現実と概念の狭間に【読書感想】
おはようございます。にゃんちーです。
嗚呼、やはり後日になってしまいました。
亀の歩みの私にしては素早い行動だとは思うんだけど。笑
さて、今日の1冊。というか、後編です。
前編は昨日の記事にて。
改めて紹介します。
紹介につきネタバレ。悪しからず。
ペンチメント 茂木健一郎 講談社
これに収められている、後半の作品について紹介します。
「フレンチ・イグジット」という物語です。「ペンチメント」とは全く異なる物語として書かれていますが、私の中ではこの2作は対になっていると感じています。
それではさっそく。
あらすじ
高校時代の同級生から突然届いた招待状によって、その同級生のホームパーティーに招待された二人の中年男。たどりついた大豪邸で行われるパーティーに集まる人たちは……。人生の選択と分岐、その結果としての運命。中年期の孤独と尊大さを、繊細な機微で描く。(ここまでは講談社HPより拝借)
主な登場人物は中年の3人。
信介・隆史、そして佐野(旧姓 高木)です。高校の同級生。
信介と隆史は、高木って誰だっけ?状態なのですが、今の写真を見せられて、記憶を辿るうちに思い出します。ああ、こいつか!と。
佐野(高木)は信介と隆史にとってそんな程度の、追憶のかなたに消えて存在だったのです。
そんな佐野(高木)信介と隆史は、パーティー当日、高木に案内されるまま会場へ向かいます。道に迷っているんじゃないかと思うほど、同じような道を通る。
道に迷ってないかと聞けば、佐野(高木)は、「この道で間違いはないのです。この順番でいいのです」と言う。結局時間に追われ、あろうことが茂みの中を通れと言われる始末。庭の垣根のような茂みから、まさか会場に通されるだなんて。
どうしてこのパーティーに呼ばれたのか分からないまま、信介と隆史はパーティーを楽しみます。そしてそこで色々な人に出会います。
楽しんでいるうちに、すっと佐野(高木)は帰ってしまう。
まるでフレンチ・イグジット。盛り上がっているうちに、挨拶もせずさらっと帰ってしまう粋な感じ。
パーティーが終わりを迎えた時、信介と隆史はパーティー会場に居た執事に、事の真相を確かめる。
このパーティーは、人生の分岐点にあった、そしてそこで各々が選ばなかったもうひとつの人生の再現であると聞かされる。
二人の分岐点、そのもうひとつの人生とはどのようなものだったのか。
隆史は、パーティー会場に居たシングルマザーのさゆりさんと結婚し、美代子という可愛い女の子が産まれていた。
一方、信介は、パーティー会場でピアノを演奏してくれた人と同じように、ピアノを弾いていたのだと、執事は言った。
二人の反応と言えば、隆史はこれを聞いて顔が一瞬にして青ざめ、うつむいた。信介はまるで雷に打たれたように、体を震わせ唇を噛み締める。
お開きの鐘がなった時、二人は「現実」に戻る。
良く見てみれば、そこは豪邸のパーティー会場などではなく、ただの公園なのであった。
人生の選択 そして選ばなかった選択肢への追憶
信介も隆史も、どうしてパーティーに呼ばれたか分からなかった。でも執事の言葉で、思い出すんです。思い当たる節がある。
そしてその選ばなかった選択肢を後悔していた、いや、後悔していたのだけどそれはまるで最初からなかったかのように忘れて、「今この現実」を生きてきたのだ。
執事の言葉を借りるとすると、こうだ。
あなた様方は、今日をきっかけに、人生の分岐で分かれてしまったもうひとつの自分と和解することができるでしょう。
フレンチ・イグジットは、もう一人の自分との間にも起こるのです、可能だった自分はあなた様方にさようならも言わず、去っていってしまいます。そして、それをすっかり忘れてしまう。何もなかったような顔で、人生を過ごしていらっしゃる。
だからこそ、隆史は顔が一瞬にして青ざめ、うつむいた。信介は雷に打たれたように、体を震わせ唇を噛み締める羽目になったのだ。
古傷に塩を塗りくられた、痛くて苦い気分だったことでしょう。
でも、そうやって分岐点で分かれた、もう一人の自分=もう一つの人生を葬って生きていかねば、ずっと心のしこりとなったまま、後悔をしたまま生きていくことに成りかねない。
人はいつも、些細な選択をして生きています。
今日のご飯、何にしよう?とか。そういう小さな選択。もちろん、大きな選択もあります。でももう一つの選択を気にしていたら、前に進めない。
つまりそれは後悔。
そう、ペンチメント のもう一つの意味でもある。
ここで私の中では、「ペンチメント」と「フレンチ・イグジット」が繋がったわけです。
下の絵を塗りつぶしてしまうペンチメントという絵画の世界は、人生で言うところの後悔であり、また後悔を塗りつぶして新しく絵を描き直すことだから。
このパーティーでは、その後悔、もう一つの選択肢を選んだであろう自分に思いを馳せるための時間だったのです。
現実 と 概念
このパーティーがいかなるものか、執事の言葉が秀逸です。
どちらかと言えば、観念的な世界に属しております。
この邸宅では『たとえ』は、テーブルや椅子と同じ『現実』となるのです。
思考は現実化する、とよく聞く言葉ですが、それを表している気がします。
概念というと抽象的ですが、「たとえ」というのは、過ぎ去りし時を思った場合、「たられば」話になることが多いですよね。
ああしていれば、こうしていたらと。
これって、「後悔=ペンチメント」の他のなにものでもないんじゃないでしょうか。そしてそんなもう一人の自分と和解できぬまま、忘れたフリをして生きている。
結局、いつだって生きているのは現実なのです。
でも現実世界は、概念で出来ています。ここでいう概念とは、おそらくですが、物事がが思考によって捉えられたり表現されたりする時の思考内容 のことだと思います。
つまり、共通認識としての概念ではないんです。ちょっとややこしいかな。
(上手く伝わっていなかったら、もう、概念という意味を辞書で調べてください。笑)
これを決定づける描写があります。
現実に戻り、豪邸なんかではなく、ただの公園だと気が付いた時の信介の台詞です。
信介の指す方には、公衆トイレがあった。その壁には、長い間に風雨で出来た染みがある。
「あれが、マーク・ロスコだったに違いない!」
美術畑にいた私は、ロスコと言えば抽象表現の画家で、とりわけキャンバスを切り刻んだ作品を思い出しました。
でもここでは違うな、と思ったのでちょっと調べてみました。
やはりこれを知っている茂木さんは美術にかなり精通していますね…そういえば、NHKの日曜美術館に出ていた時、あったわ!と、私は自分の膝を打ちましたよ。
マーク・ロスコ のシーグラム壁画
これはあくまでも私の推測ではありますが、ロスコの作品について調べてみたところ、物語に出てくるのは、「シーグラム壁画」のことじゃないか、という答えに辿り着きました。
この作品、実はほぼ幻の作品です。
何故か。
ニューヨークミッドタウンのレストラン「The Four Seasons」(2016年に閉店)飾られるはずでいした。それが「シーグラム壁画」です。結局、経営側とのコンセプトが合わず、その絵が飾られることはなかったのです。レストランからの依頼に基づき、30点もの絵を描いたにも関わらず、です。
一部の作品は現存しています。でも、30点が一室を飾ることは、もうないのです。
そういう意味で、幻の作品です。
著作権の関係で、作品の掲載はできませんので、ググってください。
話をもとに戻します。
この作品に辿り着いた最大のヒントは、トイレの壁の染み。
壁・・・トイレという狭いけれど個室、一室。ということで、これではないかと。
そしてこの「シーグラム壁画」について考察すると、それは概念としての窓ないし扉なんじゃないか、ということに気が付きました。
あちらの世界とこちらの世界の境目。あるいはその両方の世界を繋ぐ出入口。
パーティー会場に入るとき、彼らが通された庭の茂みが、まさにこれだたんじゃないかと思ったんです。
この茂みを通されるところ、そして道を案内する佐野(高木)の様子から、私は『不思議の国のアリス』を思い起こしました。ちょっとワープしちゃった感じです。
物語にそって言うのであれば、ロスコの「シーグラム壁画」は、人生の分岐点という現実と概念の世界を表し、内省(ないせい)を促すものなのではないか。
美術作品というのは、実は作品そのものを観ているようで、作家だったり時に自分との対峙であったりします。
内省というちょっとかたい言葉を使いましたが、自分の考えや行動などを深く かえりみることです。反省とか、内観と言い換えられるかもしれませんね。
これで私の中で、すべて繋がるんです。
もう一つの人生を見たパーティー。
そしてもう一つの選択肢を思い出したときの信介と隆史の、ふつふつとした後悔、ペンチメント。
ロスコという抽象画家の「シーグラム壁画」という、現実と概念の狭間を往復するような、そして過去の自分を振り返るような時間つまり追憶。
なんということでしょう・・・(ビフォーアフター風に)
最後に 私のペンチメント
「ペンチメント」「フレンチ・イグジット」、この2つの物語は、まるで別物のようでいて、実は「後悔=ペンチメント」を別の角度から見ている。結局同じことを別の視点から書かれた物語だったのではないでしょうか。
どちらを読んでも、不思議と、人生に繋がるんです。
あったはずの別の選択肢、そしてそっちじゃない選択をして今を生きている。後悔をして塗りつぶしては上書をして、でも時々ふと、頭に浮かぶ過去の「後悔」。
これを茂木さんが「ペンチメント」という言葉でタイトルにしたところが、本当に素敵だなと思いました。
私がかつて美術を専攻していたせいも、あるかもしれません。
人生は絵画のようにはいきません。
もしかしたら絵画だってそうかもしれません。作家にとってみれば、いつまでも満足のいく完成品は、生まれなかったのかもしれない。だから書き続けていくのかもしれない。作家かからすれば、描くことこそが人生なのであって、作品たちは彼らの人生そのものですから。
かくいう私にもペンチメントがあります。
そうですね。これについては、未だにもう一人の自分と、和解できていません。
ちょっとだけ私のことを書かせてください。
私はピアノを十年ちょっと習っていました。
本当にピアノが好きで、ただそれだけで十年もの間、毎日何時間と練習して、ただただ楽しんでいました。
始めたのは5歳のころ。
どうしてもピアノを習いたくて、親に泣きながら頭をさげてお願いしました。うちは母子家庭だったので、習い事をお願いする、しかもピアノも買ってもらわねばならないので、相当の勇気がいりました。
念願かなってピアノ教室に通うのですが、早々にして悟ってしまうのです。
私はピアノを始めるには遅すぎる年齢だったこと。活躍しているピアニストたちは遅くても3歳からピアノを始めています。
そしてピアノを続けるにはうーんとお金がかかるということ。
本当はピアニストになりたかったんです。でも、これを知ってから、さっさと諦めてしまいました。
それでもそこから何年もピアノを習い続けます。
好きで、上手になりたくて、音楽が楽しくて。本当にただそれだけでした。
でもある時気が付いてしまった。
高校に進学して一番最初にこう言われます。「高校卒業後の進路を見据えなさい」と。
入学したて、つい先日受験から解放されたばかりなのに、自分の行きたかった高校に入ってワクワクしているところに、水を差すようなことを先生に言われました。
でもここで、その言葉を真に受けた私は、本当に考えてしまったんですよね。
今習っているピアノ、早ければ高校卒業後、長くても大学卒業後には辞めなくてはならない。(働きながらピアノ習える時間があるなんて、思えなかったんです)
3年、あるいは7年後にはピアノとさようならをしなくてはならない。
そう思った途端に、私の中で何かが急激にしぼんでいきました。そうしたら、ピアノを目にすることさえも嫌になってきてしまったんです。
でも、私からピアノを取った後、私には一体何が残っているのだろう、と思うほど、自分にとってピアノがすべてで、自分の居場所でもありました。
ピアノを嫌いになりたくない、もう二度とピアノが弾けなくなるという最悪の事態はなんとしても避けたい。そんな思いから、高校進学とほぼ同時に、ピアノのレッスンを辞めました。
後から聞いた話ですが、家族をはじめ、私の周りの人たちは、私はピアニストになるもんだとすっかり思い込んでいたそうです。私よりも、周りが衝撃的だったのかもしれません。
大好きだったものを手放す、それは決して衝動的なものではなくて、熟考したうえでのことだったんです。私としてはですけど。
私にとってこれは未だに後悔=ペンチメントです。あの時、続けていたら・・・。
そしてそれは、ピアノを続けるというもう一つの選択肢であり、もう一つの人生でもあり、もう一人の自分でもあります。振り返ってみれば、自分の人生の分岐点で、ちょっと大げさですがターニングポイントでした。
『ペンチメント』というこの本を読んだあと、私はどうやって、あのときの私と和解すればいいのかなあ。そんなことを考えています。
うわー!過去最長だわ。ちょっとじゃないや。めっちゃ自分のこと書いた。
本当にこれで最後
あ。そうそう!
「フレンチ・イグジット」を読んでいる時、星新一のショートショートを読んでいるようなタイムスリップ感がありました。そして謎解きをしているようで、とても楽しかったです。
美術を知らないと、本当の意味が分からないような気もするので、私のこの記事が、『ペンチメント』を読む上でのヒントになれば嬉しいなと思っています。
そして最初に「ペンチメント」の感想を書いて、Twitterにあげた時、速攻で茂木さんが読んでくれて、引用RTしてくださったのが本当に嬉しかったです。
なにしろSNSがなければ、本を読んだ感想を作家本人に伝えてその返事が来る、だなんてあり得ないんだにゃ!
一昔であれば、せいぜい、作家に感想のお手紙書いて送るくらいしかできませんでしたから。今この時代に産まれて良かったと痛感。
あ、見えたかもしれません、もう一人の自分との和解方法。
こんなに喜んでいる現実の自分は、もしあの時ピアノを選んでいたら、存在していなかったのかもしれません。そうか、そういうことなのだなあ。
どえらい長くなりました。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました◎
もはや宣伝のようですが、本の読み方は実は茂木先生から教わりました。ついでなので、載せてしまえ!えいや!
みんなの読書世界が変わるといいなと祈りつつ、今日はこの辺で。
またにゃん。