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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

「死」それは生き物すべてにやってくる平等なもの【読書感想文】

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こんばんは。館長のにゃんちーです。

嗚呼、随分と久しぶりになってしまいました。ごめんなさい🙇

年の瀬、うんと寒いですがみなさんお元気でしょうか。お仕事の方、受験生などなど。お疲れ様です。

 

ご覧の通りなのですが、図書館工事も滞っております。もう、本当に、にゃーにゃ図書館は、サグラダファミリアだと思ってください。少なくとも、私が生きているうちに完成はさせますので。はい。

 

 

さて、本日の1冊。

 

 

これは、出会ってしまったのだ

本当は全然違う本を探しに本屋さんに行ったのだけれど、絵本コーナーで出会ってしまったので引き取ってきた。

(まるで道端にいた捨て猫拾ったみたいに言ってますね。笑)

 

正直なところ、今日紹介する絵本の最初の一文を読んで、「これ、多分泣くやつだわ」って直観的に思ったので持ち帰った次第であります。

帰宅して読みましたが、案の定、泣きました。

音読もしてみました。途中からは嗚咽で読めませんでした。

鼻が詰まるくらいに、ボロボロになりました。

そして何回読んでも、どうしても泣いてしまうんです。不思議です。

 

毎度ではありますが、ご紹介につきネタバレです。悪しからず🙇

では、さっそく。

 

 

『くまとやまねこ』 湯本香樹実:文 酒井駒子:絵 河出書房新社

 

あしげく通ってくれているであろう勘のするどい方、きっとそれは正解です。

館長ことにゃんちー、酒井駒子さんの作品が大好きです。

少なくともここに蔵書した中ですでに2冊目になります。持っている本はもっとあります。紹介しきれていないというか、絵本を収蔵するときは、とても迷うのです。

 

当館所蔵の1冊はこちらをどうぞ◎


 

『くまとやまねこ』あらすじ

 


何しろこれは本当に、子供向けに書かれた絵本です。

ひらがなばかりですから、実のところ文量としては、あらすじも何も、まとめる必要がないくらい短いです。

せっかくなので、絵本の文とは違ったかたちで、いわば大人向けの文章として、それをあらすじとして書いてみます。

 

 

ある日、一羽のことりが死んでしまいます。

そのことりは、主人公のくま ととても仲良しでした。くまは悲しみにくれ、ことりを大事に箱にしまいます。それを宝箱でも持つかのように、どこに行くにも持ち歩きます。

でも森のみんなに言われます。ことりはもう戻ってこないから忘れなくちゃ、って。

くまは自分のお家にこもってしまいます。鍵をかけて。窓も占めて。

 

何日たったでしょうか、くまは窓を開けて外の匂いを嗅ぎます。何故だか、何もかもが新鮮でした。

そして、ことりを入れた箱をもて、ことりと一緒に森に出かけます。

 

そこで見慣れない やまねこ と出会います。

くまはやまねこが持っている変わった形の箱の中身を見せて欲しいとお願いします。すると、やまねこは、それならくまの持っている箱の中身も見せてくれたら良いよと言いました。

くまは、考えた挙句、自分の箱の中身を、やまねこに見せました。

やまねこの箱の中身は、バイオリンでした。

 

くまの箱の中身を見て、やまねこが、くまとことりのために1曲弾いてくれました。やまねこは、くまに、ことりのことは忘れなくちゃ、なんて言いませんでした。

 

やまねこは、旅をしながらバイオリンを弾くのがお仕事でした。やまねこはリュックサックからタンバリンを取り出し、一緒に行こうと、くまを誘います。

こうして、二人は友達になり、音楽団として旅にでるのでした。おわり。

 

こんな感じかにゃ?

ただし、実は心に響くところは、書いていません。話の流れには関係ないものだから。だけど、本当はそこを是非読んで欲しいと思うのであります。

 

 

そもそも 絵本(子ども向け)について 私が思うこと

子供向けの絵本って、色使いもそうなのだけれど、なぜだか明るいお話や、冒険をするようなお話が多いんです。(気のせいかな?)

生まれてたった数年しかたっていない、目に映るものすべてがキラキラして見える年ごろの子に、わざわざ暗いものを伝えなくてもいいのかもしれません。

 

だけど本当は、昼と夜とがあるように、物事にも人生にも、この世には少なくとも二つの局面があることを伝えたほうが良いのではないかと私は思っています。

それは、明るいほうが良くて暗いのはダメだ、というジャッジするわけじゃない。それは価値観の問題なので、それこそ子供が自分で考えるところです。

 

そしてこれは親のみならず、年齢の上下関係にありがちですが、歳が上だからって、年下に物事を「教えて」あげなくていい。「伝える」だけでいいんです。

教えるって、実は結構な上から目線だと思う。それは一歩間違えるとお節介なのだけれど、上から目線になっている本人は気が付かないので、厄介なのだ。

 

他にも子どもの絵本というと、お手伝いとか自立(トイレ行くとかそういうやつ)だったりでしょうか。

正直これは、完全に大人の都合な気がします。ある種の洗脳というか、別にお手伝いなんて絵本で刷りこまなくても実生活でやればいいし、自立なんてもんは時が来れば勝手に巣立っていくと思うのです。

 

大人向けの書籍にもブームがあるように(今はビジネス書・自己啓発本がブームですね)、絵本にもブームがあります。

だけれど、きっと今の大人たちも読んだであろう、そうやって長きにわたり読み継がれている絵本というのは、実は少なくて、そして実に核心をついたものばかりです。

子ども向けに書かれているので、とても短くて、時に簡略化しすぎてひどく抽象的だったりもします。でもそこに想像の余地があり、子供が自分で考えられる余白があるんです。

子どもが大きくなっていく成長という時間のなかで、子供が自らその答えを見つけ出していく。あくまで絵本というのは、「伝える」役目なのであって、いわば子供にとって頭か心の片隅にちょこんと立つ標識くらいがちょうど良いのではないかと思っています。

 

すごく個人的ですが、教育という言葉もあまり好きではありません。「教え育む」ととるのか、「教え育てる」ととるのかで、だいぶ意味が変わってくるからです。

これについては、ここ数年言われるようになりましたが、当館(そして私)として「育む」を推奨したいです。「教え」の部分はともかくとして。

 

ああ、物凄く脱線してしまった。(にゃーにゃ図書館あるあるだな、これは)

 

 

「死」という全ての生き物にある平等なもの 

子供向けの絵本の中でも、異色だと思います。

この絵本の冒頭の一文はこうです。

ある朝、くまは ないていました。なかよしのことりが、しんでしまったのです。 

 

そうなの。「死」から始まる物語なのだ。

この一文を読んだだけで買った私。私にはこの、たった一文があまりにも衝撃的でした。そして、これを読んで真っ先に浮かんだ絵本があります。それはあまりにも有名ですが、『百万回生きたねこ』です。

この世にあるすべての絵本にを読んだわけではないので、言いきれませんが、少なくとも、「死」を扱った絵本が極端に少ないのは、事実です。

 

もしかすると、この絵本を読むであろう子供は、まだ「死」というものを、知らないかもしれません。言葉としても知らないかもしれないし、身近な人の「死」という体験をしている子供は稀なのかもしれません。

 

だけれど、人間のみならず、生き物全てに必ずやってくるものが「生」と「死」です。

これは自然界で唯一といっていい「平等」なものだと思うのです。

しかし困ったことに、「死」はいつ来るのか、個体ごとに違い、誰にも分りません。ただ言えるのは、「死」はいつか必ずやってくるということだけです。

 

『百万回生きたねこ』は最後にねこが死んでしまいますが、この絵本は「死」からすべてが始まるというのが特殊だと感じています。

なぜなら、きっと子供たちは、「死」というものを分からないままに物語を読み進めていくことになるからです。

 

「死」は残酷なのかという問いかけ

あらすじに書いた通りではありますが、くまは、死んでしまった ことりを、箱にしまって大事にします。木で箱を作って、綺麗な色をつけ、中には花びらをしきつめるんです。

大人ならご存知の通り。くまのこの行為って、まるで棺に納めるかのようです。

悲しい気持ちだけれど、最期ぐらいうんと綺麗にしてあげたい。いや、綺麗に取っておきたい、そんな気持ちなのかもしれません。

 

だけれど、それを森の仲間には「つらいけど、忘れなくちゃ」と言われてしまう。

くまは

いつも『きょうの朝』にいるんだ。ずっとずっと一緒に

ことり といるんだと思っていたのに。

それが突然、いなくなってしまうだなんて、くまは知りもしなかったのに。

忘れなくちゃ。

嗚呼、なんて無慈悲で無意味な励ましなんだろうか。森の仲間たちに悪気はないのだけれど、私は胸のなかをぎゅっと握りつぶされたような気分になった。

 

突然にくる「死」。

 

それは残酷なことなのだろうか。「死」そのものを知らされないことの方が、実はずっと残酷なのではなかろうか。

子どもが、お母さんが、お父さんが、兄弟やお友達が、明日も明後日もずっとずっと生きているものだと思っていたとしたら。

勿論、成長とともに「死」があることくらい知るようになる。

でも、私が小学生のころでさえ(つまり数十年も前)、死んでも生き返ると思っている子供がかなりの数いるという統計データがでたという新聞記事を読んだ。この当時は明らかにゲームの影響だったと思うけれど、つまるところ、本当の「死」というのを、誰も教えてくれなかったということなのだと思う。

 

大人って、社会っていつまでたっても、こうだ。

本当のことはいつだって隠していて、肝心なことは子供に伝えてくれない。

 

 

「死」 その悲しみの先にあるもの

それからもう1つ。

例えばこの絵本でいうと、くまは ことり のことを、忘れなくてはいけないのだろうか。忘れてしまっては、くまにとって確かにあった ことりの存在も、一緒に過ごした時間も、本当の意味で消えてなくなってしまうのに?

 

「死」という悲しみに包まれたものを、味わい尽くしてはいけないのだろうか。

それは本当の味覚で例えれば、苦みだったり渋みだったり、しょっぱかったりするかもしれない。それもひどく長いこと口に残る、まずい味かもしれない。

だけれど、その「死」という悲しみの味を味わうことなく、忘れる?出来る?

 

私は、出来ない。

 

「死」を受け入れるって、並大抵の心構えじゃできない。

でも不思議なもので、「死」だけじゃないけれど、自分の力ではどうしようもない困難災難が降りかかった時って、その時の自分の気持ちに力ずくで蓋をして、見て見ぬふりをすることができてしまう。ただ厄介なことに、蓋をしたはずの気持ちは、いつの間にか自分の中でどんどん膨らんでいって、しこりになって、ついには取れなくなっちゃって、ふとした時にズキズキ痛む古傷のようになる。

忘れたころにズキズキ痛むもんだから、「あの瞬間」という過去の一点に一気に引き戻される。ともすれば「あの瞬間」から、ずっと自分の中の時計が止まったままになってしまう。

 

「死」を受け入れる。

それは、「もう居ない」という現実を事実として受け入れる、そして心底悲しいという自分の気持ちをも受け入れる。

ただただ悲しいという気持ちから、「もう居ない」人と過ごした確かな時間を、1枚1枚写真をアルバムにしまうように、思い出という形に昇華させていく丁寧な作業と時間が必要なのだ。

 

悲しみの先にあるもの。

それは、ずっとずっと大事にしたい、ふと蓋を開けて眺めたくなるような、「思い出」という宝箱なのだと思う。優しいスープみたいな温かいもの。

悲しみを味わい尽くした後にしか作ることが出来ない、特別なものじゃないんだろうか。

悲しみの前にあったものを、苦いまずい味を味わったあと、悲しみの先へと大事に大事に運んでいく。それは自分にとっての、心のスープみたいなもんだ。そうしてようやく、前を向く活力を得ていくんじゃないのかなあ。

 

 

おわりに タイトルの素晴らしさ

ずっとずっと悲しんでいても進まない、それは正論だ。

正論だけれど、現実から目を背けていても仕方がないってことは自分で気が付くしかない。

そして、アルバムを整理するのにどれぐらいの時間がかかるのか、本人だってわかりっこないのだから、悲しみという苦みを味わう時間を他人が無暗に奪っていいとは、私は思わない。アルバム整理のお手伝いが出来たらいいな、とは思うけれど。

 

だから、どんなに時間がかかってもいい。

たくさんの時間がかかるということは、それだけ大事だった証拠なのだと思う。

だから時間がかかってもいいから、「忘れないで」と言いたい。きっと今は悲しくて何も手につかなくて、ごはんも喉を通らないかもしれない。だけど、本当にちょっとずつでいいから、あなたの中にだけある「確かに一緒にすごした時間」を思い出して、丁寧にアルバムにしまっていくんだ。

 

繰り返しになってしまうけれど、「今はもう居ない」その人と、一緒にいたという確かな時間は、もうあなたの心の中にしかないのだから、どうか「忘れないで」と伝えたい。

 

そうして出来た、優しくて温かい心のスープを飲み干してみて。

この絵本のくまは、こんな風に言っていたよ。

ぼく、もうめそめそしないよ。だって、ぼくとことりは ずっとずっと友だちなんだ

 

やまねこは、くまとことり、ふたりにあった「確かな時間」を想って、バイオリンを弾いてくれた。

やまねこは、言葉では言わなかったけれど、くまとことりの思い出を大事にしてねって、ほら思い出してごらんって。ずっとずっと忘れないであげてって言ってくれたんだと思うんだ。

 

それから。

実はやまねこが差し出したタンバリンは、手の跡がたくさんついて茶色になっていたんだ。そしてくまは、やまねこにもむかしの友だちがいたのかなって思う。でもくまは、それをやまねこに聞かなかったんだ。かわりにこう言った。

ぼく、れんしゅうするよ。おどりながら、タンバリンをたたけるようになりたいな

 

そして、出会ったばかりの やまねこと一緒にタンバリンを持って、旅に出る。

 

絵本のタイトルはとてもシンプルだ。でもとても素敵だ。

くまとことり、じゃないんだ。

くまとやまねこ、なんだよ。

「死」という悲しみを乗り越えた先にあるものを、悲しみはずっと続くわけではないということを、実は教えてくれていたのだ。

 

 

今日のところはこの辺で。

お察しいただけるかもしれませんが、書くために読み返すわけでして、したがってやっぱり泣いちゃうのでした。ぐすん。

またにゃん。