ただ相手の為に尽くしているのか、それとも尽くしたいのか。【読書、そのあと】
おはようございます。館長のにゃんちーです。
少し前ですが、ずーっと心の中が悶々としていました。悶々と悩むきっかけも本だったし、悶々とした霧がはれたきっかけも本でした。まるで恋煩い。なんちって。
書きたいな、書きたいなと思って今日までひっぱってしまった。とほほ。
久しぶりの休みでひたすらぼけっとしていました。仕事のみならず、精神的にも全然余裕なくて、なんだか虚しく時間が過ぎてしまった!嗚呼、もう年末だよ。
さて、今日は・・・こんな内容で。
はじめに(前置きみたいなもの)
さてさて。
普段ここ、near2(にゃーにゃ)図書館に、本と一緒に収めている私の書く読書感想文は、その本を読んだその時に思ったことを書いています。どちらかというと、私の中では文章読解に近いです。何しろ、たいがい「その本」についてしか書いていないから。
今日のこれを「読書、そのあと」としたのは、本を読んで、それから後の過ぎ行く時間の中で見つけた、自分のお話だからです。
本を読んだ直後ではなくて、本を読んだ後に自分に落とし込んだ時、内側の自分とお話したときに何を考え、どう感じたのかというお話です。
それはブランコみたいにゆらゆらしていて、傍からすれば、まるで私は言葉に振り回されているように見えるかもしれません。
本を読んでは悩んで、本を読んでは嬉しくなって、そんな風に一喜一憂する姿は、とても滑稽に、あるいは哀れに見えるかもしれません。
でもこうして、本の後味を感じていく中で、自分が何をどう考え、何を悩み、そしてどういう気持ちになったのか。そしてそれを自分はどう捉えて、また次の本によって、どんな風に気持ちや考えが変わっていったのか。
その不安定さとか、揺れ動くさまを(糞が付くほど恥ずかしいけれど)お届けします。
この「読書、そのあと」について書くときは、きっと時差があります。次の本に出合う時間までにどれだけかかるのか、それは私にもわかりません。
どんな本だったか、その時は私はどう思っていたのか分かったほうが、もっと伝わるかもしれないという希望を込めて、本を読んだ時の【読書感想文】のリンクは必ず貼っておきます。
私の読書感想文を読まなくたって、その本自体をご存じであればきっと読める。(ように書くよう努めます・・・。)
あ、あくまでも館長ことにゃんちー、私の場合はっていう途轍(とてつ)もなく個人的な、ほんの一例です。悪しからず。
本の余韻をどう楽しむか。
本を何冊も読んでいくと、点と点が繋がる瞬間があるんだってこと。それは点と点が繋がって線になることもあれば、点と点が繋がってまるで小惑星がぶつかるみたいに小さな爆発を起こすこともあります。
それが伝われば嬉しいにゃーと思っています。
ということで、始めます。どきどき。
『悲しみよ、こんにちは』 の余韻
いつもの読書感想文はこちらからどうぞ。
これを読んでからずっと、何かが頭に張り付いていました。
その正体は、今の私は、卒業したはずのちょっと前の私に逆戻りしてやしないか、という今の自分に対する懐疑的な眼差しでした。
この本の主人公セシル(女の子)の周りの人達は、彼女にどんな形であれ尽くしているんです。
客観的に見れば、彼女に利用されうまく操らられていて、それでいて本人達が自らの意思でセシルに尽くしているかのようにも見えるんです。
私は、この周りの人達、特にセシルのボーイフレンドのシリルと過去の自分に重なってしまった。
この本で言うなれば、シリルはセシル、彼女が好きだから尽くしているのか。それとも、彼女が求めるがままに自己犠牲というかたちで尽くしているのか。
この違いはとてつもなく大きいのだ。
彼女が好き、愛してるから、という自分の気持ちから湧き上がる自由意志(自分の心)に突き動かされての行動なのか。
それとも、単に彼女の言いなりで自分の意思や気持ちがない、あるいは例えば尽くさなければ捨てられるという不安から動くのか。
行動だけみれば同じ「尽くす」なのだが、そこに自分の意志や気持ちがあるのかないのかでは、全く異なる。
ちょっと前の私はまるでシリルだった。
人の期待に応えるだとか、尽くすだとかしているうちに自分の気持ちなんかどっかいっちゃって、自分の心の所在が分からなくなってしまった。そんな状態にあることを、自分で認識すら出来なくなっていた。
だから誰かにどんなに尽くしても、何故だか全く満たされなかった。
ここから負のループで、私はまだまだ自分の行動や努力が足りないんだと自己否定になり、ひたすら尽くすという行為に走る。
そして私が言わなくても何でもやっちゃうもんだから、相手はどんどん突き上がって肥大化してゆく。
気がつけば、相手は お前がやって当たり前モンスター、欲しがりモンスターと化していった。
はたと気づいた時には既に遅かった。
私はすればする程、自分の気持ちがすり減っていっていたのだ。
そしてモンスターは歯止めがきかないほど傲慢になっていて、持て余したパワーを、私を攻撃することで発散するようになっていた。
この時の私は、本当にズタボロだった。
心だけじゃなくて、思考も正常じゃなかったし、実際身体はズタボロになっていた。
それでも自分では分からなくて、何でもかんでも、私が悪いと思っていた。私はもっともっと頑張らなくちゃ星人になっていた。
振り返れば、私は奴隷のようだった。
この当時の私の気持ちは今でこそこうして言葉に出来るのだが、頑張ることでしか自分を認めてあげられなかったんだよね。
頑張りってある種の価値観で感覚的なものだから他人が決めることだけど、どれだけ行動したかっていうのは量がものを言うから自分でも認知しやすい。
当たり前だけど、自分の心は置き去り。ただ、心なんか持っていたら傷ついて動けないから知らないうちに手放していたんだと思う。
それはきっと、私にとっての無意識な自己防衛だった気がしてならない。
ちょっと快復してから、ああ私は今までずっと尽くし方を間違えていた、愛し方を間違えていたって思った。
ズタボロ卒業後、そう思ったはずなのに、まさに今、私は尽くしている。
そしてこう思ったんだ。
あれ?もしかして私、懲りてない?
また前の自分に戻っている?
あれれ?もしかして、私、愛をチラつかされて尽くしに尽くした挙句に放り投げられてしまうシリルみたいになってる?って。
例えば、彼がセシルみたいに、ふと「してくれた事は好きだったけど、あなたのことは必要じゃない」とか魔法がとけるみたいになっちゃったらどうしよう!
彼だけじゃない。
ああ、また誰かを、欲しがりモンスターに育ててしまったらどうしよう!
『悲しみよ、こんにちは』を読んでしばらく頭に張り付いていた疑いの眼差しは、こうして、あちこちに向いて行ってしまった。
挙句の果てには、もうさっぱり分からなくなってしまったのだ。
私は今、単に言いなり的に尽くしているのか。
それとも、その人を想う気持ちから尽くすという行為になっているのか。
『星の王子さま』が教えてくれた事
いつもの感想文はこちらからどうぞ。
そんなこんなで、途方に暮れちゃったので、ほっこりしたいなあと読んだのが、この本でした。
何度か読んでいるので、読書感想文を書いた時は、何度目かに読んだ感想になっています。これが不思議なことに、何度読んでも内容を案外覚えていなくて、何回読んでもほろほろ涙が出てくるんです。でも、それは多分毎回違うところで自分の心に響くんです。
感想文の中では触れていませんが、星の王子さまは、自分の星の残してきた1輪のお花のことを思い出して、こう思います。
つんけんと我儘なお花だったのだけれど、「してくれたことを見るべきだった」と。それは花がくれた些細なこと、花を見て綺麗だなって思ったこととか。
そして地球で同じような花たちに出会って知ります、自分の星に1輪しかなかったお花は、バラというありふれた花だったということを。何だ、他にもいるお花だったのかと少し寂しいようなつまらない気持ちになる星の王子さま。
でも、自分の星にいたたった1輪のお花との「思い出」を思い出すと、それはやっぱりどこにでもあるバラと同じではなかった。星の王子さまにとって、世界で1輪しかないバラで、他のバラとは違った。それは王子さまとバラには、きっと他の人には分からない「絆」があって、一緒に過ごした時間があって、「愛」があったからです。
このくだりを読んで、ほろほろしたんです。
星の王子さまは決して、花の言われるがままに尽くしていたんじゃなかったんです。本当は彼はお花を愛していたし、そう想うからこそ尽くしていた。
だから彼にとって、あのバラは唯一の存在と成り得た。
点と点が繋がる、本と本の対局性
『星の王子さま』のこのお花に対する気持ちを読んだところで、私の中で点と点が繋がったんです。
嗚呼、そうかと。
行動だけを見ていると「尽くす」という同じ行為なのだけど、私は今は自分の心に寄り添っていて、ちゃんと自分の気持ちがあるから「尽くしたい」と思ってしていることなんだ!って。
私、ちゃんと自分の気持ちの声を聞けているんだなって。
『悲しみよ、こんにちは』で抱いた疑いの眼差しが晴れた瞬間でした。変に抱いた不安もどこかへ行きました。
本質的なことは、『星の王子さま』がとても優しい言葉で教えてくれたんです。
誰に何をしていても、ちょっと心ここに在らず状態になっていたのが嘘のようです。
どちらの本も愛とは、自由とは、本当に大切なものって・・・という極めて本質的なことが物語の根幹にあります。でもその表現は対極的です。
『悲しみよ、こんにちは』は自由奔放で気分屋な主人公なばっかりに、それを取り巻く人々の気持ちを考えるといたたまれなかった。主人公はひどく楽観的なのだが、実はとってもネガティブな描かれ方をしていると思うんです。
一方で、『星の王子さま』は、子供でも読めるくらい、ちょっと空想的で簡単な言葉で書かれています。ただ、主人公の星の王子さまはブレないんです。もちろん、沢山の出会いの中で彼は大事なことを学んでいきますが、星の王子さまは本当は知っていたことに名前がついた、というような感じです。そこに一貫性がある。
だから私は『悲しみよ、こんにちは』を読んで不安にもなり、懐疑的にもなった。それを優しく解きほぐしてくれたのが『星の王子さま』だったのです。
おまけ 本は時に人生を変えてしまう
本って、時にいろんな感情や妄想を掻き立てます。
それがポジティブな時もあれば、ネガティブな時もあります。でも、それは、どちらの気持ちになったとしても、本を読んで何かを感じ、きちんと考えている証拠だと私は思います。
それは量をこなしてお仕舞いというよりは、よほど自分にとって有意義なことだと思うんです。
知識なんていくらでも詰め込めます。それをどう活かすのか。それはビジネス書や自己啓発本を沢山読むだけでなく、小説でも同じなのです。心の栄養補給でもあるし、自己対話のきっかけでもあります。
本を読んで何を感じたかが大事、とようやく言われるようになりました。
本だけでなく、沢山の情報が溢れかえっている現代において、読書というのは一昔前とは少し毛色が異なってきたのではないかと考えています。
これが江戸時代なら、書物が何よりも最先端の情報源でしたし、明治になれば大衆小説が誕生し、娯楽的要素が入ってきます。この本を読んでいないだなんて、流行遅れ!とかそんなこともあったんです。本についている版画から、ファッションの流行が生まれることもありました。
本ってそれ自体は何も変わらないのだけれど、時代によって読書に見出される意味は変わって来ているように思うのです。
だからこそ、本は時に、人の人生をも変えてしまう。
困ったことにこれについては、いつの時代も同じなようです。
今回の私は自分の人生が大きく変わるようなことではなかったけれど、こうやって少しずつ自分の中の変化に気が付けるかどうか。そしてそれを本を通して感じ取っている。私にとって、本を読む時間というのはそれほど貴重なのものです。自分の中のアンテナを調整するような感じなのです。
心のどっかに、頭のどっかに引っかかっていたもの、それは喉に引っかかった魚の小骨のようになかなか取れません。でも忘れた頃に、何か別の本に出会った時に小骨がポロッと取れることがあるんです。
自分の中で、点と点が繋がる瞬間です。
そうした本の出会いは、自分が物事の本質にちゃんと向き合って来た証拠です。そうでない上滑りな読書では他の本と繋がっては行きません。
本と本は、点と点。
これを繰り返していくと、点同士が繋がって大きくなっていくこともあるし、点と点の連結の連鎖で一本の線になることもあります。
本が人生それ自体を変えてくれるわけじゃない。
そんなお手軽な本があったら、とっくに売れているでしょう。
そうではなくて、本を読んだ後の方が、ずっと大事なんじゃないでしょうか。
何を感じたかとか、行動に移すとか、そういう積み重ねで結果的に、気がついたら人生が変わっていった。そんな感じなんじゃなかろうかと思うんです。
沢山の本が読めるというのはある意味では才能です。でも、どれだけ質の高い本を読めるか、出会えるかも大事なんです。質の高い本を沢山読めるのが一番いいのですが。
ただし、質の高さの判別ができるようになるには、たくさん本を読むことでしか鍛え上げられないというのも、また事実です。
読書って勉強や美容と一緒で、1日にして成らずなのだ。
自分にとっての良書って、きっと自分が生きていく上での芯に触れるかどうかです。
そして自分の変化や成長とともに変わってもいきます。それでも揺らがない「何か」が掴めた時、自分にとっての本当の良書に出会えるんだと思います。
そして、量を読まなくても、たった1冊でどこまでも自分の人生を深めて行けるんだと思います。
そういう読書が、私はとても素敵だなと思っています。
ということで、今日はこの辺で。
明日はクリスマスイブですねー。
私、キリスト教徒じゃないけど、クリスマスって、ワクワクする。人混み苦手だし、チカチカするイルミネーションも目が痛くなるから得意ではないんだけど、なんというかほっこり温かくて、なんとなく愛に溢れている明るい雰囲気が好きなのです。
それではまたにゃん。