5000文の1秒の奇跡に賭けて、全力投球【読書感想文】
こんばんは。にゃんちーです。
趣里と菅田将暉がメインキャストで『生きてるだけで、愛。』という映画が公開されましたー。ぱちぱちー。
観たい。
いや、そうでなくて。
この映画のタイトルを見た時、あれ?これどっかで見たぞと思い、探してみた。
ありました、ありました。自分の本棚にありました!
(NHKの某番組のコーナーの関根勤さんを思い浮かべた方、正解です。)
もう10年くらい前の本だけど、読み返してみたら、こんなに面白かったっけ!?と思ったので今日はこれをご紹介します。
ということで、今日の1冊。
『生きてるだけで、愛。』 本谷有希子 新潮文庫
新潮社HPより拝借。
ご紹介にあたり、ネタバレです。悪しからず。
映画観る予定の方、結末まで書いてしまうので、映画見てからお読みください。
もしくは、目次のあらすじをすっ飛ばして記事をお読みください。
では、さっそく。
あらすじ
あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫る。
(ここまで新潮社HPより拝借m(_ _)m)
ある日、寧子は津奈木の元カノである安堂に、強引にイタリアンレストランに連れ込まれる。安堂は要するに結婚に焦っていて、やり直せるものなら津奈木とやり直したい。だけれど津奈木は自分から別れを切り出すタイプではないので、お前(寧子)邪魔、ということが言いたいらしい。
鬱と過眠症を「言い訳」に体たらくな暮らしをする、まるでヒモのような寧子に自立を迫るのだが、うだうだ言っている寧子に安堂の堪忍袋の緒が切れて、その場でバイトをさせてしう。入った先のイタリアンレストランは、寧子にとって、不幸にもバイト募集中だったのだ。
結局、そのイタリアンレストランでバイトする寧子。
でもそのイタリアンレストランが妙な家族愛で満ちていた。鬱は寂しいからなるんだよ、一緒に頑張ろうぜとか言われちゃって。
初めは優しい人たちだなあ、ここでならやっていけそうだと思った寧子。だが、バイト先であるイタリアンレストランの今どきあまりにも密度の濃い愛(のような偽善)に呑まれそうになった時、寧子は急に壊れる。
真冬の雪が降る中、寧子は真っ裸でマンションの屋上を駆けずり回る。
そんな寧子に急に呼び出された津奈木は、寧子の姿を見て、動揺を通り越して固まってしまう。
寧子は(鬱から)復活した!(躁状態に転じた)と言いながら、津奈木に思いの全てをぶつけ始める。それはまるで、ダムが放水される如く、溢れ出す。
あたし、楽されると苛つくんだよ。あたしがこんだけあんたに感情ぶつけてるのに楽されるとね、元取れてないなあって思っちゃうんだよね。あんたの選んでる言葉って結局あたしの気持ちじゃなくて、あたしを納得させるための言葉でしょ?
津奈木は、何も着ないと頑なに話し続ける寧子を抱きしめながら、ひたすら背中をさすってやり彼女の話に耳を傾ける。
そして寧子は津奈木に、こう言い放つのだ。
いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなあ
屋上から部屋に戻る二人。暖房をつけたと同時にブレーカーが落ちた。押しかけてきた安堂がチャイムを連打するなか、そしてブレーカーが落ちたままの暗くて寒い部屋のなかで、津奈木は寧子の頭をなでながらこう言うのだ。
でもお前のこと、本当はちゃんと分かりたかったよ
誰かに全部を分かってほしい でも誰でもいいわけじゃない
人はいつだって孤独だ。でも少しでも分かってくれる人がいるから、やっていける。
分かってほしい、という切なる願望は誰しもが持っているはずだ。
ただ、それが誰でもいいのかというと、本当の本当は違うんだと思う。
誰かにさえ分かってもらえれば幸いなのだけれど、本当の本当は、どうしても分かってほしい人、っていうのが居ると思うの。
でもきっと、普段、そこにはみんな蓋をしている。
分かってほしい人に、分かってもらえない寂しさに蓋をして生きている。その寂しさを、見て見ぬフリをして生きている。
誰かと別れることはできても、自分とは一生別れられない。どんなに嫌でも、私は私と一緒に生きていく他ない。別れられるって、いいなってそういう感覚。
寧子の終盤の叫びは、とにかく津奈木に分かってほしい!全部わかってほしいんだ!っていう切なる思い。それを素直に言うって、ものすごいエネルギー使うし、何よりその正面突破力が凄まじい。当たって砕けろじゃないけど、下手したら自分だって粉々になるかもしれないのに。
自分が壊れたっていいから、分かってほしい。どうにかして、あんたに分かってほしいの!っていう寧子の気持ちは、正直私はとても良くわかる。あんなに破壊力抜群の行動はとれないけれど。
メンヘラって言われちゃうであろう寧子は、復活したときに何かと全力投球で、きっとそれに自分でも疲れて鬱になるというループにいる気がする。
鬱は鬱で、そこに全力投球なのが寧子だ。ある意味怖いくらいに真っ直ぐなのだ。自分にも、愛おしい人にも。
無論、そこに巻き込まれる周りはたまったもんじゃないのだが、何故か津奈木は3年物間一緒に居てくれたのだ。
そう。
だから分かってほしい人というのと同じように、どうしても分かりたい人、というのも居ると思う。津奈木にとっての寧子のように。
誰かの力になれたら、誰かの心に寄り添えたらって、若干お人好しな事言うようだけれど、そうなれたらいいなって思う。
じゃあ同じように誰でもいいのかと言われると、本当の本当は、どう?
違うんじゃないかな?
どうしても、(出来れば全部)分かりたい人、って居るんじゃないのかなあ。
私には居る。だから津奈木の気持ちも、良く分かる。
みんな、本当は誰に分かってほしいの?
みんな、本当は誰の事を一番わかりたいの?
そんな風に問われている気がしてならない。本当に大事にしたい人は、誰?って。
5000分の1秒 という奇跡
これは真っ裸になって復活を遂げる寧子と、津奈木の奇跡の瞬間なのだ。
二人は葛飾北斎の「富嶽(ふがく)三十六景 神奈川沖浪裏(おきなみうら)」の時間で繋がる。
ここの書き方が本当に秀逸というと言うと固すぎて・・・
要するにヤバくて、それこそ北斎のこの浮世絵を見た時の様に、マジで痺れた。
小説の初めごろに、鬱で寝てテレビばかりを見ていた寧子の記憶に残っている番組の話が書かれている。
それが葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、富士山を背景に荒々しい波がザッパーン!ってなっているその浮世絵が、5000分の1秒のシャッタースピードで撮った写真の構図と寸分たがわず一致する、という内容。
これについて寧子は、
やっぱりあの画は彼の頭の中で想像して書いたものなんだろう。たまたま奇跡的な確率で現実が想像に追い付いちゃっただけで。
と心のなかで言っている。そして、
でもきっとあたしにはあたしの別の富士山がどこかにあるってことなんだろう。
と思うのであった。
それが復活をとげた寧子の言葉に滲み出る。 津奈木に対して、
あたしはもう一生、だれにも分かられなくたっていいから、あんたにこの光景を五千分の一秒を覚えてもらいたい
あたしがあんたとつながってたと思える瞬間、五千分の一秒でいいよもう
ぱっと読むと支離滅裂でしょ?笑
でもつじつま合ってるんだよね。
寧子は、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の五千分の一秒が、最初は想像だろうと思っていた。その想像に、現実が追い付いた、という奇跡、と捉えていた。
でもやっぱり、それを描いた北斎は、
その瞬間お互いの中で何かが通じ合ったからだと思うんだよね。だって富士山のことを分かろうとした人間ってたぶんいないだろうし、富士山は富士山で自分のことを何から何まで知ってもらいたいたくて、ザッパーンの瞬間をわざと見せつけたはずなんだよね絶対
と、寧子は北斎と富士山のシンパシー(共鳴)っていう奇跡だと気が付く。
更にそれは寧子の津奈木に対する想いそのものなのだ。だから、寧子はその奇跡を自分で起こしてみたくなっちゃったのだ。
寧子は寧子の富士山を見つけた、つまりそれは津奈木だったんだ。
狂気の沙汰とでもいうのか、どうかしてるぜ 寧子、と言いたくなるのだけれど、 寧子の言っていることは、私は真実だと思った。
人と人が繋がるって、目に見えなくて、それはセックスとかそういう体のつながりじゃなくて、心が通い合う瞬間って、本当に一瞬の出来事で奇跡みたいだからだ。
だって、「あ、今、繋がった」って、確認しようがないじゃない?
電話みたいに通信してる訳じゃないんだからさ。テレパシーも使えないし。
でも、心がつながった瞬間って、何故だか感覚的に分かるじゃん。
その時って不思議で、自分だけが勝手に心が通った(かよった)と思っているわけじゃななくて、相手も同じように自分と同じタイミングで心が通ったと思って疑わない。
だから「繋がった」って思うわけでしょ?
やっぱり、それって奇跡の瞬間なんだと思う。
この本の結末は、ちょっと乱暴だけど、不器用な二人の奇跡の瞬間を目の当たりにしたような気分になる。
そうだね。 寧子の言葉を借りれば、北斎の「ザッパーン」の瞬間。
そう。
5000分の1秒を、見た。そんな感じ。
本谷有希子の文体(この小説に限る)
本谷有希子はそもそも、自分の名前を劇団の名前として活動し、劇作家でもあり演出家でもある。
そのせいか、この小説にも演劇っぽり台詞の言い回しが多い。
登場人物、とくに 寧子の台詞には句読点が本当に少ない。それは多分わざとで、 寧子の勢い、全力投球なところが出ている。息をつく間もなく、ぶわーっと喋る。 寧子はそうやって自分の感情を、字の如く吐き出している。
ちなみに鬱の寧子の台詞は、必要最低限すらも喋れていないので、もたついている。
そういう意味では、少し読みにくのかもしれない。
一方で津奈木の台詞は、最低限にとどまっている。必要最低限のことしか言わない。超省エネな台詞。
私は、ここに著者の文章力の凄さがあると思っている。
活字で登場人物の話すスピードが分かるっていうのはちょっと信じがたい。登場人物の息づかいが分かるって本当に凄い。
だって演劇じゃあるまいし、目の前で台詞を聞いているわけではないのに、例えば津奈木の台詞はゆっくりと、寧子の台詞は捲し立てるように、勝手に読み入ってしまう。
無造作に書かれているようで、読者の識字スピードはコントロールされている。
この文章力、恐ろしいでしょ、どう考えても。笑
それからもう一つ。
この小説の中には、とてつもなく、擬音語・擬態語が多い。
そもそも日本語はオノマトペ*1の多い言語だ。
オノマトペってすごく感覚的な、ある意味で抽象的な言葉。ゆえに、そのオノマトペから連想する状態や心情が、読み手に画一的に届くとは言い難い。
そう言い難いはずなのだが、これはあくまでも私の感覚ですが、ドンピシャなのだ。
オノマトペを的確に活字で使うって、もう、魔法使いだよ。
オノマトペの多発によって、読者は想像力を否応なしに感化されるとともに、日本語のもつ豊かな表現力を目の当たりにする、はず。
少なくとも、私は著者が使ったオノマトペ多発文章が好きだし、別の言葉で的確に表現されるよりも余程、自分の想像力を刺激された。
この小説に限らず少し書くと、本谷有希子の書いたものは、かなりの確率で好き嫌いが分かれるところだと思う。何しろ、狂気的でメンヘラ人物が多いので、目も当てられないし、読みづらいと感じる人も多いと思う。
でも、ちょっとその見方を除けて読んでみて欲しい。
狂っている中に、大胆さと緻密さ・繊細さが共存している。
そしてそこに、きっと普段みんなが蓋をしている真理を突き付けてくる残虐さが見えてくるはずだから。きっとね、自分も持っているけれど見たくないものを、まざまざと突き付けられるから、彼女の作品を毛嫌いする人が居るんだと思う。
正直なところ、そういう、臭い物に蓋をするタイプの人にこそ、読んで欲しい。
最後に おまけ
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」という映画がある。私、この映画が好きなのだ。確か、カンヌ国際映画祭に招待されていたはず。
佐藤江梨子主演なのだけど、彼女の(演技での)狂いっぷりを是非見て欲しい。
そして妹役の佐津川愛美の、強かさ(したたかさ)と最後の最後のこれ見よがしに出てくる狂気っぷりにゾクゾクする。
兄役の永瀬正敏の最期にも注目してほしい。恍惚としたあの表情。台詞はないのだけれど、死の淵(自ら命を絶つのだが)で、何をどう思ったらあんなうっとりとした終わりになるのか…。
狂った世界の中に見る「愛」をぜひ感じて。
今思ったけど、今日紹介した小説も「愛」だ。もしかして、本谷有希子は「愛」について探しているのかもしれない。
あー。きっと今日の私の読書感想文はひどく荒れた文章だこと。
読んだものに左右されるこの感じ、ある意味ライブ感だけど、ちょっとどうにか統一したいというか、私の文体というものを確立していきたいと思う次第です。はい。反省。
ということで今日も長くなりました。
最後まで読んでくれた方、ありがとう◎
それではまたにゃん。
*1:辞書的意味としては、自然界の音や声、物事の状態や動きなどを音で象徴的に表した言葉