愛と自由と気怠さと【読書感想文】
こんばんは。にゃんちーです。
この本を読んでからというもの、なんとも言えない気怠さが張り付いてとれやしない。
読む季節を間違えた気がするね。
夏に読んだらもっとフィットするんだと思う。
では、さっそく。
紹介につきネタバレ。悪しからず。結構な有名作品です。
『悲しみよこんにちは』 フランソワーズ・サガン 河野万里子訳
言わずと知れた名著。題名くらいは聞いたことあるかもしれませんね。
サガンの処女作。
しかも若干18歳にしてこれを書き上げただんて!
それを知って、私は、綿矢りさの『インストール』を思い出したよ。(これはまた別の機会に感想を書こうかのお)
ちょっと話がそれるけど、10代マジックってあると思った。これについてはまた後程。
あらすじ
セシルはもうすぐ18歳。プレイボーイ肌の父レイモン、その恋人エルザと、南仏の海辺の別荘でヴァカンスを過ごすことになる。そこで大学生のシリルとの恋も芽生えるが、父のもうひとりのガールフレンドであるアンヌが合流。父が彼女との再婚に走りはじめたことを察知したセシルは、葛藤の末にある計画を思い立つ……。(ここまで新潮社HPより拝借 m(_ _)m)
セシルにとってアンヌは知的で上品で秩序の中で生きている憧れでもあり、一方ではその価値観を押し付けてくる自由を奪おうとする疎ましい存在でもあった。そんなアンヌと父との再婚なんて、まっぴらご免だと思い、どうにかして父とアンヌを引き剥がすべく、画策する。
それも父のプレイボーイっぷりを大いに利用して。そして、エルザの父への気持ち、シリルの自分への恋心を大いに利用して、だ。
それは少し時間をかけけて、セシルの思い通りに進んでゆく。
案の定、プレイボーイの父はエルザと密会し、それをアンヌが見てしまい、アンヌは泣きながら車を走らせて去っていく。
そしてアンヌは本当に、去ってしまうのだ。この世から。
事故か、自殺なのかは、分からないが。
その悲しみに浸ることなく、父とセシルの生活は、段々と元に戻っていく。自由きままな奔放な生活へと戻っていく。そうしてやっと、思い出話でもするかのように、アンヌの話が出来るようになる。
時々アンヌとのことを思い出しては、セシルは目を瞑ってそれを迎い入れる。「悲しみよ、こんにちは」と。
瑞々しい それがかえってあまりにも惨い
10代ならではの、日ごとに考えが変わる感じの主人公セシル。自由であることを望み、父を心から愛し(近親相姦的意味ではなくて)二人の空間をとにかく邪魔されたくない。
プレイボーイの父さながら、セシルは自分もバケーション先でシリルという青年に恋をする。
愛と自由を謳歌しているような父と子の二人なのだが、愛や自由があってもなくても、いつも何か満たされていない感じが、気怠さとして付きまとっているように感じる。
情景描写が生き生きとしていて、本当に10代ならではの視線だなあと思うのだ。全てが自分の都合よく輝きだしたり、くすんで見えたり。
思うのだけれど、突拍子もなく悪だくみというか、急に機転が利いて自己を守るために画策するセシルの姿なんてもう本当に小悪魔。
悪魔と言わなかったのは、セシルにそういう自分の気まぐれな部分とかずる賢さに対して悪気がないから。
今の自分を信じて疑わない。
根拠のない自信、みたいなものがチラつくところがまだ10代。
それでもセシルは彼氏のシリルに、諦めにも似た気持ちからこう言う。
自分が嫌いだ。
10代あるあるの葛藤だと思う。
セシルは自分のことを、
卒業するための勉強に打ち込むよりも、太陽の下で男の子とキスする才能の方に恵まれている
と自ら思っていた。フランスっぽい。偏見かもしれないけれど。
セシルは、シリルが初めての相手で、この二人の描写はなんとも美しく気高い。本当にそうだったのかは分からないけれど、10代のセシルあるいはこれを書いた当時18歳のサガンにとって愛というのはそういうものだったのかもしれない。
例えばこんな文章がある。
怯えが欲望に手を差し出し、やさしさや、激高、やがて荒々しい苦痛から、勝ち誇るような快楽へ。
私は彼を覚え、自分自身を見出し、彼の体に触れて花ひらいたのだ。
セシルはもっともこれを愛だと思うのだけれど、これによって愛しあうという動的なことについてとても素敵な解釈を持つようになる。
愛によって知った、肉他的なとてもリアルな快楽のほかに、それについて考える知的な快楽といったものも、私は感じていた。「愛しあう」という表現は、意味でふたつに分けると、ことばがいきいきしていて、それ自体魅力的だ。私的な抽象概念の「愛」ということばに、実際的で現実的な「しあう」ということばがむすびついている
と。
なるほどなあ・・・と感心した。「愛」という掴みどころのないものに、「しあう」とか「する」とか動作的な言葉がくっつく。具体的にどういう状態を指すのか、さして分からないけれど、なんか素敵!っと思ってしまう。
愛によって満たされている気がする。愛しあうという相互関係なら猶更だ。
ところが、自分の画策により、アンヌが亡くなった時、セシルは恋人であるはずのシリルに対してこう思う。
この人を愛したことは一度もなかった、と。いい人だと惹きつけられはした。この人が与えてくれた快楽は、たしかに愛した。でもこの人を必要としていたのではなかった。
む…惨い。
悪意のない正直者ほど惨いものはない、そう思う。
勿論セシルはこれは心の内にとどめて、実際に口にしたわけではないけれど、愛し合うって素敵!と思っていたそれは、欲望のままに快楽の溺れていたにすぎず、本当の愛なのではなかったのだと気が付くのだ。
快楽主義的なところが、プレイボーイの父とも似ているし、ロココ主義的な雰囲気にも似ている。
快楽は良い。そしてしてくれた行為は、愛した。でも、彼自体は必要ではなかった。
愛していたのは彼ではなく、彼がしてくれたことだったのだ。
こう書いてしまうと、なんてビッチな!と、なりそうなのだけれど、本当にそうなのかなあ?って思う。
それに気が付いたセシルは、よっぽど素直で愚直に自分と向き合った人なのではないかと。
今の自分に置き換えてみたらいい。
本当に彼が好き?
お金持ちの彼が好きなの?優しさが好きなの?なんでもしてくれるから??とか。
愛する人が、本当に何も出来なくなるとか、稼ぎがなかったと仮定したとき、それでもその人を大事だと思えるかどうか。
そう問うてみると、実は本当に自分が愛しているものが何か、分かる気がする。
話をもとに戻して。
主人公のセシルはまだ10代。愛も恋も大して違わないから、経験して学んでいくような、俗にいう多感な時なのかもしれない。
その若々しくて移り気なところが、瑞々しい文章によってより際立つ。セシルのちょっとエゴイスティックなところも、10代の幼さとかその時独特の自信過剰さとして見て取れる。
でもきっと、みんなそういう道を通ってきている。
私もそうだったのかもしれない。これを読んでいるあなたも、そうだったかもしれないでしょ?ぐふふ。
秩序がもたらす 退屈さ そして本当の愛
亡きアンヌのことを思えば思うほど、何かが心の中に渦巻く。それこそ愛、だったのかもしれない。
セシルは秩序と調和なんて死ぬほど退屈だと思っていたけれど、それがどれだけ愛に包まれていたことだったのか。
自由を生きているようで、愛を貫いているようで、矛盾だらけのセシル。
プレイボーイの父も相まって、不安定な生活がそこにはある。それは無秩序で退屈からは程遠い、刺激的な生活なのだろう。
でも、本当はアンヌがくれた秩序を葬り去ってしまったことが「悲しみよ、こんにちは」なのかもしれない。こんな風に、一見したら反省していないセシルも、後悔にも似た悲しみをどうにか受け入れようとしている姿なんじゃなかろうか。
セシルは自分のした過ちを美化しているようにも捉えられるかもしれない。でも、そうでもしないと、思い出と一緒に奈落の底へ落ちていく。
悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、私には敬うべきものに思われるからだ。
物語の冒頭にあるこの一文が、それを見事に物語っている。
おんなこどもの読み物と言われた サガン
要するに、少女漫画的ということだと思う。確かに恋路のところだけ読めば、まあそうなんだけど。もっともっと深いところにこの作品の魅力があると思っている。
セシルもこの小説の中で自分で言っているが、セシルは動物の様に生きている。それは言い換えれば、自由なのだろうけど、それでもそこには、なんだか孤独感がつきまとう。
かといって、アンヌがくれたような秩序や調和は疎ましくて楽しくない。それもまた、自分の本能的なところから逃れられずに束縛されているような感覚が押し寄せる。
どちらにせよ、いつだってどこか自分の中には「虚しさ」みたいなものが、背中にはりついている。サガンは、そんなことを書いているように思う。
結局その「虚しさ」を何かでもって埋めようとするのが人間だ。
上手に孤独と生きていける人ほど、強い人はいない。ある意味で普遍的なことを言っているんじゃないだろうか。
サガンの小説は、イチャイチャした恋愛小説とか、おんなこどもの読み物なんていう浅いものじゃないと思う。
それしか読み取れないんであれば、きっとそれは読み手自身の経験値や思考の足りなさだと思う。
愛も、自由も、いつだって気怠さが混じる。
まるで真夏の太陽のジリつく日差しの様に。
愛も自由もそんなに単純じゃないよねーって思った。
10代 マジック
これは私の勝手な推測だけれど。ちょっと聞いてくれるかい?笑
今日紹介したサガンの『悲しみよ、こんにちは』はサガンが18歳の時に書き上げた。
綿矢りさの『インストール』という小説も、彼女が17歳の時に書き上げ、そしてデビュー作にして、文藝賞を受賞している。
分野は違うのだけれど、椎名林檎の「ここでキスして」は、彼女が高1か高2ぐらいで書いている曲だったはず。
宇多田ヒカルも「Automatic」で鮮烈デビューを果たすが、この時若干15歳。
今ここに挙げたのは、ほんの一部で、私の好きなものばかりなので趣味が偏っておりますが、どれにも共通することがあると感じている。
別に今の彼女たちの作品がイマイチと言いたいのではなくって、眩しいほどに無防備でそれがかえって残虐的がゆえにどストレート。大人になった今、同じような勢いのあるものを創ろうったって、そうはいかない。多分だけどね。
そういう10代ならではの勢いとか、キラメキとかってあるなあ。と、サガンのこの小説を読んで殊更感じたのだ。
だって綿矢りさも椎名林檎も、宇多田ヒカルも比較的最近だけれど、サガンのこの小説はもう64年前の1954年の作品なのだから。
良くも悪くも、普遍的な年代あるあるなのかも。なんてことを、思いましたとさ。
今日はこの辺で。
またにゃん。