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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

学校といじめ、そして居場所①【頭の中の本棚より】

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こんばんは。にゃんちーです。

こんな事、書く日がくるだなんて思ってもいなかったです。

クマップさんのこの一連のtweet☟を見て、なんだか得も言われぬ気持になったので、徒然と。

 

 

クマップさん🐻、ちょいと拝借いたします🙇

そして先にお礼を申し上げます。これを書くきっかけをくださって、ありがとうございます◎

 

ではでは、さっそく。私の頭の中から1冊。

 

 

この世から消えないもの それは戦争といじめ

縁起でもないことを書いている、と我ながら思います。

いつかきっと、戦争もいじめもこの世から消え去る!と信じたい気持ちでもあります。

でも物凄くシンプルに考えて、多分なくならないんです。ただ、ゼロにはならないかもしれないけれど、限りなくゼロに近づけていくことは可能だと考えています。

そういう気持ちで今これを書いています。

 

しかし、ゼロにならなければ、結局のところ「ある」になってしまうので、結局のところ、戦争もいじめも「なくならない」になってしまう。今のところはこれが私のなかでの結論です。

 

では。それは何故か。

 

戦争と愛は、表裏一体だから。

戦争の根源は憎しみという感情です。憎しみの感情は、愛するものを奪われたことから湧き、復讐へとコマを進めます。憎しみの規模が大きくなり戦争になる。戦争が終わらないのは、憎しみの連鎖は断ち切れないからです。

価値観が違えば、愛するものが違うのだけれど、その違いを認めあえない以上、戦争はなくならないと思うんです。

「戦争がなくならないのは愛があるからだ説」、ビートたけしさんだったか、タモリさんだったかが言っていたのです。(定かでない記憶で調べもせずに書いて、すみません)

これを聞いた時、うわあ!ってなったので、とても良く覚えています。そして私なりに考えてみたのです。戦争と愛の関係を。

今のところ私の中では、さっき書いたような流れが答えになっています。

 

いじめも限りなくこれに似ていると思うのです。

愛と憎しみとの関係に似ているということです。これはもう少し嚙み砕くと、憧れと悔しさとの関係でもあります。もっともっと砕いて、可愛さ余って憎さ100倍、みたいな感じです。

ただし、「いじめ」というのはある種、なんとも説明のつかない特殊な側面があります。

 

「いじめ」だけにある特殊な側面(異様さ)

いじめというと、どうしても学校と連想されると思うんです。不思議ですよね。

学校=いじめ、なんだもん。

でも大人になっても、社会にでても、いじめみたいな事ってあるんです。若い人たちからしたら、なんとも夢のないことを言ってますね・・・でも今のところこれが現実だと思います。

会社にいたって「いじめ」は、ある。(滅多にないけどね、学校に比べたら)

要するにこれは、学校なり会社なり、どこかに「所属」することで発生する現象ってことになります。

 

ただし、無所属なのに「いじめっぽいもの」が発生することもままあります。

出る杭は打たれるってやつです。

これはネット社会になってからだと思いますが、とりわけSNSの誕生とその発展が大きく絡んでいると思っていて、会ったこともない人に対して、顔や名前を伏せるという姑息な手法が可能になったばっかりに、言いたい放題できてしまうので、良くも悪くも目立つ人はめっちゃ叩かれる。これは限りなく「いじめ」に近いと思います。

でもこの場合、本当に、出る杭は打たれるであって、叩いている人(俗にいうアンチ)の深層心理は、憧れが憎しみへと移行してしまった、というところです。こんなこと書いたらマジ叩かれそう。笑

本当はめっちゃ羨ましいとか、自分が出来ないことを成し遂げていることへ憧れてるだなんて・・・と、自分の気持ちや自分の現実とは向き合いたくないばっかりに、その矛先が目立つ人に向かい、叩くという歪んだ形で表に出てきているんじゃないかと思うんです。

そう考えると、これってまだ可愛いほうで、戦争やいじめとは少し毛色が異なります。

 

話が脱線しちゃった・・・。(よくあることにゃ🐈、すまぬ)

話をもとに戻します。

 

どこかに「所属」することで発生する現象という点では、戦争だって同じ理屈で通るんですけど、いじめと戦争には決定的な差があります。

 

それは、背徳感中毒性、そして自己防衛本能です。

これは本当に「いじめ」特有のものだと感じています。

だって いたずらとゲームに似ているんです、いじめって。

むしろ、いじめって、いたずら×ゲーム×自己防衛策 という、なかなか複雑な掛け算で成立している。そして時代の変化とともに、技術革新によって、いじめはより複雑化しているとも言えるんじゃないでしょうか。

 

話の腰を折るようですが、今ここに書いていることは、本当に私の超個人的な考えです。世の通説ではないので、念のため。

 

 

いじめ にある背徳感

背徳感、というと少し難しいかもしれません。後ろめたさという気持ちです。

この後ろめたさって、もっと可愛いレベルに落とすと、ちょっとした「出来心」とか「いたずら心」なんです。

ダメだと分かっているけど、ダメなことしているという変な高揚感とか楽しさ。

小さい時に規模はどうであれ、そして多かれ少なかれしたことがあるであろう、いたずら。いたずらした時の、ハラハラドキドキ感と近いと思うんです。

でもこれ、間違えると、例えば万引きとかっていう犯罪行為に繋がる。

はっきり言って、いじめもこれと同じです。

 

分かってない人なんて、居ないと思うんだ。本当は「いじめ」なんてしちゃ駄目だって、きっと知っている。知ってはいるけれど、大人(ないし他の属性の人)には気づかれないように、いたずらするのがハラハラドキドキする。そんな感じ。

 

 

いじめ というゲームの中毒性

人によってはゲーム好きじゃないこともあるから、ゲームだけじゃないのかもしれない。だけど、ゲームって一度ハマるとエンドレスでやってられたりしない?

大人だったらギャンブルとかもそうだと思う。

ちなみに私は、ロールプレイングゲームを1日徹夜になってでも最後まで攻略するタイプ。ハマったら一気にやり遂げたい、そういう意味では超短期的中毒症状になる。(ので、ゲームしない)

 

ゲームって、単純に楽しい。

楽しめているうちはまだいい。飽きたら止められるから。

ところが困ったことに止められなくなるほどに、ハマることがある。実はそうなっている頃には楽しさなんか関係なくて、他の欲求にすり替わってしまっている。例えば、支配欲だったり、達成感だったり、ストレス発散だったり、多分挙げたらキリがないのだ。

そしてその欲求が次から次へと移り変わるか、増えていくかのどちらかなのだが、「楽しさ」ではない何か他の欲求にすり替わっていることに、当人は気が付かないので、ゲーム以外にその欲求を満たす方法を見出せない。結果、ゲーム中毒になる。

 

いじめにもこれと同じ中毒性があると思う。

最初は、からかうとか、いじるとか、そんなところから始まっているはずだ。その頃はきっと楽しかったはず。(いじるならOKと言っているのではない。からかわれたり、いじられたら嫌だと思う人もいる。そこは人によるから、配慮は必要だぞ!)

ところが、続けているうちにちょっとの刺激では飽き足らず、段々とエスカレートしていき、いじめと化す。これはいじめになっても終わらることなく、ひたすらにエスカレートしていってしまう。

例え、この世でたった1つしかない命という灯が消えたとしても、だ。

 

ターゲットを変えて、またどこかでいじめというゲームが始まる。止められないんだよ。本当に。ねえ、それ、中毒だよ。もう、病気だよ。

 

 

いじめ にみられる防衛本能

これについては少し的を絞って、「学校」という場所での「いじめ」について話を進めていきます。

 

これは本当にいじめの特殊だよ・・・。いじめ撲滅の難しさは、ここ、つまり自分を守る事という本能であり防衛策、という点にあると言っても過言ではないと思っている。

表立っていじめている当事者だけじゃない。傍観者(見て見ぬふりをしている人)もいじめの加担をしていることになる。

結構キツイこと言っているかもしれない。だけどそう認識してほしい。

見て見ぬふりをしているのは、暗黙の了解であり、いじめを許している他ならない。

 

でも、私はこれを安易に責めることが出来ない。

何故なら、「次のターゲットは自分かもしれない」という不安と恐怖から、いじめに参加し、あるいは傍観者としていじめを容認することで、自分を守っているというケースがあるからだ。

誰だって、いじめられたくない。そう考えるのは、当然だよ。だからその気持ちを、私は否定しない。否定できない。

 

そして、「いじめなんて止めろよ!」と言える強い心を持っている人ばかりじゃない。

圧倒的多数は、本当はいじめなんてやめなくちゃって思っていても、見て見ぬふりして心の中ではごめんって思っていても、怖くて口に出せない。何しろ次は自分に降りかかってくるかもしれないのに、そのリスクを取ってまで、いじめ反対!って言えるのかっていう話だ。

自分が口を挟んだところで、そのいじめは無くならないかもしれない。

それどころか、自分がいじめを止めに入るということはゲームを中断させるわけであって、いじめのターゲットが自分に移ってゲーム再開となるかもしれない。

あまりにもリスクが大きすぎる。むしろリスクしかない気がしてきた。

 

 

どうか、気づいておくれよ。もう、時代が違うんだ。

 

そこで問題なのが、周りにいる大人なのだ。

子供からすれば、大人って、まあ厄介よなー、本当に。

(まるで自分が子供であるかの如く言っているけど、私は三十路を過ぎているのにゃ🐈)

 

どうしてって、先生であれ親であれ、周りにいる大人が学校に通う子供だった頃の時代と、今まさに子供が生きているこの時代とは、全然違うんだもの!

ちょっと前までスマホではなく、携帯電話(通称ガラケー)。その前はポケベル。その前は、そういう類の機器は家の固定電話しかなかったんだから!笑

 

私は、スマホの誕生によって、いじめは見えない世界へと、完全に闇の中へ放り込まれたと思っている。

ネットの世界って、確かにそこに繋がりはあるのに、実態としては目に見えないから。SNSが最たる例で、それこそ証拠は残りやすいけれど、まずもって大人に発見される確率は低い。

(ちなみに、心配なのは分かるけど親だからって子供のスマホ、勝手に見ちゃだめね。場合によるけど、その行為が法律違反になることもあるのだ。お母さん、お父さん、気を付けてにゃ🐈)

 

十数年前、インターネットこそ普及していたけれど、ノートパソコンなんかあったかな?みたいな時代。30過ぎの私が学校へ通う子供だった頃でさえ、こんな感じだ。

今の大人たちはそういう時代に、子供だった。もしかすれば、もっと昔に子供だったわけじゃない。

そんな大人たちが、現代に生きる子供たちの「いじめ」に対して、どれだけ理解していて、一体何が言えるのだろうと思う。

 

そもそも考えてみておくれよ。

先生、お父さん、お母さん、ちゃんとスマホ使えてる?

ググれるくらいで、SNSやってるくらいで、スマホ使えるし!とか言ったら、子供たちには鼻で笑われるから、言わない方がよろしいかと思われます。

 

どんなSNSも、やり方次第で複数のアカウントを持つことが出来る。SNSの種類にもよるけど本当にうまくいってしまえば、いくらでも自分の分身が作れる。アカウントを複数持つということは、自分の分身を増やせるということでもあるし、違う自分をいくつも持てるということでもある。他人になりすませるってことでもある。

例え1つのSNSを使っていたとしても、ネット上にグループ(つまり所属先)すらも複数作れるし、非公開設定もできる。

これらが一体、何を意味するのか、今の大人たちは分かるのだろうか。

この見えない闇にどうやって立ち向かっていけばいいのか、知っているのだろうか。もっと言えば、その世界を知ろうと、学ぶ気はあるのかにゃん?と聞きたくもなる。

 

大人からすれば、何を偉そうに!と思うかもしれない。あるいは、耳が痛い…と思うかもしれない。かく言う私もいい大人なので、構わずガシガシ話を進めます。

(嗚呼、大人に対する優しさのかけらもない…。俄然、子供の味方・見方です。今は。)

 

大人に限らず、人は、自分の知らないものに対して恐怖や不安を抱く。

大人の理屈としては、ネットやSNSは良く分からないから危ない✖、だから子供には極力やらせたくない。そんな感じだと思う。

危ないからダメ。確かにそうだ。ネットもSNSも危ない世界でもある。だけどこれによって社会が凄まじいスピードで変化し、豊かになったのも、また事実だ。

 

正直、スマホは今やライフライン。ガス、水道、電気と同じレベルだ。

それでもなお、ダメだと思うのであれば、いっそのこと、一度、電気のない暮らしをしてみたらいいと思う。あくまでも、ものの例えですけれど。

 

そう。時代は変わった、ただそれだけのこと。

変革した社会に生きている以上、自分もそこに適応していかねば、いつか取り残されてしまうだろう。

例えば仕事で、プレゼン資料作ってと誰かにお願いしたとしよう。パソコンが使えないからって手書きで紙芝居みたいなやつ作ってきたら、ぶん殴りたくなるでしょ?

職種や場合によってはそれもアリだけど、稀。(でもインパクトは強いよね。笑)

 

これと同じなんじゃないのかなあ。

その道具が使えないから、他の道具でってわけにはいかない。使えるようにしていくじゃない。パソコンだって、普及したばかりの頃はそうだったでしょ?使っていくうちに、多少のトラブルがあっても、対処できるようにもなっただろうし。

具体的に何がどう危ないのか分かっていれば、どう対処すればいいのかも分かるだろう。分からないから、教えられない。ということで、例えば、学校ではスマホ禁止という謎の校則が出来るわけだよね。なんともお粗末だなと思う。

 

仕事と同じスタンスで子供に向かうのはちょっとズレるとは思う。そして確かに大人からすれば歳は下で子供なんだけど、一人の人間として、未来の大人として、捉えてみたらきっと違ってくると思う。

仕事で分からないことがあれば、部下だろうが先輩だろうが誰かに聞くのと同じで、知らないから教えてって子供に聞けばいい。教えてくれるかは、別だけど。

そうでなければ、自分で調べればいい。そして、子供と一緒に考えていけばいいのではなかろうか。

大人も変なプライド捨てて、もっと子供に歩みよればいいのにって思う。

 

おわりに

おわりにと言っても、今日のところのおわりに、です。

自分の思っていた半分しか書けていまへん。今日全部書ききる予定が、続く…というまさかの展開になった事をお許しください🙇

この文字数(6,000字越え)で、5時間ちかくかけてる。いつもの倍以上の時間を要してしまった。こんな予定じゃなかったのだけれど、つまるところ、乱暴なところが多々ありますが、これでもすっごく考え抜いて書いたのです。

 

あれこれ書いたけれど、私ももう大人になっちまったのだ。

きっと今の子供たちからすれば、私とて、子供たちの周りに居る大人となんら変わらないかもしれない。そう思う。

だけど、クマップさん🐻のTwitterを見て、どうしても書きたい!というか、書かなくちゃ!って変な使命感にかられたのだ。

どうしてでしょうね。

 

いじめっこ、いじめられっこ、あるいは我が子がいじめられている親からすれば、今日の私は、分かったような、うんと偉そうな顔をして書いているように映るかもしれない。

だから先に言っておこうと思います。(これは、匿名の特権だな!)

私は小学校・中学校と、約9年間、いじめられっ子だった。脅迫状という名のラブレターをもらった。そして、自ら命を絶とうと試みた。

 

だから私は身をもって知っている。

いじめたくなる気持ちを、いじめられる苦しさを、死にたくなる気持ちを、死ねなかった時の絶望感を。

その時に抱いた大人に対する嫌悪感や頼りなさ、考えの甘さ、安っぽい嘘くさい愛情を。

そして、大人の無力さと、自分の無力さを、私は知っている。

 

だけど、今、生きていて良かったと思っている。それだけです。

 

ギブアップ!体力が持たん。もう寝ます。

当事者として自分のことは明日書きますのでお許しを―。

今日のところはこの辺で。またにゃん🐈