、どっか旅行いったりしたでしょ?

自分探し中、とか言うのがカッコいい時期もあったでしょ。

 

時代は繰り返す、を見ている気がする。

きっとここから先は、自分そのもの、自分の人生の本質に辿り着けなかった者は、結局社会から淘汰され葬り去られていく気がする。

 

おー怖い。

 

ん?私?

私は自分の障害とどう付き合っていくか、だ。目下これにつきる。

そのうえで、自分のしたいことをどうすべきか、好きな人と一緒にいるにはどうしたらいいのか。悶々と考えているところじゃよ。

 

今日はこの辺で。

最近の変なトレンドについて、でした。

またにゃん。

 

既製品みたいな幸せを捨てた日【頭の中の本棚から】

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こんばんは、にゃんちーです。

本当は朝にblog書きたいなって思っている今日この頃。たぶん、朝書いたらめっちゃポジティブですっきりした文章だと思うんだけどな。

 

さて、さすがに1日1冊本を読み切らない。ビジネス書ばっかり読むとか、私は全然楽しくないもんだから。笑

 

昨日のblogの続き、みたいなもの。

昨日のblogは、一昨日の続きみたいなものだったけれど…。

 

 

 

『愛がいない部屋』 石田衣良 を読んでのこと

 

今日は私の話だけなので、その前の読書感想文はこっちからどうぞ。

 

www.nyanchii.com

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刊行されてすぐに読んでいて、タイトル小話がきっかけで、昨日のblogを書くのに改めて読み直したところなのね。

それからずーっと、自分のこと、考えていたのだ。昨日のblogでも紹介しているのだけれど、『愛がいない部屋』という短編集の中の「空を分ける」という短編小説が、どうにも過去の、ちょっと前の自分に響いてしまって、長らく頭のなかはぐるぐるとしていた。

答えが出た時、泣けてきてしまったのは、ここだけの秘密。へへへ。

 

 

愛し合う を求めることを辞めた

私はその日を、自分の独立記念日と呼んでいる。

離婚した日のことだ。

 

忘れもしないけど、全部自力で引っ越し作業して、片付けもようやく落ち着いて部屋でごろんってしてみて、嗚呼なんて幸せなんだ!って思ってしまった。

 

ずっとずーっと、離婚を悩んでいた。今思えば、躊躇っていたのかもしれない。

上手くやっていく方法は本当に他にはないのかな?これ以上ないのかな?って。

諦めたくなかったのかもしれない。

何を諦めたくなかったのかと言えば、きっといつか本当に愛し合える日が来るのを、だと思う。

でも無理だった。まるまる5年も一緒にいたけど、出来なかった。

 

野球じゃなくて、キャッチボールがしたかった

思い返せば5年もの結婚生活は、完全に一方通行だったし、一人相撲だった。

「空を分ける」ことができたら良かったのだけど、そうやって何か共有していくには、自分だけがどうにかしても出来っこないのだ。

 

私はキャッチボールがしたかった。

投げたボールを受け取ってもらって、投げ返してくれたボールを私が受け取る。

そうやって一緒につくり上げていきたかった。誰かと一緒に生きていくって、そういうもんだと思っていた。

 

でも現実は違っていた。現実は、というよりあの人は違った、というのが正しいだろう。

私はキャッチボールがしたかったのに、ボールを投げるとバットで打ち返される、みたいな日々だった。いつもスパコーンと気持ち良くバットでボールをぶっ放されて、なんでか知らんけど、走ってボールを取りに行く私、というよく分からない構図だったと思う。分かりにくいかな?

要するに主従関係だったんだと思う。自分は下僕だと思っていたくらいだ。

 

それでもきっと、どこか相手にも自分にも期待していて、相手の望むものを与えていったら、いつかきっとキャッチボール出来るのかなって思っていた気がする。

早い話、愛されたかったのかなあ。

でも愛されたいと同じくらい、自分もちゃんと愛してみたかった気がする。

 

社会的な幸せ、それはまるで既製品

ある程度の歳になったら結婚して、結婚したんだから子供作って、そしたら家建てて。

家庭持ってからの幸せって、いつ決まったのか知らないけれど、みんながみんなこうして同じようなものを思い描いている。

その社会的な幸せは、私にとってまるで既製品で、量産型のものだった。だから、私はそれらに兎角拘りはなくて、どうしても子供が欲しい!とかないし、結婚したい!とかもなかった。

なかったんだけど、あの人は、そういう絵に描いた餅じゃないけど、社会がつくり上げた幸せという偶像を永遠と求める人だった。

だから平気で私にこう言うんだ。

 

仕事辞めるなら、次探してからにしてね。

どうせ転職するなら、(子供生まれた時の事考えて)福利厚生のいいところにしてね。

自分の稼ぎだけじゃ家を建てるの無理だから、正社員でよろしくね。

子供欲しいから、病院調べて。(妊娠しなかったものでね)

 

あげたらキリがないんだけれど、そうだね。私はあの人にとって、夢をかなえる道具に過ぎなかったのだと思う。

そこに、愛 など、あるはずがない。

 

なんでだろうって、ずっと思っていたんだ。

結婚するのも、子供作るのも、家建てるのも、別に私とじゃなくたって、他の女とでも出来る事じゃん?って。

そういう既製品みたいな幸せって、良くも悪くも目に見える形でしょ?

形が欲しいだけなら、相手は誰でも良いんじゃないの?って。

 

私がどんなにボール投げても、それは目に見えないものだから、一向に受け取ってもらえなかった。

私は永遠に終わらない玉入れ競争をしてたのかもしれないね。投げても投げても、網からすっこ抜けちゃう感じでさ。

 

あれこれしてみても、全然受け取ってもらえなくて、気が付いたら5年も過ぎていた。

ある日突然、「とりあえず、私の幸せはこれじゃない!」って思った。

本当に突然だった。そして、じゃあ自分にとっての幸せって何?と聞かれても、答えられなかった。

答えられなかったけど、これじゃない!っていう事だけは、ものすごくハッキリとしていた。

その時、私は、愛し合うという目に見えないことを求めるのをやめた。

自分にも、相手にも、それを求めることを辞めた。

 

 

そもそも 籠の中の鳥 ではいられないタチだった

離婚する1年前から体調が絶不調だった。

ちょうどその頃、仕事でもバタバタしていたから、何が原因かさっぱりわからなかった。むしろ仕事のせいだと思っていた。

体重変動なんかほとんどしない私が、ものの2ヶ月で5キロも落ちた。そしてみるみるうちに10キロ痩せてしまった。

6キロ落ちたころ、内科にかかってみたら尿蛋白でていて、貧困の国の子供なみに栄養失調だと言われ、消化器科にかかることになった。

胃カメラ通して、十二指腸までみたけど、何も問題はなかった。

でも痩せてく。そして食べれない。

 

さすがに10キロ痩せた時、もう自分では限界だなあと思って、しぶしぶ心療内科にかかった。

摂食障害で鬱だった。ただ、それは二次障害で、何よりもこの時に、私は自分が発達障害だということを知った。

ADHDだし、ASDっぽさもあった。

心療内科の先生に、昭和的価値観(まさに別れた夫だけど)の人とはやっていけないよ、そういう結婚は無理があるよと言われた。

ADHDの人はね、籠の中の鳥ではいられないんだよって。

 

私には結婚が向いていなかった、社会的な幸せ、既製品みたいな幸せに浸ることは無理なんだって思った。

そもそも、出来ないんじゃんってわかった。

自分が欲しくもないものを、相手の期待に応えるかたちで、手にしようとしていたこの5年が、いつのまにか私を蝕んでいたんだということに、ようやく気が付いた。

 

性格に名前ついただけでしょ

自分が心療内科にかかったこと、発達障害だったことを告げたときのあの人の言葉だ。

「性格に名前ついただけでしょ。一緒に気持ち的に沈んでも仕方ないし。」

いや、まあ、そうなんだけど。

そうなんだけど、違う!って思った。

私も私で往生際が悪くて、この期に及んでまだ相手にも自分にも期待していたんだなあと。あの時の私は私で、とても未熟だったんだ。今思うとだけど。

 

今振り返ってみても、つらかったなーって思うばかりだ。愛されていた、と感じた記憶がない。同じように、自分の気持ちが相手に伝わった記憶もない。本当に愛せていたのかさえ、定かではない。

きっと、何もできない自分に、頑張っていない自分に、自信がなかった5年間だったと思った。

 

思い返すとただただ辛いというところから脱出できたのは、本当に昨日のことだ。「空を分ける」を読んでひたすらに考えてみたからだ。

 

 

結局のところ、愛ってなんだろう

愛ってなんだと思う?(必殺、丸投げの術)

 

私にも正解は分からない。

分からないんだけど、私は1つ答えを見つけたよ。

 

愛は誰かと一緒に作っていくものだということ。

そして、少なくとも私は、それを求めているということ。決して愛に飢えているわけではないのだけれど、例えば今好きな人と一緒に築いて共有していけるのだとしたら、それはもう「愛」だな、って思った。

 

見返りを求めないのが愛、とかいうじゃん?

なんかそれって少し違うんじゃないかなって思っている。確かに、愛を表現するには一人でも出来るんだけど、それ、愛なのかな?って思う。

たぶん、一人でも愛を形に出来る時っていうのは、相手が絶対的に自分に依存している時なんだよ。

石田衣良の『愛がいない部屋』の中の「十七か月」という短編小説がまさにそうだと思う。これ、母と乳飲み子との関係のお話。母がほっといてしまったら、あっという間に命が絶える乳飲み子は、母に依存するしかない。母はそこに無償の愛を注ぐ他、選択肢がない。

そういう状態なんだと思うんだ。勿論、母と乳飲み子にとって、それは「愛」なんだけど、ある程度自立した人間同士における愛って、そうじゃないと思う。というか、そうあってしまっては嫌だなあ、寂しいなあって思う。

 

だとしたら、私にとっての愛って、って考えてみた。

 

友達でも親でも恋人でも、間柄はなんでもいいんだけど、結局自分の好きな人と、形じゃないものを共有して、空をわけあって、一緒に築いていく、目には見えないお城のようなもんが、愛なんじゃないかなあって。

 

愛という言葉は呪いだ。幸せという言葉も呪いだ。

このひどく抽象的な言葉の本質に辿り着けない以上、それは呪いの言葉以外の何物でもない。

きっと多くの人が、この呪縛に縛られて生きている気がする。

でも私はそこからほんの少しだけ、その呪縛からほんの少しだけ、解き放たれた気がした。

 

昨日、私は既製品みたいな幸せ・愛を捨てた日。

自分の愛を探す旅は始まったばかりのようです。

 

っていう、長いながーい、独り言でした。おわり。

とてつもなく長い独り言にお付き合いいただき(最後まで読んでいただき)ありがとうm(_ _)m

 

したらば、またにゃん。

 

愛のかたち【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

昨日ちょろっと読みかけたので、結局あたまから読み返してしまった本。

もはや、昨日の記事の続きみたいなもの。かなり短めっす。

 

 www.nyanchii.com

 

 

『愛がいない部屋』 石田衣良 集英社文庫

短編集なので、あらすじとリンクは割愛します。

(ちなみにリンクは昨日の記事↑に貼ってあるので、そちらをどうぞ◎)

 

愛っていうと、どんな間柄を思いますか?

 

きっと大半だ、男女の関係を思い浮かべるでしょう。

この小説に限って言えば、概ねそれで書かれています。男女です。1作だけ、父と息子の話がありますが。

 

でも男女って言っても、色々ありますよね??

友人、恋人、愛人、不倫、未亡人同士とか。

男と女の立場(例えば社会的地位とか年収とか)が違えば、その組み合わせって無限大です。個々の価値観もありますから、それも加味したら、一口に男女といっても、いろんな組み合わせがあるんです。

 

 

空を分ける

短編集で色々あるのですが、この短編集がとても好きです。

紹介につきネタバレです。悪しからず。

 

ざっくりとしたあらすじは、互いにろくに相手のこともしらない男女がある日ルームシェアを始めるというもの。

この男女は一緒に部屋の内見に行きます。ある部屋でみた景色がすごく良かった。

川本梨花(女)はその時、こう思うのです。

この空を誰かと分けあえるなんて、ひどく素敵なことに思えた。 

 そして

なにかが始まろうとしている。その予感だけで、こんなにしあわせな気もちになる自分が、梨花はおかしかった。自分にもまだまだかわいいところがあるものだ。

 

ほぼ勢いでその部屋に決め、一緒に家具を選ぶ。ルームシェアといえど、男女なわけで、もうこんなの同性カップルじゃん、と思ってしまうような光景。

二人で住むにあたって、ルールも一緒に決めていく。

どこにでもありそうな、男女の同棲生活。(ルームシェア、だけどね)

 

淡々と互いの日常は過ぎていくなかで、ある日を境に梨花が男を見る目がかわる。

ひとりの人間とむきあえば、必ず気になるところ、見たくないところがでてくるものだ。それは遠くからあこがれているだけでは、決して見えてこないものだった。 

 

 何も知らない間の男女から、梨花はいつしか「あこがれ」を抱き、それをそっと胸にしまい込んで生活していた。でも生活していくなかで、男の嫌なところも含めて色々見えてきたそのとき、梨花にとって男は初めて

生身の存在 

になったのだ。

でも結局、梨花の気もちは受け取ってもらえなかった。

この空をふたりで分けることは、できなかった。 

 

空を分ける、という表現がとても素敵だと思ったんです。

共有する、ということかと思います。

また、空っていうのがいいなと。晴れの日ばかりではない、曇りも雨もあるわけで、夜もあるし。あえてどんな空なのかを書かないことで、色々な思いを共有する、ということを連想させる。巧みな表現だなあと。

 

愛の正解

愛の正解は、ない。

そう思っています。というか、この本を読み返してみて、そう思いました。

 

この短編集には、本当に色々な男女関係の愛が描かれています。でもどれも、不思議な愛の形をしています。昨日の記事にも書いたのだけど、この小説に描かれている愛って、体がつながるとか、何かしてあげる・してもらうとか、そういった目に見える形ではないものです。

愛ってなんだろう、結婚ってなんだろう、家庭ってなんだろうって、考えさせられます。

小説の中では、みんな、それぞれの「愛」を探し、表現していく。

ちょっと切ない終わり方をするお話が多いですが、どことなく光がさしています。石田衣良さんの本って、いつも優しい。

 

結局のところ、愛って、人によって思い描いているものが違うのだから、正解がないのだと思います。ましてどんな間柄にせよ、誰かがいないと成立しないのが愛なので、相手が違えば、描く愛も違うんじゃないかと思うんです。

 

あなたにとって「愛」ってなんですか?

その思い描いている「愛」は、普段表現できていますか?

誰かからの「愛」は感じ取れていますか?

 

 

私も誰かと空を分けあいたい。出来れば好きな人と、分け合いたい。

 

じゃあ、かつての自分はどうだったかな?って考えました。否応がなしに、自分の結婚生活を振り返るハメになりました。あいたたた。

そして、今の自分だったら、「愛」ってどんなのかな?って考えてしまいました。これらについてはまた別の機会に。

 

今日はかなり短め。

古傷えぐって塩をぬりたくったような気分になっちゃったのだ。

今日はこの辺で。おやすみにゃん。

 

呪縛から解き放たれるとき【(半分)読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

引っ越し作業でヘロヘロで、インプットする時間も、ぼーっと考える時間もないままに、今、書いています。

書きたい気持ちはあるのに、ネタがない!というので、少しばかり大好きな人との会話からもらったヒントを頼りにつれづれと。

まとまりがなかったら、ごめんにゃさい。

 

 

タイトルのインパクト

岩井俊二の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という映画を知っていますか?

 

ちなみに、私は岩井俊二の映画が好きなのでDVDを相当持っているにゃ。

それでね。

この映画のタイトルがあまりにインパクトが強かったから、映画を観ていないと彼が行っていたのね。

え?笑 インパクト強かったのに、見てないの!?って思うでしょ。

むしろなんで観てないのか聞いてみた。

彼の答えはこうだった。

打ち上げ花火を下から見るのか、横からみるのか、っていうタイトルを見ただけで、自分のものの見方がかわった。そのくらい衝撃的だった。

 

彼の言っている事は正解で、たった50分の映画で、「ものの見方」について、あるいは「思い込み」について随所で触れてくる。

たった50分と書いたけれど、それだけを言うために50分も映画にしたのに、映画のタイトルだけでおおよそ伝わってしまうんだなって、彼の話を聞いてて思ったのね。

そう考えると、タイトルって凄い凝縮された言葉なんだろうなと。

 

 

私の場合は、タイトル買いした本がある。

『愛がいない部屋』 石田衣良 集英社文庫


石田衣良の短編集。最後の短編小説が「愛がいない部屋」だ。

これは本当にジャケ買いならぬ、タイトル買いだった。

 

「愛」って、ある・ない、というでしょ?

いない、は人に対して使う言葉だよね。

組み合わせとしては違和感があるのだけれど、その違和感が妙にしっくりする。

 

是非まだこの本を読んでいない人は、想像してみてほしい。

実際の中身は違うかもしれない。

『愛がいない部屋』という、このタイトルを見ただけで、どんなことを想像しますか??

 

部屋にそこに誰かは居るのに、「愛」する人はいない部屋なのだろうか。

それとも「愛」してくれる人が居ないという意味なのだろうか。両方の意味だったら、もう家庭内別居とか想像しそうなタイトルだよね。

 

でも、もしかしたら、「愛」なんてものは目に見えなくて、もちろん触れることも出来ない。そういった意味では「愛」というのは存在を確かめることができない、ひどく抽象的な、偶像にも近いものだと仮定すると、諦めにも似た気持ちで「愛」がいない、という言葉になるのかもしれない。

 

 

タイトル それは要約力もしくは凝縮力

この話をしていて、タイトルという至極短い言葉には、2つの種類があると気が付いたのだ。

 

一つ目は、言いたいことをぎゅぎゅっと要約して的確に表現したもの。Twitterなんかもそうだとおもう。いかに140字に纏め上げるかだから。

岩井俊二の映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」というタイトルは、打ち上げ花火に絞って映画として描いているけれど、言いたいことがそれ以上でも以下でもなく、受け手が的確に想像できるように表現されているタイトルだと言えると思うの。

 

二つ目は、言いたいことを想像させるために、色んな要素と思いを凝縮して表現したもの。

私がタイトル買いした、石田衣良の『愛がいない部屋』というのは、あまりに凝縮されている言葉だからこそ生まれる想像性に富んだ(色んな可能性をほのめかす、ともいえる)タイトル、だと思う。

 

どちらも心に突き刺さるというか、グッときたタイトルなのだけれど、実はものの見方をタイトルという限られた短い言葉でもって、正反対に表現しているのだ。

 

 

呪縛から解き放たれるとき

呪縛だなんて、おどろおどろしい言葉を使っているけれど、縛りから解放される瞬間というのも実は2つあるんじゃないかと思っている。

 

一つ目は、認識した言葉から連想(想像)したものが、そのまま答えだったとき。

これは言い換えれば安心感ということになる。

さっきの岩井俊二の「打ち上げ花火は、下から見るのか?横から見るのか?」の場合、

そもそも映画の中では、まず、打ち上げ花火は球体で丸なのか、うちわの様に平べったいのかという論争が繰り広げられる。

そのうえで、いや、打ち上げ花火は丸でしょ、っていう答えに辿り着く。じゃあ丸だったら、今度は、その打ち上げ花火って、下から見てるの?横からみてるの?っていう話に変わっていく。

 

でもこれって、打ち上げ花火より下の位置から見れば、下から見ていることになるし、打ち上げ花火と同じ高さから見れば、横からみていることになる。

もっというと、打ち上げ花火よりも高い位置、ヘリにでものって優雅に上空から見ていたとしたら、上から見ていることになるよね。

同じ打ち上げ花火でも、実は自分の立ち位置によって、見ている方向は違うってこと。

まさに、物の見方は一つではない、という想像がそのまま描かれている。

 

 

じゃあ二つ目はというと、それは言葉から想像されたものとは違った時。これはあるあるだと思うんだけど、いい意味で裏切られた時って言えると思う。

石田衣良の『愛がいない部屋』は、タイトルだけ見れば、悲しさと寂しさの漂うものになるだろう。

でも本当にそうなのだろうか。

正直、読んで、と言いたいところなのだが、結論からすると実は、タイトルからの想像は不正解だ。

あらすじをざっくり言うとDV夫とくらす子持ちママの話。そんな人には言えない話を、ご近所のおばあさんにぽつりぽつりと話していく。なんとも静かな話なのだ。

でも実はこの短編小説は、最後は希望の光を持って終わる。

いつものロビーがまぶしい光にあふれていた。この光が自分にはずっと見えなかったのだ。きっと光は世界にではなく、人の心にあるのだろう。

 

きっと主人公にとって、「愛」のある部屋ではなかった。「愛」がいるとも感じられなかった。だからずっとその生活に光が見えなかった。それは誰かに、夫という物体に「愛」というものを現実として求めていたのだろう。

でも本当は、「愛」なんてやっぱり形はなくて、それを見つけられるかどうかは、自分の心次第だというところに気が付いたのだ。光が世界ではなく「人の心に」あるのだろう、という主人公の最後の気持ちは、まさにそれを言っていると思う。

現実にあるいは、夢見ていた「愛」という形から解放された瞬間だったんではないらだろうか。

 

と、書ききったところで、あとがき読んだら、名越先生もあとがきで似たようなこと書いてた。

私、盗作疑惑になりそう。笑

 

おわりに

夏目漱石は英語の「LOVE」を、「月が綺麗ですね」と訳したという話はあまりにも有名ですね。明治以前、「愛」という日本語はなかった。

 

夏目漱石は言葉の本質をついる。

それが「愛」という訳し方にとてもよく表れていると思っている。「愛」というのがいかに抽象的なのか、そして「愛している」などと動的な言葉で言わなくとも、「月が綺麗ですね」という会話で十分伝わるでしょ?ということだと思うのだ。

 

愛だけじゃない、夢もそうだと思う。

抽象的がゆえに膨らんで、偶像虚像ができあがってしまう。するとそこに飲み込まれてしまう。本質は言葉から生まれる「形」なのではなく、その言葉をどう汲み取るのかとか、言ってみれば言葉の「中身」が重要だということ。

 

今日はそんなことを考えました、という話。

実は今日は1時間という時間制限付きで、記事を書いております。残念ながら10分オーバー。といことで、今日はこの辺で。

石田衣良の『愛がいない部屋』の読書感想文は、せっかくなので、もうちょっと他の短編集も踏まえた形でまたあげまする。

 

それではまたにゃん。

5000文の1秒の奇跡に賭けて、全力投球【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

趣里と菅田将暉がメインキャストで『生きてるだけで、愛。』という映画が公開されましたー。ぱちぱちー。

観たい。

いや、そうでなくて。

 

この映画のタイトルを見た時、あれ?これどっかで見たぞと思い、探してみた。

ありました、ありました。自分の本棚にありました!

(NHKの某番組のコーナーの関根勤さんを思い浮かべた方、正解です。)

 

もう10年くらい前の本だけど、読み返してみたら、こんなに面白かったっけ!?と思ったので今日はこれをご紹介します。

 

ということで、今日の1冊。

 

『生きてるだけで、愛。』 本谷有希子 新潮文庫

新潮社HPより拝借。

 

ご紹介にあたり、ネタバレです。悪しからず。

映画観る予定の方、結末まで書いてしまうので、映画見てからお読みください。

もしくは、目次のあらすじをすっ飛ばして記事をお読みください。

 

では、さっそく。

 

 

あらすじ

あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫る。

(ここまで新潮社HPより拝借m(_ _)m)

 

ある日、寧子は津奈木の元カノである安堂に、強引にイタリアンレストランに連れ込まれる。安堂は要するに結婚に焦っていて、やり直せるものなら津奈木とやり直したい。だけれど津奈木は自分から別れを切り出すタイプではないので、お前(寧子)邪魔、ということが言いたいらしい。

鬱と過眠症を「言い訳」に体たらくな暮らしをする、まるでヒモのような寧子に自立を迫るのだが、うだうだ言っている寧子に安堂の堪忍袋の緒が切れて、その場でバイトをさせてしう。入った先のイタリアンレストランは、寧子にとって、不幸にもバイト募集中だったのだ。

 

結局、そのイタリアンレストランでバイトする寧子。

でもそのイタリアンレストランが妙な家族愛で満ちていた。鬱は寂しいからなるんだよ、一緒に頑張ろうぜとか言われちゃって。

初めは優しい人たちだなあ、ここでならやっていけそうだと思った寧子。だが、バイト先であるイタリアンレストランの今どきあまりにも密度の濃い愛(のような偽善)に呑まれそうになった時、寧子は急に壊れる。

 

真冬の雪が降る中、寧子は真っ裸でマンションの屋上を駆けずり回る。

そんな寧子に急に呼び出された津奈木は、寧子の姿を見て、動揺を通り越して固まってしまう。

寧子は(鬱から)復活した!(躁状態に転じた)と言いながら、津奈木に思いの全てをぶつけ始める。それはまるで、ダムが放水される如く、溢れ出す。

 

あたし、楽されると苛つくんだよ。あたしがこんだけあんたに感情ぶつけてるのに楽されるとね、元取れてないなあって思っちゃうんだよね。あんたの選んでる言葉って結局あたしの気持ちじゃなくて、あたしを納得させるための言葉でしょ?

 

津奈木は、何も着ないと頑なに話し続ける寧子を抱きしめながら、ひたすら背中をさすってやり彼女の話に耳を傾ける。

そして寧子は津奈木に、こう言い放つのだ。

 

いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなあ

 

屋上から部屋に戻る二人。暖房をつけたと同時にブレーカーが落ちた。押しかけてきた安堂がチャイムを連打するなか、そしてブレーカーが落ちたままの暗くて寒い部屋のなかで、津奈木は寧子の頭をなでながらこう言うのだ。

 

でもお前のこと、本当はちゃんと分かりたかったよ

 

 

誰かに全部を分かってほしい でも誰でもいいわけじゃない

人はいつだって孤独だ。でも少しでも分かってくれる人がいるから、やっていける。

分かってほしい、という切なる願望は誰しもが持っているはずだ。

ただ、それが誰でもいいのかというと、本当の本当は違うんだと思う。

誰かにさえ分かってもらえれば幸いなのだけれど、本当の本当は、どうしても分かってほしい人、っていうのが居ると思うの。

でもきっと、普段、そこにはみんな蓋をしている。

分かってほしい人に、分かってもらえない寂しさに蓋をして生きている。その寂しさを、見て見ぬフリをして生きている。

誰かと別れることはできても、自分とは一生別れられない。どんなに嫌でも、私は私と一緒に生きていく他ない。別れられるって、いいなってそういう感覚。

 

寧子の終盤の叫びは、とにかく津奈木に分かってほしい!全部わかってほしいんだ!っていう切なる思い。それを素直に言うって、ものすごいエネルギー使うし、何よりその正面突破力が凄まじい。当たって砕けろじゃないけど、下手したら自分だって粉々になるかもしれないのに。

自分が壊れたっていいから、分かってほしい。どうにかして、あんたに分かってほしいの!っていう寧子の気持ちは、正直私はとても良くわかる。あんなに破壊力抜群の行動はとれないけれど。

 

メンヘラって言われちゃうであろう寧子は、復活したときに何かと全力投球で、きっとそれに自分でも疲れて鬱になるというループにいる気がする。

鬱は鬱で、そこに全力投球なのが寧子だ。ある意味怖いくらいに真っ直ぐなのだ。自分にも、愛おしい人にも。

無論、そこに巻き込まれる周りはたまったもんじゃないのだが、何故か津奈木は3年物間一緒に居てくれたのだ。

 

 

そう。

だから分かってほしい人というのと同じように、どうしても分かりたい人、というのも居ると思う。津奈木にとっての寧子のように。

 

誰かの力になれたら、誰かの心に寄り添えたらって、若干お人好しな事言うようだけれど、そうなれたらいいなって思う。

じゃあ同じように誰でもいいのかと言われると、本当の本当は、どう?

違うんじゃないかな?

どうしても、(出来れば全部)分かりたい人、って居るんじゃないのかなあ。

私には居る。だから津奈木の気持ちも、良く分かる。

 

みんな、本当は誰に分かってほしいの?

みんな、本当は誰の事を一番わかりたいの?

そんな風に問われている気がしてならない。本当に大事にしたい人は、誰?って。

 

 

5000分の1秒 という奇跡

これは真っ裸になって復活を遂げる寧子と、津奈木の奇跡の瞬間なのだ。

二人は葛飾北斎の「富嶽(ふがく)三十六景 神奈川沖浪裏(おきなみうら)」の時間で繋がる。

 

ここの書き方が本当に秀逸というと言うと固すぎて・・・

要するにヤバくて、それこそ北斎のこの浮世絵を見た時の様に、マジで痺れた。

 

小説の初めごろに、鬱で寝てテレビばかりを見ていた寧子の記憶に残っている番組の話が書かれている。

それが葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、富士山を背景に荒々しい波がザッパーン!ってなっているその浮世絵が、5000分の1秒のシャッタースピードで撮った写真の構図と寸分たがわず一致する、という内容。

これについて寧子は、

やっぱりあの画は彼の頭の中で想像して書いたものなんだろう。たまたま奇跡的な確率で現実が想像に追い付いちゃっただけで。 

と心のなかで言っている。そして、

でもきっとあたしにはあたしの別の富士山がどこかにあるってことなんだろう。

と思うのであった。

 

それが復活をとげた寧子の言葉に滲み出る。 津奈木に対して、

あたしはもう一生、だれにも分かられなくたっていいから、あんたにこの光景を五千分の一秒を覚えてもらいたい 

 

あたしがあんたとつながってたと思える瞬間、五千分の一秒でいいよもう

 

ぱっと読むと支離滅裂でしょ?笑

でもつじつま合ってるんだよね。

 寧子は、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の五千分の一秒が、最初は想像だろうと思っていた。その想像に、現実が追い付いた、という奇跡、と捉えていた。

でもやっぱり、それを描いた北斎は、

その瞬間お互いの中で何かが通じ合ったからだと思うんだよね。だって富士山のことを分かろうとした人間ってたぶんいないだろうし、富士山は富士山で自分のことを何から何まで知ってもらいたいたくて、ザッパーンの瞬間をわざと見せつけたはずなんだよね絶対

と、寧子は北斎と富士山のシンパシー(共鳴)っていう奇跡だと気が付く。

更にそれは寧子の津奈木に対する想いそのものなのだ。だから、寧子はその奇跡を自分で起こしてみたくなっちゃったのだ。

寧子は寧子の富士山を見つけた、つまりそれは津奈木だったんだ。

 

狂気の沙汰とでもいうのか、どうかしてるぜ 寧子、と言いたくなるのだけれど、 寧子の言っていることは、私は真実だと思った。

 

人と人が繋がるって、目に見えなくて、それはセックスとかそういう体のつながりじゃなくて、心が通い合う瞬間って、本当に一瞬の出来事で奇跡みたいだからだ。

だって、「あ、今、繋がった」って、確認しようがないじゃない?

電話みたいに通信してる訳じゃないんだからさ。テレパシーも使えないし。

 

でも、心がつながった瞬間って、何故だか感覚的に分かるじゃん。

その時って不思議で、自分だけが勝手に心が通った(かよった)と思っているわけじゃななくて、相手も同じように自分と同じタイミングで心が通ったと思って疑わない。

だから「繋がった」って思うわけでしょ?

やっぱり、それって奇跡の瞬間なんだと思う。

この本の結末は、ちょっと乱暴だけど、不器用な二人の奇跡の瞬間を目の当たりにしたような気分になる。

そうだね。 寧子の言葉を借りれば、北斎の「ザッパーン」の瞬間。

そう。

5000分の1秒を、見た。そんな感じ。

 

 

本谷有希子の文体(この小説に限る)

本谷有希子はそもそも、自分の名前を劇団の名前として活動し、劇作家でもあり演出家でもある。

そのせいか、この小説にも演劇っぽり台詞の言い回しが多い。

 

登場人物、とくに 寧子の台詞には句読点が本当に少ない。それは多分わざとで、 寧子の勢い、全力投球なところが出ている。息をつく間もなく、ぶわーっと喋る。 寧子はそうやって自分の感情を、字の如く吐き出している。

ちなみに鬱の寧子の台詞は、必要最低限すらも喋れていないので、もたついている。

そういう意味では、少し読みにくのかもしれない。

 

一方で津奈木の台詞は、最低限にとどまっている。必要最低限のことしか言わない。超省エネな台詞。

 

私は、ここに著者の文章力の凄さがあると思っている。

活字で登場人物の話すスピードが分かるっていうのはちょっと信じがたい。登場人物の息づかいが分かるって本当に凄い。

だって演劇じゃあるまいし、目の前で台詞を聞いているわけではないのに、例えば津奈木の台詞はゆっくりと、寧子の台詞は捲し立てるように、勝手に読み入ってしまう。

無造作に書かれているようで、読者の識字スピードはコントロールされている。

この文章力、恐ろしいでしょ、どう考えても。笑

 

それからもう一つ。

この小説の中には、とてつもなく、擬音語・擬態語が多い。

そもそも日本語はオノマトペ*1の多い言語だ。

オノマトペってすごく感覚的な、ある意味で抽象的な言葉。ゆえに、そのオノマトペから連想する状態や心情が、読み手に画一的に届くとは言い難い。

そう言い難いはずなのだが、これはあくまでも私の感覚ですが、ドンピシャなのだ。

オノマトペを的確に活字で使うって、もう、魔法使いだよ。

オノマトペの多発によって、読者は想像力を否応なしに感化されるとともに、日本語のもつ豊かな表現力を目の当たりにする、はず。

少なくとも、私は著者が使ったオノマトペ多発文章が好きだし、別の言葉で的確に表現されるよりも余程、自分の想像力を刺激された。

 

この小説に限らず少し書くと、本谷有希子の書いたものは、かなりの確率で好き嫌いが分かれるところだと思う。何しろ、狂気的でメンヘラ人物が多いので、目も当てられないし、読みづらいと感じる人も多いと思う。

 

でも、ちょっとその見方を除けて読んでみて欲しい。

狂っている中に、大胆さと緻密さ・繊細さが共存している。

そしてそこに、きっと普段みんなが蓋をしている真理を突き付けてくる残虐さが見えてくるはずだから。きっとね、自分も持っているけれど見たくないものを、まざまざと突き付けられるから、彼女の作品を毛嫌いする人が居るんだと思う。

正直なところ、そういう、臭い物に蓋をするタイプの人にこそ、読んで欲しい。

 

最後に おまけ

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」という映画がある。私、この映画が好きなのだ。確か、カンヌ国際映画祭に招待されていたはず。

佐藤江梨子主演なのだけど、彼女の(演技での)狂いっぷりを是非見て欲しい。

そして妹役の佐津川愛美の、強かさ(したたかさ)と最後の最後のこれ見よがしに出てくる狂気っぷりにゾクゾクする。

兄役の永瀬正敏の最期にも注目してほしい。恍惚としたあの表情。台詞はないのだけれど、死の淵(自ら命を絶つのだが)で、何をどう思ったらあんなうっとりとした終わりになるのか…。

狂った世界の中に見る「愛」をぜひ感じて。

 

今思ったけど、今日紹介した小説も「愛」だ。もしかして、本谷有希子は「愛」について探しているのかもしれない。

 

 

あー。きっと今日の私の読書感想文はひどく荒れた文章だこと。

読んだものに左右されるこの感じ、ある意味ライブ感だけど、ちょっとどうにか統一したいというか、私の文体というものを確立していきたいと思う次第です。はい。反省。

ということで今日も長くなりました。

最後まで読んでくれた方、ありがとう◎

それではまたにゃん。

 

*1:辞書的意味としては、自然界の音や声、物事の状態や動きなどを音で象徴的に表した言葉

仮説と検証【凹凸日誌】

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こんばんは。にゃんちーです。

仕事の都合で全然blog書けにゃい、本を読めないのが、今何よりものストレスです。はい。

 

このところハマっているドラマ「僕らは奇跡でできている」

これ、チェインストーリーがあるの、知っていますか??

 

 

チェインストーリーって?

チェインストーリーって、そもそもドラマとドラマを繋ぐ物語です。本編よりも圧倒的に短く、主にはサブキャラメインで進む物語が多いのも特徴。

 

僕らは奇跡でできているの場合は、なんだかまるで関係がないような話が多いです。笑

本編では全然喋らないアリの研究をしている沼袋先生(アンジャッシュ児島)の、仮説と検証で成り立っています。それも、ほぼ脳内検証。それって妄想じゃん!

でもそれがすごく面白くて。いつも本編を見た後、チェインストーリーを観て、ケタケタ笑って気持ち良く終わります。私はですが。

 

GYAO!独占配信なので、こちらからどうぞ。

gyao.yahoo.co.jp

 

 

仮説と検証

沼袋先生、本当に妙なところが気に成っちゃって仮説を立てるんです。色々と仮説を立てるんです。こういうところ、研究者ですね。

仮説をたてて、検証する。その仮説が正しいかどうかを、検証をもって証明するという。ただのアリバカではない模様。

 

くだらない内容なので、笑って終わってしまうのですが、ふと思いました。

 

疑問をもつ そして仮説を立てる

仮説をたてる時って、仮説は1つじゃない。色んな可能性を探しますよね?

もしかして…から始まって、こういう理由かな?いや、違う。ああかもしれない、って。

それって別に研究だけの話だけではなくて、日常的にあると思うのです。

 

ただ不思議なことに、私たちは無意識の中に潜む「思い込み」によって、仮説を立てることが少ない。というよりも、そもそも何かの事象に「疑問」を持つこと自体が少ない気がする。

なんで?って思わないと、仮説をたてるきっかけにはなりません。

 

一見すると、沼袋先生はめっちゃくだらないところに疑問を持つんです。例えば、何故教授(小林薫)は相川一輝(高橋一生)をあんなに可愛がるのか、とか。

それは言い換えれば日常の些細な「当たり前」の出来事や風景に疑問をもつということじゃないのかと。

 

これ、実はすごく大切なことな気がしています。

当たり前を疑わない限り、それは当たり前から前には進まない。進歩、進化しない。もちろん、新しいものも生まれません。自分に置き換えても同じです。

なんでこれ、こんなに不便なのかな?とか、なんでこれするのかな?とか。

仕事を取り組む上で工夫していくにも、生活を快適にしていくにも、そういう些細な「気づき」から発生する。そこで「なんで?」という疑問になる。

せっかく気づいたのに、まあいっか!で終わってしまうのは、勿体ない!

考えて、現実を変えるチャンスをみすみす逃しちゃうんだもん。

 

検証してみる

沼袋先生の如く、脳内検証でもいいんです。(脳内検証っていう言葉が好きです)

脳内検証、でもそれは妄想。しかし立派な検証だと思っています。

それを実際にやるかどうかは、また少し違う話です。というのも、検証段階では、「かもしれない」という可能性について追究している段階なので、本当にそうかどうかは分からないから。

 

だから、どんなことでも、想像してみるといい。妄想レベルでいいのだ。

例えば、お金持ちになりたい!(なんて陳腐な!とか思うことなかれ)と思ったとするじゃない??

そしたら、お金持ちの自分ってどんなんかな?って妄想するんだよ。

欲しいもの買いまくってみるでもいいし、しこたま貯金するでもいいし、いっそ寄付するとかでもいいし。

するとどうでしょう・・・

お金持ちになった気分になっちゃうんだよ。あるいみ、疑似体験を脳内で行う。

こうやって検証してみればいいのだ。

そしたら、検証から逆算する。それが立証に繋がる。

仮説から検証。そこから逆算して、検証を立証(証明)するにはどうすればいいのか、を考える。

考えたら、あとは行動するだけだ。

 

だから考えて、動け!ということが言いたいのでなくて、ここで、立証できなくてもいいのだよと言いたい。

行動に移せた者だけが現実を変えることができる、というのは事実。

でも脳内検証まで行けるだけでも凄いと、私は思う。無論、妄想ばっかりじゃ、現実は何も変わらないけれど。

それでも気づく→疑う・疑問を持つ→検証 という過程は、少なからず自分の思考を変えてくれると思う。

もっとも、その時点で、自分の思考はほんの少し変わっているとさえ思う。

 

科学者たちだって何年も、いや何十年って仮説・検証を繰り返しているんだ。むしろそれが人生となっていて、立証にこぎつけた暁には泣いて喜んでいるはずなのだ。

そう思ったら、自分の人生で、仮説・検証・立証が容易ではないことがわかるし、そんなに簡単に立証できなくたっていいんだって、少し気が楽になるんじゃないかにゃ?

 

沼袋先生になる

ほとんどの人は自分の価値観あるいは尺度しかもっていない。しかしながら、自分の普通は、他人にとっても普通とは限らない。

それを他の価値観や尺度から物事を見てみるというのは、なかなか難しいものがある。

 

そういう時は、自分じゃない誰かになりきって想像してみるといい。

沼袋先生がまさにそうなんだよ。

相川一輝だったら・・・とか、他の人だったらどう考えているのかな?どうするのかな?って、自分じゃない誰かをインストールして、他人のの価値観や尺度を拝借している。

 

インストールしたくなる人を持っておく、別にそこには尊敬の念とかなくていいのね。

誰でもいいんだ。ただ、親しい人のほうが、インストールしやすいとは思うけど。

 

沼袋先生のチェインストーリーは、笑える話が多いけれど、実はもっと深いと思っている。

色んな見方があるってこと、色んな可能性があるってこと。

それを脳内でもいいから検証してみるってこと。そうするとちょっと、自分のものの見方が変わるということ。

そんなことを、面白おかしく、教えてくれている気がする。

 

色んな視点を持つための 想像力と妄想力の磨き方

これを身に着けるのには、やっぱり読書が手っ取り早いと思う。Twitterでもいい。

自分じゃない誰かの考えに触れる機会を持つのがいいということ。

Twitterって、ちょっと「なう」なところがあって、確固たるものがなく揺れているその過程のつぶやきもあるから一概には褒められないんだけれど。

でもその過程が面白かったりもする。その過程を逐一追っていけるのが、Twitterのいいところだと思っている。なんというのか、リアルタイムの歴史書みたいで。

 

一方、本は、著者の現時点での考えの「完成形」なので、若干押し付けがましさもあったりする。笑

自己啓発本やビジネス書に苦手意識を持って居る人は、おそらくその押し付けがましさが苦手なんだと思うのだ。

あくまでも推測だけれど、本という形にするまで、紆余曲折あって、あれこれ悩んで、結果的に「今」この答えに辿り着きました!という発表なのだと思う。

きっとこれを書いた人にも、そういう仮説と検証の連鎖があったんだなあ、って思ってみて。ちょっと親近感、湧かない?ちょっとだけ、本も読みやすくなるんじゃない?

 

小説でも同じなんだ。

誰でもいい。小説の誰かに成りきって読んでみる。と、自分の視点からでは納得いかなくても、その人の視点にたつと腑に落ちるところがあるはずだ。

小説はそうやって、疑似体験して、感覚から掴んでいくものだと思う。誰かに感情移入しながら読んで、今度は自分の中に落とし込む。

自分だったら、どうしたかな?小説と同じシチュエーションで自分だったらどう思ったかな?って。

 

それは妄想と言われる。妄想と想像は紙一重だ。

人とサルとの違いは、想像力の有無だ、とも言われている。もしかしたら、動物のなかで唯一想像力を持っているのが、人間なのかもしれない。

(イルカも想像力持っていそうだけどね。とても優しいから。)

 

想像力を養うには、他の誰かの想像力をもって補っていくほか道はない。

それが読書だったり、Twitterだったり、blogだったりするんだと思う。それぞれのツールの良し悪しはあるものの、総じて似たような効果はあると思う。

使い分けをするのもいい。

blogを読んで面白かったとしたら、このblog書いた人は普段どんなこと思っているのかな?あ、じゃあTwitterも見てみよう。とか。

 

私における読書の仮説と検証

私が浅く広く読書をする由縁はここにあるのにゃ。

ちょっと前まではもっぱら小説ばかりを読んでいた。本の中では何にでもなれるし、どんな悪いこともできる。笑

今になって振り返ってみると、そうやって疑似体験しながら、他人の気持ちを感じ取り、他の価値観や尺度を積み上げていく、そういう作業だったように思う。

それは、私があんまり他人の気持ちが分からなかった、ということに起因しているように思われる。

人の気持ちが分からなくて、どうやったら分かるのかな?という気づきと疑問から、小説読んだら少しは知れるかなという検証。

これは今だから立証できたと言えるけど、人の気持ち、に関することは、私は長年の読書でもって補完してきたのだ。

今ある私の中の優しさは、読書の賜物だと思っているよ。

 

正直に言うと、この方法は一長一短で、色んな気持ちや色んな価値観が分かるようになる分、自分の本当の気持ちや価値観を素直に吐き出すことが困難にもなる。

少なくとも、私はそうなった。相手の気持ちが想像できる分、何も言えなくなっちゃうんだよね。

今は、自分に正直に生きていきたいって思っていて、蓋してきた自分の気持ちの扉をすこーしずつ開放しているところなのだ。

 

相手によって心地よい距離感は違う。

だからここでもまた、仮説・検証が伴う。そうやって、誰とでも心地よい距離感ができてきたらいいなって思いながら、日々失敗を繰り返しながら、でもほんのちょっとずつ成功に向かって進んでいると信じている。

 

別にみんなに好かれなくていい。

でも出来れば嫌いな人は少ないほうがいいし、どんな人とでも適度な距離、それはつまり心地よい距離 を保てたらもっと快適なのになあと思っている。

私はそれを検証したり、立証するのに、読書がかかせない。そんな感じ。

 

お・・・長い。

私は考えを言葉にまとめるまでに時間がかかるタイプなのだけれど、書いているうちに考えがまとまってくるという逆説的なことがblogやTwitterでは起こる。

最近、これが楽しいと思うようになった。

自分の変化が、リアルに自分で分かる、といったら伝わるかにゃ?

アウトプット、大事だ。

 

なんとも締まりの悪い記事になってもーた。

最後まで読んでくれた方、今日もありがとう◎

巷では三連休でしたが、楽しんだ方、ぜひ何かの形でその楽しかったことをお裾分けください。私、仕事だったもんだから。幸せ、分けてくりょ。

 

何はともあれ、僕キセのチェインストーリーを見て欲しい!これに尽きる。笑

今日はこの辺で。またにゃん。

 

仲間と共に大航海の旅にでる【読書感想文】

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おはようございます。にゃんちーです。

信じられないくらい早起きしたので、そして昨日は興奮冷めやらぬままに我慢して寝たので、今書いております。

くそが付くほど寒いです。指先が…。何せ朝の4時だぜ。

 

さて、今日の1冊。

Twitterではこの本で、大いに賑わっておりますね。

 

 

『新世界』 西野亮廣 KADOKAWA

最初あるいは最後の文章で泣いた方が多いことでしょう。

泣けるビジネス書、というある種の売り込み文句で飛びついたミーハーさんは、多分なけないのだ。これを読んで泣いた人、それには訳があると思うの。

 

紹介につきネタバレ。悪しからず。

ただ、今回この本については、私はすでに『魔法のコンパス』も『革命のファンファーレ』も読んでいるし、絵本『えんとつ町のプペル』も読んでいるので、初めて西野さんの本を読んだ人よりも、感動は少ない。

そういう訳で、もしかしたら、感想文が極端に短くなるかも。という前置きを。

 

あらすじ

「キミに必要なモノは『勇気』なんかじゃない。『情報』だ」
常に挑戦を続け、常に注目を浴び続け、本を出版すれば全作ベストセラー。同世代を中心に圧倒的な支持を集め、自身が運営するオンラインサロンは国内最大。

時代を牽引する革命家・西野亮廣が語る「一歩踏み出す為に必要な情報」とは?

そして、西野亮廣が見た『新世界』とは?

今、世の中で何が起きていて、二年後に何が起きるのか?
西野亮廣がキミに語りかける、“学校では教えてくれない”これからの時代の生き方。

「大丈夫。まだ間に合う」

 角川さんのHPよる拝借。

これ、最後の「」、「大丈夫。いけるよ」のが良かった気がするんだけど、敢えてなのかな??

 

と、これでは分かりづらいと思うので補足。

ビジネス書ではあるのですが、西野さんの現在とこれからの時代考察、仲間の集め方、今後の展望といったところです。章立てはたったの3つ。

・貯信時代

・オンラインサロン

・新世界

 

どれについても、今まで西野さんがやってきたこと、絵本だったり、企画したイベントだったり、クラウドファンディングを使った時のことだったり。

自分の経験してきたもの、出会ってきた人とのエピソードから、僕はこう考えるんだよね、僕はこう思たんだよね、という具合に話が進んでいきます。

西野さんの気持ちが入っているから、語り口調なのも相まって、読みやすいです。

というか、引き込むのが上手いな!と思いました。

 

貯信時代 信用がお金を生み出す

信用を直にその場で換金できませんが、信用を稼いでいくとその先にお金があるって話。

信用を稼ぐって、物を売るよりキツイと思う。だって絶対に個人勝負だし。

会社だって信用時代だけど、会社の場合、社員は会社という看板を背負って(時のその権力を借りて)働いているんだけど、それを忘れてしまうとたった一人の社員のせいで会社そのものの信用を失いかねない。

ほら、やっぱりどこに属していようと、信用は、個人勝負なのだ。

中身がないやつは、振り落とされていく。社会で取り残されていくってことだと思う。

 

この章の中で、西野さんは

クラウドファンディングやオンラインサロンといった「個人の信用を換金する装置」が次から次へとポコポコ登場している。

信用さえあれば、お金が作れるようになってきた。

『信用持ち』は現代の錬金術師とも言える。 

と、書いている。

西野ファンは色々とご存知なはずなのだが、まだ巷ではオンラインサロンなんて、西野さんとかホリエモンとかくらいしか知らないかもしれないね。

でも、Twitterやブログ界隈なんか本当にそうなんだけど、成金ならぬ成信(勝手に命名)みたいな嘘くさい偽物もゴロゴロ居る。

 

お金そのもので考えるとわかると思うのだけれど、円もドルも為替は変動するよね。

それってお金に対する信用度の変化じゃん?

 

これはオンラインサロン=個人の信用の変換装置 においても同じなんだよね。

だから、オンラインサロン始めましたーって言って、色々実績アピールして仲間を増やしても、結局ポシャるのは、信用を勝ち得なかったからだ。 

信用を得られなかった或いは失くしたから、相場は下落する、みたいな感じ。

数字は確かに嘘をつかない。

そういう意味で、実績アピールしやす。でも信用を稼ぐ時、実はその数字は必要ないのかもしれない、と私は思う。

何故か。

人は言葉と数字に踊らされやすいから。ことの本質を見抜けなくなる魔法のようなもんだと思っている。

信用を稼ぐことが必要になると同時に、著書には書かれてないけど、信用があるかどうかを見抜く力も必要なスキルなはずなんだよ。

投資だってそうじゃない?

今は円が買いなのか、ドルが買いなのか…はたまたユーロか。勿論、相場の流れもあるけれど、世界の社会情勢とそれがいつ如何ようにお金の信用度に反映されてくるのか。今とこれからのお金の信用度を見抜くスキルが必要じゃん。

それが分からなかったら、いつドルに投資していいのか、言い換えればいつ誰を信用しても大丈夫なのかが分からない。それって、ただの博打。無知がゆえにね。

ツールが変わっても、結局必要なことは同じなのだと思う。

だから西野さんも言ってる。

「キミに必要なモノは『勇気』なんかじゃない。『情報』だ」の真相は、こういうことなんじゃないのかな。

 

オンラインサロン 志同じな人、この指とーまれ!

個人の信用にかけるオンラインサロンなので、やっぱりサロン主と趣向や思考があわないと加入する意味がないよね。

ということは、そのオンラインサロンに入る=志あるいは目指す先が一緒ってことなんだと思うわ。

 

そういえば、この本を先に読んでいた私の彼が、漫画の「ワンピース」みたいでさあ、と言っていた。これ、めっちゃ分かる。

俺は海賊王になる!ってルフィーが言いまくってるうちに、その思いとルフィーの人柄(信用だよね)によって勝手に仲間が増えていくじゃん。

 

西野さんは海賊王になる!とは言ってない。笑

かといって、西野さんは、俺はこれになる!とも明確な宣言していなくて、いつもどの本でもはぐらかされているというのか、出し惜しみ感半端ない。

これについて彼氏と話している時に、私はこれを出そうで出ない、まだ残っているっていう感覚で、残便感みたいだと例えたんだけど、彼には伝わらなかった。くそっ。(便だけにね。下品ですまん)

 

だからこそ思うのだけれど、こんな大きな規模になってさえも、西野さんが目指している先はもっともっと先にあると思うんだよね。

賑わいを見せている西野さんのオンラインサロンだけど、これはまだ仲間集めで、序章に過ぎない、はず。

ワンピースで言ったら、まだ、船に乗ってない。

これがねー、じれったいね。でも最初から手の内全部見せたらつまらないもんね。

次はどんなことするんだろう!?っていうワクワク感がなくなっちゃうじゃない。

そうそう。だからこの本、の特にオンラインサロンの章は、西野さんのオンラインサロン加入への道しるべ(早い話宣伝)だと思った。

人心掌握術と導線がマジ上手いっす。

 

新世界 「信用」の先にある自分だけの地図

うまいこといいますなー、と思った!本当に。

信用を稼いでいくと、不思議なことに親近感も湧くし、会いに行ってみたくなるでしょ。そうすると、西野さんも書いているけれど、物理的な距離が関係なくなる。

というか、もはやネット社会なので、すでに物理的距離と肩書は関係なくなってきていると思うんだよね。そういう意味で、今、フラットな社会が実現しようとしていると感じている。

 

これ、私の話になってしまうけれど言いたい!どうしても言いたい!

私は好きが高じて、自分の思考時間の確保とアウトプットもかねて、今こうして本を読んでは感想文をコツコツblogに書いている。

でもどうせだったら知ってもらいたいので、それをTwitterでシェアしている。言ってみれば読書仲間を集っている感じなのかもしれない。

したらばどっこい。

茂木健一郎さんの『ペンチメント』を読んで感想をあげた時、茂木さんがそれをTwitterで拾ってくれて、ちゃんとblog読んでくれて、感想までくれたんだよ。

いや、私の今このブログ、超ポンコツでアクセス数とかPV数すんごい低いのよ?

これが本当に嬉しくて、泣いた。笑

それから、この時、例えばフォロワーとか読者数の数とか、そういう数字はやっぱり本質ではない、とも痛感した出来事だった。

だって普通だったら世界の茂木さんになんか、会えないどころか、話せないさ。でもそれがTwitterを通して、出来ちゃった。夢みたいだって思った。

そして。

西野さんは「信用」という言葉を使っているけれど、これは「本質」と言い換えることができるはず。私が何故泣くほど嬉しかったかというと、自分の「本質」が数字ではなくて文字、文章でちゃんと茂木さんには届いたんだと思ったからだ。

西野さんの言葉を借りれば、私の中にあった地図の距離がグッと近づいた。

自分が身を持て体験しちゃったんだよね。本質によって、自分の世界が変わるってことを。

 

おわりに を読んで、泣いた人たち

かくいう私も、そして私の彼も、そのうちの一人です。はい。

泣いたさ、嗚呼泣きましたよ。

これは彼が言っていたことだけれど、ここを読んで泣くのは、きっと今も、そして今までも頑張ってきた人じゃないと泣けない!って。

私が『新世界』を読んだのは、茂木さんのことがあった直後だった。

少しだけでもいいから、挑戦して、

少しだけでもいいから、失敗から学んで、

少しだけでもいいから、傷を負って、

少しだけでもいいから、涙を流して、

少しだけでもいいから、思いを背負って

強くなってください。 

 これでグッときた。

偶然だけれど、私はこの1年で随分と環境が変わった。変わったというか、変えてきた。自分の想いがあって、そして好きという気持ちがあって、本を読んではブログを書くという形に今は落ち着いているけれど、ここにくるまでにめちゃ時間かかった。

そして、自分の中にはそこから先に描いているものがある。

西野さんは美術館だけど、私は図書館を作りたいんだ。もちろんその先もある。

だから私にとって、このブログは、ネット上のにゃんちー図書館だと思っている。

西野さんのしるし書店の、ネット版に近いのかもしれない。本を読んで、私の付加価値と共に発信している。それがblogという形で集積されていく、そんなイメージ。

 

それからね。実は私は大人の発達障害、ADHDとASDなのね。

しかもこれが分かったの、今年の話なんだわ。笑

紆余曲折あるものの、それまでの生活とお別れをして、とりあえず今は会社員のままで本当に少しずつ自分の生き方を変えている最中。

発達障害って、ようやく名前だけは知られてきたところだけど、ADHDや鬱もちは、極端に体力がない。

厳密にいうと、体力回復がすんごい遅い。少なくとも私はお医者さんに、人の2~3倍寝ないと持たないからねえと言われた。いや、そしたら1日寝て終わっちゃうが。

ADHDあるあるなのだけど、過集中といって、とりわけ好きなことに関しては寝食わすれて短期集中で、凄まじい集中力とともに自分のもってるスペック全部開放されて、がーーーって出来ちゃう、というところがある。

でもそのあと、ぷつりと電池が切れて、風呂も入れなければ布団からずーっと出られなくなっちゃたりもする。極端だよね。

まわりのトップランカーたちをみて、自分と比べて、本当に落ち込んだ。

ADHDは障害だから治らない。でもそれを言い訳に、やらないのは違う。だからといって、トップランカーたちと同じような行動力の発揮や、作業量はとてもこなせない。

私にとってはそれがすごく悩みで、どうにもならないんだけど悔しくて、やりたいのに出来ないという感覚だった。どうやってこの自分と寄り添って、生きていけばいいのかなあと。

だから西野さんのこの言葉に凄く救われた。

キミが頑張れるサイズは決して見誤っちゃダメだ。

まずは自分を懸命に守れ。

 

今はこれが私の頑張れるサイズ。ああ、やっぱりこれでいいんだと思った。本当に少し前に私はその気持ちには到達していたのだけれど、やっぱりもっと頑張りたいという気持ちもあった。

しばらく亀さんでいようと思ったんだ。今の景色を楽しむ。

今目の前のことに(私のサイズで)頑張ってみる。その先は、それから考えても遅くないと思うし。

 

さいごに

短くなるかも、といいながら、結構書いてたー。

 

オワコンといわれるblogだけれど、西野さんとはすこーし違うけれど、私は文字の力を信じている。

文字って、文章って、可視化されない部分があって、それにより想像力をかきたてることができる。それは想像できる余白があるから。そして、匂いや温度、他の感覚を喚起することもできる。そこに物凄く可能性を感じている。

そして、人は結局、言葉(特に活字)で動く、ということも。

だから、目に映るものが全ての答え、そこに映っているもの以上でも以下でもない、そういうコンテンツのほうが終わりを迎える、はずなんだ。

 

最後まで読んでくれた方、本当にありがとう◎

あ!そう。この際だから書いちゃうけど、ちゃんと『えんとつ町のプペル』についても読書感想文と、美術的観点からの考察と2本blog書いてるんだよ。

西野ファンの人がもし、ここに辿りついたんだとしたら、ついでなのでお暇なときに読んでくれたら嬉しいです。

といって、ちゃんと宣伝をして終わりたいと思います!

 

 

 


これで本当におわり!今日のところはこの辺で。

またにゃん。

今日も素敵な1日を。

 

現実と概念の狭間に【読書感想】

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おはようございます。にゃんちーです。

嗚呼、やはり後日になってしまいました。

亀の歩みの私にしては素早い行動だとは思うんだけど。笑

 

さて、今日の1冊。というか、後編です。

前編は昨日の記事にて。

 

改めて紹介します。

紹介につきネタバレ。悪しからず。

 

 

ペンチメント 茂木健一郎 講談社 

bookclub.kodansha.co.jp

 

これに収められている、後半の作品について紹介します。

「フレンチ・イグジット」という物語です。「ペンチメント」とは全く異なる物語として書かれていますが、私の中ではこの2作は対になっていると感じています。

それではさっそく。

 

あらすじ

高校時代の同級生から突然届いた招待状によって、その同級生のホームパーティーに招待された二人の中年男。たどりついた大豪邸で行われるパーティーに集まる人たちは……。人生の選択と分岐、その結果としての運命。中年期の孤独と尊大さを、繊細な機微で描く。(ここまでは講談社HPより拝借)

主な登場人物は中年の3人。

信介・隆史、そして佐野(旧姓 高木)です。高校の同級生。

信介と隆史は、高木って誰だっけ?状態なのですが、今の写真を見せられて、記憶を辿るうちに思い出します。ああ、こいつか!と。

佐野(高木)は信介と隆史にとってそんな程度の、追憶のかなたに消えて存在だったのです。

 

そんな佐野(高木)信介と隆史は、パーティー当日、高木に案内されるまま会場へ向かいます。道に迷っているんじゃないかと思うほど、同じような道を通る。

道に迷ってないかと聞けば、佐野(高木)は、「この道で間違いはないのです。この順番でいいのです」と言う。結局時間に追われ、あろうことが茂みの中を通れと言われる始末。庭の垣根のような茂みから、まさか会場に通されるだなんて。

どうしてこのパーティーに呼ばれたのか分からないまま、信介と隆史はパーティーを楽しみます。そしてそこで色々な人に出会います。

楽しんでいるうちに、すっと佐野(高木)は帰ってしまう。

まるでフレンチ・イグジット。盛り上がっているうちに、挨拶もせずさらっと帰ってしまう粋な感じ。

 

パーティーが終わりを迎えた時、信介と隆史はパーティー会場に居た執事に、事の真相を確かめる。

このパーティーは、人生の分岐点にあった、そしてそこで各々が選ばなかったもうひとつの人生の再現であると聞かされる。

二人の分岐点、そのもうひとつの人生とはどのようなものだったのか。

隆史は、パーティー会場に居たシングルマザーのさゆりさんと結婚し、美代子という可愛い女の子が産まれていた。

一方、信介は、パーティー会場でピアノを演奏してくれた人と同じように、ピアノを弾いていたのだと、執事は言った。

二人の反応と言えば、隆史はこれを聞いて顔が一瞬にして青ざめ、うつむいた。信介はまるで雷に打たれたように、体を震わせ唇を噛み締める。

 

お開きの鐘がなった時、二人は「現実」に戻る。

良く見てみれば、そこは豪邸のパーティー会場などではなく、ただの公園なのであった。

 

人生の選択 そして選ばなかった選択肢への追憶

信介も隆史も、どうしてパーティーに呼ばれたか分からなかった。でも執事の言葉で、思い出すんです。思い当たる節がある。

そしてその選ばなかった選択肢を後悔していた、いや、後悔していたのだけどそれはまるで最初からなかったかのように忘れて、「今この現実」を生きてきたのだ。

執事の言葉を借りるとすると、こうだ。

あなた様方は、今日をきっかけに、人生の分岐で分かれてしまったもうひとつの自分と和解することができるでしょう。

フレンチ・イグジットは、もう一人の自分との間にも起こるのです、可能だった自分はあなた様方にさようならも言わず、去っていってしまいます。そして、それをすっかり忘れてしまう。何もなかったような顔で、人生を過ごしていらっしゃる。

 

だからこそ、隆史は顔が一瞬にして青ざめ、うつむいた。信介は雷に打たれたように、体を震わせ唇を噛み締める羽目になったのだ。

古傷に塩を塗りくられた、痛くて苦い気分だったことでしょう。

 

でも、そうやって分岐点で分かれた、もう一人の自分=もう一つの人生を葬って生きていかねば、ずっと心のしこりとなったまま、後悔をしたまま生きていくことに成りかねない。

人はいつも、些細な選択をして生きています。

今日のご飯、何にしよう?とか。そういう小さな選択。もちろん、大きな選択もあります。でももう一つの選択を気にしていたら、前に進めない。

つまりそれは後悔。

そう、ペンチメント のもう一つの意味でもある。

ここで私の中では、「ペンチメント」と「フレンチ・イグジット」が繋がったわけです。

下の絵を塗りつぶしてしまうペンチメントという絵画の世界は、人生で言うところの後悔であり、また後悔を塗りつぶして新しく絵を描き直すことだから。

 

このパーティーでは、その後悔、もう一つの選択肢を選んだであろう自分に思いを馳せるための時間だったのです。

 

 

現実 と 概念

このパーティーがいかなるものか、執事の言葉が秀逸です。

どちらかと言えば、観念的な世界に属しております。

この邸宅では『たとえ』は、テーブルや椅子と同じ『現実』となるのです。

 

思考は現実化する、とよく聞く言葉ですが、それを表している気がします。

 

概念というと抽象的ですが、「たとえ」というのは、過ぎ去りし時を思った場合、「たられば」話になることが多いですよね。

ああしていれば、こうしていたらと。

これって、「後悔=ペンチメント」の他のなにものでもないんじゃないでしょうか。そしてそんなもう一人の自分と和解できぬまま、忘れたフリをして生きている。

 

結局、いつだって生きているのは現実なのです。

でも現実世界は、概念で出来ています。ここでいう概念とは、おそらくですが、物事がが思考によって捉えられたり表現されたりする時の思考内容 のことだと思います。

つまり、共通認識としての概念ではないんです。ちょっとややこしいかな。

(上手く伝わっていなかったら、もう、概念という意味を辞書で調べてください。笑)

 

これを決定づける描写があります。

現実に戻り、豪邸なんかではなく、ただの公園だと気が付いた時の信介の台詞です。

信介の指す方には、公衆トイレがあった。その壁には、長い間に風雨で出来た染みがある。

「あれが、マーク・ロスコだったに違いない!」

 

美術畑にいた私は、ロスコと言えば抽象表現の画家で、とりわけキャンバスを切り刻んだ作品を思い出しました。

でもここでは違うな、と思ったのでちょっと調べてみました。

やはりこれを知っている茂木さんは美術にかなり精通していますね…そういえば、NHKの日曜美術館に出ていた時、あったわ!と、私は自分の膝を打ちましたよ。

 

マーク・ロスコ のシーグラム壁画

これはあくまでも私の推測ではありますが、ロスコの作品について調べてみたところ、物語に出てくるのは、「シーグラム壁画」のことじゃないか、という答えに辿り着きました。

この作品、実はほぼ幻の作品です。

何故か。

ニューヨークミッドタウンのレストラン「The Four Seasons」(2016年に閉店)飾られるはずでいした。それが「シーグラム壁画」です。結局、経営側とのコンセプトが合わず、その絵が飾られることはなかったのです。レストランからの依頼に基づき、30点もの絵を描いたにも関わらず、です。

一部の作品は現存しています。でも、30点が一室を飾ることは、もうないのです。

そういう意味で、幻の作品です。

著作権の関係で、作品の掲載はできませんので、ググってください。

 

話をもとに戻します。

この作品に辿り着いた最大のヒントは、トイレの壁の染み。

壁・・・トイレという狭いけれど個室、一室。ということで、これではないかと。

 

そしてこの「シーグラム壁画」について考察すると、それは概念としての窓ないし扉なんじゃないか、ということに気が付きました。

あちらの世界とこちらの世界の境目。あるいはその両方の世界を繋ぐ出入口。

パーティー会場に入るとき、彼らが通された庭の茂みが、まさにこれだたんじゃないかと思ったんです。

この茂みを通されるところ、そして道を案内する佐野(高木)の様子から、私は『不思議の国のアリス』を思い起こしました。ちょっとワープしちゃった感じです。

 

物語にそって言うのであれば、ロスコの「シーグラム壁画」は、人生の分岐点という現実と概念の世界を表し、内省(ないせい)を促すものなのではないか。

美術作品というのは、実は作品そのものを観ているようで、作家だったり時に自分との対峙であったりします。

内省というちょっとかたい言葉を使いましたが、自分の考えや行動などを深く かえりみることです。反省とか、内観と言い換えられるかもしれませんね。

これで私の中で、すべて繋がるんです。

もう一つの人生を見たパーティー。

そしてもう一つの選択肢を思い出したときの信介と隆史の、ふつふつとした後悔、ペンチメント。

ロスコという抽象画家の「シーグラム壁画」という、現実と概念の狭間を往復するような、そして過去の自分を振り返るような時間つまり追憶。

 

なんということでしょう・・・(ビフォーアフター風に)

 

 

最後に 私のペンチメント

「ペンチメント」「フレンチ・イグジット」、この2つの物語は、まるで別物のようでいて、実は「後悔=ペンチメント」を別の角度から見ている。結局同じことを別の視点から書かれた物語だったのではないでしょうか。

 

どちらを読んでも、不思議と、人生に繋がるんです。

あったはずの別の選択肢、そしてそっちじゃない選択をして今を生きている。後悔をして塗りつぶしては上書をして、でも時々ふと、頭に浮かぶ過去の「後悔」。

これを茂木さんが「ペンチメント」という言葉でタイトルにしたところが、本当に素敵だなと思いました。

私がかつて美術を専攻していたせいも、あるかもしれません。

人生は絵画のようにはいきません。

もしかしたら絵画だってそうかもしれません。作家にとってみれば、いつまでも満足のいく完成品は、生まれなかったのかもしれない。だから書き続けていくのかもしれない。作家かからすれば、描くことこそが人生なのであって、作品たちは彼らの人生そのものですから。

 

かくいう私にもペンチメントがあります。

そうですね。これについては、未だにもう一人の自分と、和解できていません。

ちょっとだけ私のことを書かせてください。

 

私はピアノを十年ちょっと習っていました。

本当にピアノが好きで、ただそれだけで十年もの間、毎日何時間と練習して、ただただ楽しんでいました。

始めたのは5歳のころ。

どうしてもピアノを習いたくて、親に泣きながら頭をさげてお願いしました。うちは母子家庭だったので、習い事をお願いする、しかもピアノも買ってもらわねばならないので、相当の勇気がいりました。

念願かなってピアノ教室に通うのですが、早々にして悟ってしまうのです。

私はピアノを始めるには遅すぎる年齢だったこと。活躍しているピアニストたちは遅くても3歳からピアノを始めています。

そしてピアノを続けるにはうーんとお金がかかるということ。

本当はピアニストになりたかったんです。でも、これを知ってから、さっさと諦めてしまいました。

それでもそこから何年もピアノを習い続けます。

好きで、上手になりたくて、音楽が楽しくて。本当にただそれだけでした。

でもある時気が付いてしまった。

高校に進学して一番最初にこう言われます。「高校卒業後の進路を見据えなさい」と。

入学したて、つい先日受験から解放されたばかりなのに、自分の行きたかった高校に入ってワクワクしているところに、水を差すようなことを先生に言われました。

でもここで、その言葉を真に受けた私は、本当に考えてしまったんですよね。

今習っているピアノ、早ければ高校卒業後、長くても大学卒業後には辞めなくてはならない。(働きながらピアノ習える時間があるなんて、思えなかったんです)

3年、あるいは7年後にはピアノとさようならをしなくてはならない。

そう思った途端に、私の中で何かが急激にしぼんでいきました。そうしたら、ピアノを目にすることさえも嫌になってきてしまったんです。

でも、私からピアノを取った後、私には一体何が残っているのだろう、と思うほど、自分にとってピアノがすべてで、自分の居場所でもありました。

ピアノを嫌いになりたくない、もう二度とピアノが弾けなくなるという最悪の事態はなんとしても避けたい。そんな思いから、高校進学とほぼ同時に、ピアノのレッスンを辞めました。

後から聞いた話ですが、家族をはじめ、私の周りの人たちは、私はピアニストになるもんだとすっかり思い込んでいたそうです。私よりも、周りが衝撃的だったのかもしれません。

大好きだったものを手放す、それは決して衝動的なものではなくて、熟考したうえでのことだったんです。私としてはですけど。

私にとってこれは未だに後悔=ペンチメントです。あの時、続けていたら・・・。

そしてそれは、ピアノを続けるというもう一つの選択肢であり、もう一つの人生でもあり、もう一人の自分でもあります。振り返ってみれば、自分の人生の分岐点で、ちょっと大げさですがターニングポイントでした。

 

『ペンチメント』というこの本を読んだあと、私はどうやって、あのときの私と和解すればいいのかなあ。そんなことを考えています。

 

うわー!過去最長だわ。ちょっとじゃないや。めっちゃ自分のこと書いた。

 

 

本当にこれで最後

あ。そうそう!

「フレンチ・イグジット」を読んでいる時、星新一のショートショートを読んでいるようなタイムスリップ感がありました。そして謎解きをしているようで、とても楽しかったです。

美術を知らないと、本当の意味が分からないような気もするので、私のこの記事が、『ペンチメント』を読む上でのヒントになれば嬉しいなと思っています。

 

そして最初に「ペンチメント」の感想を書いて、Twitterにあげた時、速攻で茂木さんが読んでくれて、引用RTしてくださったのが本当に嬉しかったです。

なにしろSNSがなければ、本を読んだ感想を作家本人に伝えてその返事が来る、だなんてあり得ないんだにゃ!

一昔であれば、せいぜい、作家に感想のお手紙書いて送るくらいしかできませんでしたから。今この時代に産まれて良かったと痛感。

 

あ、見えたかもしれません、もう一人の自分との和解方法。

こんなに喜んでいる現実の自分は、もしあの時ピアノを選んでいたら、存在していなかったのかもしれません。そうか、そういうことなのだなあ。

 

どえらい長くなりました。

最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました◎

 

もはや宣伝のようですが、本の読み方は実は茂木先生から教わりました。ついでなので、載せてしまえ!えいや!

 

みんなの読書世界が変わるといいなと祈りつつ、今日はこの辺で。

またにゃん。

 

後悔をし、上書をする【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

いつもと違う時間に更新しております。珍しく、熱いうちに、熱を持って書いております。ふんふん。

 

今日の1冊。今日買って、2時間ちょっとで読んだ本。

 

 

『ペンチメント』 茂木健一郎 講談社


茂木さん、ごめんなさい!

茂木さんはすっかりさっぱり脳科学の本ばかりを書かれているのだと思っていました。何冊か、小説もかかれていたのですね。

パッケージにあるように、「大人の寓話」というのだからもしかして、と思ってはいましたが、本当に物語だったとは。

意外と、私のように、茂木健一郎さんが物語を書いていただなんて、知らない方も多いのでは??

 

この本、表題のペンチメントという物語と、もう1つフレンチ・イグジットという物語の2つが収録されています。

私の中では、この2作、別物のようでいて、「ペンチメント=後悔」という点で繋がりました。これはまた、後程。(後日になったら、ごめんなさい)

 

さて、ご紹介にあたり、ネタバレです。悪しからず。

 

あらすじ

大学生の沙織がアルバイトを始めたいと言い出した。恋人の武(たける)はそれならばとアインシュタインにそっくりな親父が切り盛りするレストランを紹介する。店一面に書かれた不思議な絵。聞けば、むかし美大生だったアインシュタイン親父が自分で描いたものだという。(ここまでは、講談社さんから拝借)

店一面に書かれている絵、それは決して上手ではないのだけれど、味のあるもの。モチーフは何故だかどれもこれも動物。

バイトの暇の時間を見つけては、絵を眺める沙織。ある時、その絵に、白いひげのようなものがあることに気が付く。これについてアインシュタイン親父(アルバイト先の店主)に尋ねてみたところ、それはクロス=十字架 なのであった。

 

アインシュタイン親父は昔、あることに凝っていた。それがこの絵と十字架のインスピレーションとなっていたのだ。

凝っていた、というあることとは「孤独死」について。それも「孤独死」を疑うということ。このころ、孤独死を迎えた人のために、店内にクロスを描いていったのだった。

そして、その上に書かれていたのが、動物たち。これは、釈迦が亡くなった時に慕って集まってきた動物たちを表していたものだったのだ。

こんな風に、絵の真相がわかる間に、沙織は大学の試験に追われる。更には、自分でバイト先を紹介しておきながら、アインシュタイン親父との仲を、何かと心配を通り越して嫉妬してくる彼氏の武とは、喧嘩をしたまま自然消滅してしまっていた。

 

店内の絵の真相がわかったところで、沙織はこう提案する。

これからは、何か良いこと、美しいことがあった時に、花を一つ描きませんか、と。

沙織は自分が最初に花を描くことを想像して、わくわくするのであった。

 

孤独とは 何か。

誰にも看取られずに、ひっそりと命を終える。それを孤独死、と言いますよね。

それ以外に孤独がないのか、と言われれば、そうでもない。ふとした瞬間に襲われる「孤独感」があるように、孤独というのは他者との関係性なのではなく、自分の中にあるものなのです。

 

人は一人で産まれてきて、一人で死んでいく。それは事実です。

ただ、一人であることと=孤独かと言われると、それは私は少し違うと思います。

小説の中のものを、少し拝借し、引用します。

これはアインシュタイン親父がクロスを描いたいた理由でもあります。

人間は、この地上に星のように生まれて、ほんの少しの時間、周囲をぱっと明るく照らして、それで消えていくんだなって。

 

ぼくはそこに、人生の限りない寂しさを感じた。

 

でも、ぼくはさ、孤独な人ほど、その生命は輝いているような気がしたんだよね。その人の命だけ、ぱっと明るいというか。

 

沙織の言葉の中にも、アインシュタイン親父と近い考えのものがあります。

沙織は彼氏である武に抱かれている時を思い、こう考えるのです。

身体には、触れることができる。肌は重ねることができる。しかし、魂は決して接続しない。魂が一体になるということは、つまり、自分がなくなること、死ぬ、ということだから。 

 

私たちが普段、感じる「孤独」とはどういうものを指すのでしょうか。

 

この二人の言葉から、「孤独」との付き合い方が見えてくる気がします。

 

物理的に人は独りではない。

少なくとも、地球上で、今、あなたは、独りではない。間違いなく自分以外の、他の人間が地球上にうようよいる。

 

たくさんの友達がいたとしても、どこか虚しくなる、孤独だ、と思う。 人との繋がりがあったとて、「何か」に不安や寂しさを覚えて孤独と感じる。

その「何か」はきっと、精神的な繋がりを指す気します。ちょっと飛んだ考え方かもしれませんが、「何か」は、もう一人の自分かもしれません。

誰かに精神的依存をすることで解消されるようなものでもない。

孤独を楽しめる人は、おそらく一生涯を楽しんで生きていけるでしょう。

つまるところ、「孤独」とはもう一人の寂しん坊の自分であって、だからこそ目に見えないし、一生逃れられない。そして代用品はなく、他の何かでは決して埋まらない。

そう思って仕方がありませんでした。

如何に、自分を自分と共に生きるか。

そして如何に死という、いつか必ずくる事実を受け入れるか。それが孤独との付き合い方なのかもしれません。

 

ペンチメント 後悔と後悔による塗り直しの作業

私は大学で学問としての美術を専門としていたので、絵画でいうところのペンチメントは知っていました。

しかし、これが元は「後悔」から来ているのだとは、知りませんでいた。

なるほど…だから絵を塗りつぶして(違う!と思って後悔して)上書するのか、と。

これはとても興味深いものがありました。今ではその塗りなおしの下、つまり後悔したであろう最初の絵は技術の進歩によって見透かされてしまいますが。
(これについては著書の中にも登場してきます。x線で見えちゃうんですよ。)

 

でもね、塗り直して、描き直しても、結局、前と同じくらい、下手なんだよなあ。ぼくは進歩がないんだよ。人生って、そんなもんだよ。

 

それにさ、塗り直しても、結局、時間が経つと、下から絵が出てきちゃうんだよね。上の絵が剥がれて、薄れてさ。バレちゃうんだ。甘い、うかつな過去の自分が。

 

ペンチメントというんだよ、塗り直しのこと、と沙織に教えてくれた、アインシュタイン親父の言葉です。アインシュタイン親父は元美大生ですから、その意味に猶更重みがまします。

この話を聞いた沙織の大学の先生は、次のように述べます。

 

時間とともに世界が変化していくでしょ。完全ではないんでしょうね。それで後悔する。思いの丈を込めて、次の世界をつくる。それでも完全ではないから、さらに後悔する。そうやって、歴史は進んでいくのかもしれないなあ。 

 

歴史だけではないです。

自分だってそうです。それは今は、教科書に載るような歴史的人物ではないとしても、自分が生きてきた年数は、自分にとっての歴史でもあります。

みんな、そうなのかもしれません。

後悔しては、やり直し。そしてまた後悔しては、次の手を打って。ペンチメントの繰り返しなのかもしれません。

後悔するだけでなく、油絵の様に、その後悔を塗り直すかの如く動いていく。

人生をやり直す、なんていう言い方がありますが、これは正にペンチメントなのではないでしょうか。

 

番外編 装丁について

本の装丁がいい!

ケースに入っているのですが、ケースの装丁はレンブラントのフローラという作品です。そして本自体の装丁は、フローラのペンチメント、つまり塗り直し作業がされる前の作品です。(とても作品とは言えないから、レンブラントは描き直したんでようが)

そして白い十字架が星のように散りばめられています。

私はこれに、本を読み終わって気が付いたんです。

あー!やられたー!ってなりました。

そしてこの装丁、担当したのは、茂木さん本人。あまりの秀逸さに、脱帽。

 

フローラとは

フローラとは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神のこと。というのを私は真っ先に思いついたんですが、小惑星もフローラって言うんですよ。物語の中でも、宇宙に触れられている文章がちょくちょくあったんです。

もしかして…と思い、調べたみました。やはり、宇宙で言うところの小惑星=フローラは、同じくローマ神話のフローラが由来していました。

なんたる偶然。いや、必然。

きっとこれをご存知だったから、装丁をペンチメントのあるフローラにしたに違いない!?と思いました。どこまでもお詳しいですね、茂木さんは。

 

 

最後に・・・茂木さんがいっぱい

本の内容とは関係なく、私の超個人的な感想です。

茂木さんは、他の著書でもインタビュー記事なんかでも良く言っていますが、アインシュタインに憧れていたんです。

そうなの。

ペンチメントの鍵を握っている店主、アインシュタインと風貌が似ている設定なのです。

そしてまた、沙織の台詞の中には、夏目漱石の本が引用されています。『硝子戸の中』という本ですが、これは茂木さんが別の著書でオススメしていた本でもあります。

沙織のバイト先の店主の温和な話し方、ヘタウマな絵、アインシュタイン…って、もう、私の脳内では店主が茂木さんと化してしまいました。

アインシュタインみたいだという以外に店主の風貌は分からないのですが、私は勝手に茂木さんがコックになった設定で脳内再生されていました。

もう、茂木さん要素でいっぱい。色々、茂木さん。茂木さんが好きなものだったり、よく話していたり書いていたりするものが散りばめられているので、ペンチメント自体は物語なのですが、これを読むと茂木さん像が見えてくると思います。

 

 

しまった…。

同時収録されている物語についても書くつもりが、予想以上に長くなってしまった。

ということで、今回はこの辺で。

またにゃん。

 

 

笑顔の連鎖=幸福の連鎖【頭の中の本棚から】

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こんばんは。にゃんちーです。

ほぼ日blogになりつつあります。

体調もあるので、細く長く楽しむをモットーに続けていく所存です。はい。

 

今日は私の頭の中の本棚から1冊。

人間の笑顔 について。

 

 

好きな人の笑顔に勝る 特効薬はない

誰の笑顔が、一番好きですか??

今、誰の笑顔が見たいですか??

 

 

私は恋人の笑顔が一番好きです。

比べられませんが、滅多に笑わないけれど母の笑顔も同じくらい好きです。

 

きっと多くの人が、間柄はなんであれ、自分の好きな人の笑顔を思い浮かべたんじゃないでしょうか。

 

 

なにゆえ、急にこんなことを書こうと思ったかというと、好きな人の笑顔が見たいなあと漠然と思ったからです。そしてそれは何故かな?と。

 

例えば、電車の中や道端で、全然知らない人に微笑まれたら、ちょっと気持ち悪いじゃないですか…。

え?何??って思うでしょ?笑

 

でもある程度の知り合いとかの笑顔なら、受け入れられる。

家族でも彼氏でも友人でも、好きな人の笑顔が見れると受け入れるどころか、それを遥かに超えてしまう。感情が湧くと言える。

そしてつられて自分も笑顔になってしまいませんか?

 

好きな人の笑顔を見た時、自分が楽しいから・面白いと感じたから笑うのではなくて、相手の笑顔を見て、つられて笑うという感じなんだと思うんです。

そこに湧く感情は、強いて言うなら「嬉しい」であって、とりわけ何か面白いわけじゃないんですよね。

お笑いを観て、笑うのとは、また少し違うと思うんです。

 

好きな人の笑顔が見れたら、今日1日の疲れも嫌なことも吹っ飛ぶわ!ってこと、ありませんか?

 

ここに、人間には笑顔によって何かが繋がっていく、ということがあるんじゃないのか、と思いました。

 

そこでちょっとばかし、調べてみました。

 

 

 

笑う ということの効果

そもそも「笑う」という行為で、健康になれる。そして幸福感が増す。

 

これは随分と昔から言われているのでご存知の方も多いでしょう。

有名な話ですが、笑うだけで免疫力があがる。

ナチュラルキラー細胞(NK細胞)が活発になり、がん細胞までやっつけてしまう。

笑う、という行為はそれだけでもはや健康的。

 

笑うというのは単純なようでいて、顔の筋肉を使う。

しかも表情筋は以外と複雑なつくりになっています。

腹がよじれるほど大笑いした時なんて、顔の筋肉だけじゃなくて、腹筋が痛くなったりしますよね。

手を叩いてガハガハ笑ったりもする。

深呼吸にも似た息の吸い方をして、げらげら笑って息を吐くので、横隔膜もめっちゃ動く。

笑うって、全身運動じゃないのかな。

 

筋肉を使うことで、脳に電気信号が走る。それによって体の中が変わる、そんなイメージでいいと思います。

 

笑うことの健康効果は昔から言われていることなので、この辺にしましょう。

詳しくは、沢井製薬さんのHPをご覧ください。↓

(決して回し者ではございません。個人的に好きなサイトなだけ。)

 

 

笑顔の起源 それはチンパンジー!?

色々あるみたいですが、個人的にはチンパンジー説を信じたいです。

同じ霊長類ですしね。人間の起源と思うと、まあ、そうかなと思うのです。

 

チンパンジーにも、笑顔があるんです。

やはり人間とも似ていて、楽しいと笑うようです。その笑顔は、幼少期から見られるのだそう。

 

これについて面白い読み物を見つけました。

詳しく知りたい方は、こちらをどうぞ。↓

 

これを読んで、私が興味深かったことだけをピックアップします。

チンパンジーの笑顔と、人間の笑顔の類似点と相違点についてです。

 

まず類似点。

①笑顔の発達過程が同じ

 自発的な微笑みから始まり、他者へ向けた社会的な微笑みへと変化していく。

 

例えば人間だと、赤ちゃんは何故かわかりませんが、時々微笑んでくれます。少しずつ成長していく中でその微笑みは、親から始まり友達へと、他者に向けたものへと変わっていきます。笑顔を見せる意味と、対象の枠が広がっていくイメージなのかなと思います。

 

②笑顔が感情と結びついている可能性

 チンパンジーの子供も、遊んでいる時つまり楽しい時に笑顔になる。

もう、人間も一緒ですね。

ただし人間は大人も子供も関係ないと思います。楽しい時は、誰だって幾つになっても、笑顔になるもんです。

 

そして相違点。

①チンパンジーは遊びの場面以外で笑顔を見せることがほとんどない。

要するにチンパンジーは楽しくなければ、笑顔にならないということですよね。

人間の様に作り笑いも、愛想笑いも、苦笑いもない。すごくシンプルですけど、そう考えると人間って笑顔にいろんな意味を持って複雑にしている気がしました。

もはや、人間は何故楽しくもないのに笑うのだろう…とちょっと考えさせられました。

 

②チンパンジーは他者と笑顔を共有することがない。

子供の笑顔をみて、母親も笑顔になる。などということはないということ。

これは人間とチンパンジーとの大きな差ではないでしょうか。

感情からしか生まれない笑顔がチンパンジー。そしてその感情は連鎖しない。笑顔もまた、連鎖しない。

そこに社会性と連鎖反応があるのが人間の笑顔だと言えると思います。

先のリンクの読み物内にもありますが、人間は「笑顔」によって社会と、社会の平穏さを保っているんです。つまり、「笑顔」は平和のツールということ。

なるほど・・・。

確かにそういう側面は否めません。

笑顔を見せることで、「あなたに心を開いていますよ」という安心感を与えるというのは心理学でも言われるところです。

そうやって上手に笑顔を武器にしている。武装に近いのかもしれません。

 

 

笑顔の連鎖=幸福の連鎖

人間は、笑顔が連鎖します。

誰かの笑顔を見て、自分も笑顔になる。

同じように、自分の笑顔が誰かを笑顔にすることもあります。

 

そしてまた、私は、笑顔を通して感情が連鎖あるいは感情が共鳴すると思っています。

例えば親子であれば、互いに「大切な人だよ、大好きだよ」という気持ちが互いの笑顔の連鎖によって共鳴するでしょう。

恋人も同じですよね、きっと。

 

ここで自分の笑顔が相手に届かなかった場合、つまり相手に笑顔の連鎖反応がなかった場合を想像してみてください。

好きだよっていう想いから自然と笑顔になった自分に対し、相手は無表情だったら…。

 

どうでしょうか。

ちょっと悲しくなりませんか?

 

そう。だから私は、こう考えています。

 

人間は笑顔によって、感情も連鎖しうる、感情を共有するんだと。そして、笑顔というたった一つの行為(表情)だけで、他者の気持ちを汲み取ることの出来る、想像力をもっているんだと。

泣いているのを見て、自分も泣いちゃうのも同じことだと思います。

ただし、笑顔に限って話せば、笑顔の連鎖だけが、幸せ感を運んでくれるんです。

一緒に泣いたら、悲しみの連鎖なのです。

 

なんだかこれって、素敵じゃないですか?

 

笑顔が大事!って良く言われます。

例えば第一印象の作り方なんかで良く言われるところです。笑顔で居るのが健康だ、とも言います。そしてそれは医学的に数字上で証明されてもいます。

幸せだから笑顔なのではなくて、笑顔だから幸せなのだ、とも言われます。要するに行動が人を作るってことなんだと。

 

でもそんなことが素敵なわけじゃないのだ。

 

人間のすごいところって、やっぱりその連鎖反応が出来るという、汲み取る力、それを想像力と言うんだと思いますが、それを他者に向けられることなんです。

自分の中で想像を膨らますんじゃないんです。

他者から与えられた情報=笑顔から、相手はどういう気持ちなのかな?と、相手の立場にたって想像しているんです。

だから笑顔の連鎖は、幸福の連鎖なんです。

 

最後に。

最近、いつ笑顔になりましたか?

誰といる時、自然と笑顔がこぼれますか?

 

最近笑っていない人、好きな人に会いに行ってみてください。

自然と笑顔になれる人を思い浮かんだら、その人に会いに行ってみてください。

もはや声を聴くだけでもいいと思うのです。

そしたらきっと、お互いに笑顔になれるので。

そしたらきっと、幸せは人づてに繋がっていくので。

 

 

ということで、私は仕事終わりの彼に電話します。

今日のところはこの辺で。

長いこと私の脳内図書を読んでいただき、ありがとう◎

またにゃん。

 

 

11月といえば酉の市【浮世絵の世界】

こんばんは。にゃんちーです。

今日は自分の得意分野で攻めてみたくなったの!

美術loverなもので。

今日は浮世絵の世界にご招待。

きっと見たことあるものがいいかなと思ったので、季節柄もあり、酉の市を。

 

 

 

 

浮世絵にみるエロチシズム

いきなりだけど、怒られそう。笑

春画(直球にエロい浮世絵)とは違って、想像を掻き立てられる1枚を紹介したい。

酉の市じゃないの?って??

 

酉の市です。

酉の市を描いているのだけど、それがエロい。どこまでも膨らむ妄想。

 

 

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作品 基本情報

作品名:浅草田甫酉の町詣
制作年代:1857年(江戸・安政4)
作者:歌川広重
板元:魚屋栄吉

 

 

さっそく解説

猫が描かれてる浮世絵、というのは、実はそれだけで人気。

美術館で、猫尽くしなんていう企画展覧会が成立するくらいに、人気。

そういう企画でもよくでてくるのがこの版画です。

 

酉の市って?

酉の市は、11月の酉の日に行われます。2018年は3回行われます。

干支と同じで、日にも十二支がついている。

今年は1日が酉の日なので、他には13日と25日が11月の酉の日。

ニュースでも取り上げあれますが、酉の市といえば、今ではすっかり浅草というイメージなのではないでしょうか。

 

酉の市でよく目にするのは、熊手。

基本的には熊手以外にも、縁起物とされるものが売られています。地域にもよるとは思いますが、達磨とかもあります。

 

熊手は福を掻き込む縁起物として知られています。

今でも商売繁盛を願掛けして、商売ごとをしている方が、この酉の市に熊手を買いに来ます。

それは江戸時代よりも前からあった風習のようです。

江戸時代は浅草という場所柄もあったせいか、得に水商売の方が熊手を買っていっていたそう。

江戸時代で言えば吉原遊郭や引手茶屋(遊郭で客を娼家に案内する茶屋のこと)といったところでしょうか。そこに勤めている女性だけでなく、そこの経営者も熊手を買っていました。

 

 

浅草田甫酉の町詣 浮世絵の世界

作品名にある浅草田浦というのは、実は吉原のことを指しています。

吉原といえば・・・遊郭(ゆうかく)です。そう、遊女がいる町。

つまりこの浮世絵の舞台、お部屋は遊郭のお部屋。

 

浮世絵の左下には簪(かんざし)があります。

良く見てください。

この、かんざし、熊手の飾りがついています。きっとお客からのお土産なのです。

 

なぜ、お土産だとわかるのか。

 

 

それは猫がいる下の部分にご注目あれ。

窓下の部分、これは腰紙(こしがみ)というのですが、この腰紙に書かれている雀の柄は、通称「吉原雀」と言います。

吉原雀の意味は2つあります。

①吉原や遊郭によく出入りをしていて、その内情に詳しい人

②吉原の冷やかし客

 

さて、どうでしょう。

 

この浮世絵の舞台が、遊郭の部屋の中ということを考えると、腰紙の柄「吉原雀」の意味するところは①、いわば上客といったところじゃないでしょうか。

なにしろ、猫のすぐ右手には、鉢と手拭いがありますから。

体を綺麗に拭いていたのかしら。うふ。

 

少し脱線しますが、腰紙の柄の雀も鳥です。酉の市とかかっている気がします。

単に私が駄洒落好きだから、そう思うだけかもしれませんが。

 

話を元に戻して・・・猫にも注目してみてください。

なにしろここが、一番妄想を掻き立てるのです。

猫が背中を向けて窓を見ています。

富士山の向こうには夕暮れです。夜は遊郭が一番賑わう時間です。

そして猫の視線の先には、熊手を持っている人たちが列をなして歩く姿が、本当に小さくですが描かれています。

 

男女のそれを、見て見ぬふりをしてくれている気がしませんか?

なんて粋な猫だこと。

 

遊女とお客のいちゃいちゃを想像させるには十分すぎますが、もうひとつ。

 

作品の左隅に縦に走る黒い部分。

一見、襖に見えるかもしれませんが、これは屏風です。

どうして屏風だと分かるかというと、まず畳のところに襖の敷居がありません。

そして、浮世絵の左上。

そこがわずかに欠けたように三角の白い部分があります。作品中に描き切れていませんが、斜めに黒い淵が走っている。

屏風は山折り、谷折りと折れることで自立します。斜めになっているということは、奥行きがあるということなので、屏風です。

襖なら、画面に向かって水平に描かれますから。

 

もっというと屏風の裏側(これを裏打ちという)が描かれています。

屏風の向こうに、男女がいるのです。

そうです。そういうことです。

 

 

おわりに

この浮世絵が、かの有名な歌川広重だということが、とても興味深いです。

広重と言えば「東海道五十三次」ではないでしょうか。風景画、特に東海道や江戸の名所を描く浮世絵師としてのイメージが確立されていると思います。

そうは言っても、広重も手広くやっていて、歴史画、美人画も春画も書いているんですよ、本当は。

美人画や春画で残っている作品は少ないことから、おそらくあんまり描かなかったんだとも思います。描いてはみたものの、売れなかったのかもしれないけれど。

 

ここで紹介した作品は、風景画の名士である広重が、酉の市の浅草田浦という風景を描いているようで、実はそこはかとないエロシチズムを描いているのです。

この作品を見たとき、そしてこの作品のことをより詳しく知ったとき、私は、広重は絶対にむっつりスケベだと確信しました。

専門家に読まれたら、絶対怒られるわ。笑

でも、広重はむっつりスケベだね、譲れない。

 

パッと見ただけでは、酉の市か、ふーん。猫可愛いな。で終わってしまうでしょう。

でもほんの少し、知識があるとこんなにも深く読み解くことができるのです。

(妄想を膨らますことが可能なのだと言い換えられます)

それが浮世絵の世界の楽しみです。

 

現代においては生活に馴染みがないものばかりなために、浮世絵を見るために必要な「知識」になってしまいますが、浮世絵がはやってた江戸時代、これを庶民が見て楽しんでいたのです。

知識がなくとも、それが生活の中にある時代だったわけなのです。

浮世絵って、本当に粋なのです。

こういう浮世絵を見て楽しめるということは、その時代に生きていた人もまた、粋だったんだと思います。

 

そこに描かれていることをよーく観察する。そして、そこに描かれていること以外をちょっとだけ妄想してみる。

多分それだけで、浮世絵の世界は楽しくなります。

浮世絵だけではありませんが、美術の世界って、敷居が高く感じる方も多いとは思います。

でも実は想像と思考を楽しむ、感じるだけの世界なんです。

そう思ったら、本を読むことと同じくらい近くに感じませんか?

 

 

本と一緒に、美術布教活動もしたい今日この頃です。

さて、今日はこの辺で。またにゃん。 

 

「自分」を仕事にする ということ【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

今宵は久しぶりの読書感想文です。得るものが多すぎて、まとめきれるかどうか。

 

さて、本日の1冊。

 

『「自分」をしごとにする生き方』 はあちゅう 幻冬舎

幻冬舎HPより拝借m(_ _)m

 

 

ちょっとまとめ記事的になりそうな予感。そして長くなりそう。

 

この本を読んだきっかけ

そもそもどうしてこれを読もうかと思ったかというと、はあちゅうが気になっていたからです。

はあちゅうの存在は随分と前から存じておりましたが、はあちゅうのTwitterを見るようになってからというもの、彼女の虜になったといっても過言ではない。

はあちゅうと言えば、「炎上」のイメージが凄く強かったのだけれど、Twitter見る限り全然そんな気配がないんだもん。え?なんで炎上するの?って思った。

的を得たことを言うとるし、時々面白いし、そもそも優しさに溢れているのになと。

そんな彼女が書いた本って、どんなものなんだろうと興味を持ちました。

 

それからもう一つ。

今の私が「自分」の生き方を模索中だったこと。

色々あって、自由を勝ち取った気分になっていたのだけれど、会社でごたごたあったりと、生活習慣だったり障害との付き合い方とか体調の変化とかで、右往左往してもいました。

好きな事したい!って思っていたし、好きなことも明確にあって、本当に夢物語のようなことも頭の中では描いていたりします。

でも、具体的にどうすればいいんだろう?と疑問に思っていました。

夢というか願いにも似たものですが、いざ進めてみると前例がないものに取り掛かっている感が半端じゃなく、まるで獣道なので、自分で道を作っていく他ないことに気が付いたのです。

でも、そもそも、その道の作り方を知らない。はてさて、困った。

と、そこでこの本に辿り着いた、というわけでありんす。

 

 

では。

ちょっと順不同になりますが、ちっとばかし本の内容を紹介していきます。

私の中で、体系的にまとめていきます。あくまで、個人的な見方です。

引用個所はほぼ原文。文脈の中から抜粋したものは、少々まとめてあります。悪しからず。

 

はじめに

本の導入部分。

こういう自己啓発系の本って、導入とお尻の部分に筆者の思いが一番籠っていると思っています。

私は、はあちゅうの、この導入部分とお尻の部分に書かれた思いがとても素敵だなって思いました。

・これまでの人生でつくり上げてきた「自分」という武器がある。

・あなたが自分の価値に気づくための本

 

正直、どんなテクニック、小手先の技術紹介なんかよりも、この文書で、グッと気持ちが持っていかれた。

やり方・方法を書いた本は腐るほどある。

でも「気づく」ための本って、そうそうないのだ。

無論、読書というのは、読む→気づき・発見→実行 のサイクルで簡潔するのだけれど、巷に転がるビジネス書は、知識の詰込みと技術に頼っているところがあるので、何せ心が動かない。

でも、人は、心が動かないと、体も動かない。よって、読みっぱなしで実行できないことが多いのではないかと思う。

そういう意味でも、この本の前提「自分の価値に気づく」というのが、唯一無二な気がします。

 

好きな事 に取り掛かるまでのマインド・必要な事

・自分の出来ることと好きなことを正しく理解し、発信する力

・得意にするために時間をかけてもいいくらい、好きである必要性

 ☞自分を仕事にするということは、仕事時間=自分時間  

 

ここで、はあちゅうから次の質問が投げかけられます。

・あなたにとっての仕事とはなんですか?

・しごとをすることによってどんな社会を実現したいですか? 

 

アホたれと言われそうだけれど、仕事を通してどんな社会を実現したいかだなんて、大それたこと考えたこともありませんでした。

はあちゅう曰く、これに正解はない、と。

かくいう私の答えはというと…

・仕事は生きがい。

 (ここで私の言う生きがいとは、人生の意味・価値・根拠づけるものでもあり、如何に自分の生を意味付けして生くべきか、という意味です)

・友人恋人家族など、いつでも好きな人に会えて、美味しいご飯を食べて、当たり前の幸せ(根本的な幸せ)を大事に出来る社会を、自分の周りだけでもいいから実現したい。

そう思いました。

仕事を通してどういう社会を実現したいか、これを考えていた時、この問いは突き詰めていくと、世界平和!と言いたくなるZOZOの前澤社長の思考が、ほんの少しわかりました。

 

さて、これを読んで、自分にとって仕事って?どういう社会がいいかな?って考えてみてください。

こんなこと、言われないと考えずに日々過ごせてしまうので、この機会に是非とも。

それを考えた上で、次に進んでいきます。

 

・誰かを幸せにするために、まずは自分の幸せを大事にする

・自分を人前にさらけだすこと

☞自分が楽しまなくちゃ、楽しさは人には届かない 

 

・ただ「好きなことを続けよう」と考える。そして淡々と続ける。

・ほんのちょっとだけ生活を変えてみてそれを毎日繰り返す。

 

楽しめないうちは、苦行でしかないので、きっと会社に属していようがフリーランスになろうが、何ら変わらない気がしました。

そういう意味で本当に自分の「好きなもの」を見つけるって、大事です。

 

いざ、出陣!その時の行動

・「好きなことをやる時間を増やす」

・自信を保つ→自分を信じる力

・良く寝て食べる事。

 基本的な生活ができてやっと健康的な心を持てるから。

・行動を早くして、量でさをつける→決断力を速くしていく

・「理想の自分ならどうするか」を考える

・出し惜しみしない。せこいことしない。 

 

超基本的なことかもしれないんだけど、これってフリーランスに限らず、出来ている人は少ないんじゃなかろうか。

いくら早寝早起きが良いとわかっていたって、夜中までツイ廃しちゃったりとかさ。

時間それ自体を増やすことは出来ないけれど、隙間時間の活用なんて言われているように、どうにか時間を捻出する他ない。そして才能がないのであれば、それをカバーするのは行動力しかない。

優しく書いてあるけれど、要するにどれだけ自分を律することができるか、だと思う。

でもそれって、生半可な気持ちではできなくて、よほど「好き」な気持ちがないと出来ないことでもあると思うの。

そのくらい好きなこと?ある??

 

仕事の仕方と自分の見せ方

・仕事はモチベーションではなく、責任感でやり遂げるもの 

・知っていることにも疑問を持ってみる→「普通」は人それぞれだから

・誰かのために自分の時間を差し出せる→余裕のある人に見える

・「目の前の仕事をする」→「利用価値がある自分」になる以上に、いい人脈の気づき方はない

・「考えるきっかけ」にたくさん出会う

・自分は自由なんだ という気持ちをお守りとして持っておく

・自信がないからこそ自分以外のものに頼る

 

唸りながら読んだわ。笑

モチベーションに左右されていたら、それは気分で仕事をしていることになってしまう。それはプロの仕事ではないよね。

例えば私なら、正直なところ自分の今の仕事にモチベーションは皆無だけれど、責任感から全う出来ている。自分しか出来ない仕事、ではないと思っている。別に誰でもできるんじゃないかと…でも、私がやったらここまで出来るんで!と、言いたいとは思っていて、そんな上手くできる時ばかりではないけれど、自分の責任=自分との約束、みたいなところがあって、それを糧に目の前の仕事をしている感じ。

それが好きな事だったとしても、「仕事」である以上、同じなのだと思うのだ。

 

自由のお守りというのは、言い得て妙だ!って本当に思った。

いつでも会社辞められる!って本当に思ったその瞬間から、すごく気楽になった。

別に会社辞める必要はない。居場所を変える必要もない。でも嫌なら、いつでも辞められるし離れられる。

それを分かっているかどうかで、苦しさが変わってくると思う。 

何せ、みんな、本当は「自由」なのだ。決定権はいつだって、自分にある。

 

そもそも論 そして結論

・「好きなことで生きていく」は目的じゃない。そこからがスタート。

・「何か足りない」を大事に生きる→それが人生

・お金の不安を手放すと、自分のやりたくない仕事を手放すことも簡単

・奇跡をあてにしないで、コツコツと 

 

これは誰しもが当てはまること、そういう意味で普遍的なことだと思う。

とくに後ろの3つは、仕事してようがしてなかろうが、そうやって生きていくもんだ、と思わざるを得ない。

「好きなことで生きていく」を目的にしてしまう危うさも、最近のTwitterを見ていて感じているところ。

例えば私なら、別に会社辞めなくたって、Twitterできるし、blogも書ける。

勿論、そこに、つまり好きなことや発信に全力投球は出来ないかもしれない。会社勤めなので時間的制約もある。そして責任から一応全うしている仕事も、ある。

これを中途半端という人もいるけれど、そんなもんは人それぞれなので、私は私でいいと思っているし、「好きなこと」している事には変わりない。

それで食っていけるかどうかの話ではあるのだが。

でも地味にコツコツやっていく他、道はない。

思い切って仕事やめて、背水の陣を自ら敷くのもいいけれど、そんなことしたら私の場合は恐らく体が持たない。そして病院に行く経済力もなくなるので、一瞬で滅びてしまいそう。

そうならずに、細くても長く、亀の歩みでも、それを楽しみながら「好きなこと」をしていくのが自分なので、それが仕事になるまで、もっつりこっつりやる。

それだけだと思っている。

会社を辞めるだとか、居場所を変えるのは、実は簡単だ。

でも「好きなこと」といえ、自分をコツコツ続けて積み重ねていくほうが、ずっとずっと難しくて地味なことなのだ。

だから勢い余って今の場所から離れて、あえなく撃沈する人も多いんじゃないのかな?

それは結局、続けるという超絶基本的で難儀なことが成し遂げられなかったから。

つまるところ、そんな程度の「好きな」気持ちだった、っていうことになってしまう。

それはとても勿体ないし、「自分」を、「好きなこと」を続けて仕事にしていく方法は、いくらでもあるんじゃないのかなって思っている。

 

結び

はあちゅうは、さいごに、「自分」を仕事にするってどういうことなのか、こうまとめています。

感動を誰かに回す人になってください。

自分が受け取ったものを世の中に新たな形で返していき、回していく。 

 

グッときた。

「好きなこと」をするって、そういうことだと思った。

単に好きなんだけど、好きがゆえに自分の琴線に触れたもの(感動)を他の誰かに伝えていく、渡していく。そうやっていくうちに、循環して、結局自分の周りからより良い社会ができてくるんじゃないのかなと思った。

 

最後に(個人的なまとめ感想文)

フリーランスにも向き不向きがある。それは会社員とて同じ。

さっきも書いたけれどblog書くくらいなら、会社辞めなくなって出来るもの。

はあちゅうは、好きを仕事にするには、好きを得意にしていかなくては、と言っていたけれど、この文章を読んで私が就活中に言われた面接官の言葉を思い出した。

 

向き不向きはある。それでもお金をもらってやっている以上はその仕事のプロ。

仕事が自分に向くまでやれるか、どうかです。

 

女性の中間管理職だったのだけれど、これを聞いて、カッコいいなと思ったのだ。

 

それは組織にいても、個人でも同じなのだと思う。

嗚呼、忘れておった、と、はあちゅうの結びの言葉でハッとさせられた。

仕事にするにはもっともっと勉強しなくてはならないし、アウトプットも大事。そしてやっぱり小手先とは言わないけれど、技術も必要。

ただ、「自分」という本質的なところからブレては意味がないと感じた。それがブレると結局、仕事も選べなくなる。嫌な仕事、引き受けることになる。

あれ?好きなことして生きていくんじゃなかったっけ?ってなってしまう。

本当に地味だけれど、何か少しずつやっていった結果、塵が積もって山になるじゃないけれど、動いた分だけ毎日が変わってくるはず。

「好き」を見つけるにも、「自分」を仕事にするにも、如何せん否応なしに自分との内向的対話をしていくしかない。

どれだけ自分と本音で話して、戦略会議出来るかが勝負。

私はそう思っている。花が咲くのに、遅いも早いもないんじゃないのかな。

 

くはー!長いね。長いよ。

もう、はあちゅう愛だと思ってくださいまし。

したらば今日はこの辺で。

わたしは生活リズムをどうにかせねばならぬので、風呂入って寝る。

またにゃん。