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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

生き方というトレンド【頭の中の本棚】

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こんばんは。にゃんちーです。

お薬の副作用か、ぐったりなので、軽めに更新。頭の中の本棚より1冊。

 

 

生き方 って、なに?

かくいう私もそうですが、昨今の人は「自分の生き方」を模索しているようなところがあります。

そして今、それに「自由」というのが、必ずついて回っているように見える。

 

自由ってなに?

生き方ってなに?

むしろ不自由って、なに?? 逆に死に方ってあるの?

そんなことを考えてみました。(正直、常日頃これについて考えている)

 

なりたい自分を追い求めて

フリーランス、起業。

個人プレーがまるで「自由を謳歌」するための象徴かのような風潮がある気がする。

でも、やっぱりそれって向き不向きがあるじゃない?

普通に会社員で、縁の下の力持ちとしての方が自分の力を発揮できる場合もあるじゃん。会社っていう大きな看板背負っている方がパワープレー出来ちゃう場合もあるし。

 

まあ、やってみてから言えよって話かもしれないけれど。

 

 

みんな自分の理想があると思う。

理想があっても、そこに蓋をして生きている場合もあるけれど。それに対する解放的な流れは、個人的には賛成。

でも如何程の人が「なりたい自分」を思い描いているのだろうか。

どこまで「理想」を突き詰めているのだろうか。

とりあえず自由が欲しくて、目標も志もないままに、形から入るのって、危険な香りしかしなくない?

 

なりたい自分を追い求めても、本当は自分が何を求めているのか考えるところから始めないと意味がない気がするの。

 

どんな自分になりたいのか。

どんな風に生きていきたいのか。

ひいてはどんな社会にしていきたいのか、とか。

 

漠然とした夢みないなところから、もう少し細分化して、具体的にどうありたいのかを見つける。これって結構、頭の体力がいる内向的思考が必要。

勿論、自分や現実の嫌な部分とも沢山向き合わなくてはならない。

そしてその「なりたい自分」とやらから逆算して、今どうすればいいのか、これからどうすればいいのかと計画を立てなくてはならない。

結構な重労働だよ。笑

 

 

もし 自由 しかなかったとしたら

自由っていうのは、不自由なことがあるから体感するんだよね。

ということは、不自由の中に自由があるんだよ。

何でもOKというフリーダムな世界は、要するに無秩序なわけだから、そこに本当の自由があるとは思えない。不自由な思いをしない限り、今の自分が自由だ=何にも縛られていない、という感覚は味わえない。

それに無秩序だったら、自分の自由は、他人の不自由かもしれない。結局、本当の自由は叶えられないということ。

 

かと言って、自分の好き勝手にするというのも、また自由をはき違えている気がする。

 

本当の自由って何だろうか。

時間的解放なのか、経済的解放なのか。精神的解放なのか。

 

縛られている何かから解き放たれた時、人は自由を感じる。

 

今、あなたを縛っているものは何だろうか。

時間?お金?人間関係とか?

でも結局、最後は精神的に自由かどうか、なんじゃないのかな?

 

ぜーんぶ取っ払えたとしたら、自由だ!って思えるのだろうか。

そもそもだけど、本当に、今、そこには不自由しかないの??

 

なりたい自分って?と同じだけれど、自由というのもまた、自分にとって意味するところが何なのかを問われていると思う。

不自由があるから、自由があるんだよ。

 

 

人は見た目(外見)じゃない、とは言うけれど

ここで見た目とは、顔面偏差値のことを言うているのではない。そういうどうしようもないところではなくて、体形とかファッションセンスとか、自分の努力や工夫次第でどうにでもなる部分の見た目。

 

最終的には人は中身、だと思っている。

 

でも、今、その中身が足りなかったとしたら、どうだろう。

どうやって補っていくんだろう。

結局のところ、他の力を借りるしかないよね。それが「見た目」だと思う。

 

なりたい自分に向かって、今はちょっと背伸びをする。

するとその見た目と中身のギャップを埋めるべく、自ずと努力していくんじゃないだろうか。

あるいは、その見た目に伴った自分を演出しだすんじゃなかろうか。演出しているうちに、獲得して本物になる。

真似るから学ぶといったところだろうか。

これを使わない手はないと思う。

なりたい自分になるために、演出するって、一番手っ取り早いじゃん。

 

自分の中身で勝負するのはいいけれど、勝負できるほど、中身がある人ってそんなにいるの!?って思う。決して卑下して言っているのではなくて、はなから裸の自分で勝負するっていう考えが、ヤバイと言っている。笑

 

ファッションは自分を映す鏡だ。

言葉も自分を映す鏡だ。

 

世の中には、わざわざ恥ずかしい裸になんてならなくても、自分を映し出せるツールが沢山ある。

それを如何に使って、自分を構築していくか、だと思う。

だから形から入るというのは、あながち間違いではないとも思っている。

ただし、とりあえず形から入った先を思い描けているかどうかが肝だけど。

 

蓋を開けてみたら、中身がない!というのも問題だけど、だいたいそんなもんだから、見た目から攻めてみてもいいんだじゃないのかなあ。

見た目と中身のギャップを埋められるかどうかは、自分の努力次第だけれど。

中身が伴わないのであれば、その見た目は一生仮の姿だし、ただの背伸びで終わる。

 

でも中身から外身という順番で磨くのって、結構時間かかる。そして結局永遠に中身の追及に終わることもある。

見た目というのはそういうところで便利で、視覚的になりたい自分像を、自ずと確かめられるんだ。毎日そういう自分を目で確かめる。そうしたら、きっと自分の目標や志からブレないだろう。そして結果的に、なりたい自分を常に意識していけるんじゃないかと思う。

結局、見た目も大事。

 

 

いかに生きるか、という禅問答みたいなトレンド

今って、どう生きるか、みたいな万人に共通する答えはない禅問答を好む風潮にあるけれど、それで本当に自分の本質に迫っていけるなら万々歳。

でも、それを考えている自分カッコイイみたいな、トレンド感もかなりある。

あちこちにインフルエンサーと呼ばれる存在がいるから、猶更なのかもしれない。

「生き方」というトレンドを作り出した過程を見ていると、どうしてもココ・シャネルを思い浮かべてしまう。

だけれど、シャネルのように強烈なトレンドアイコンは、今のところ居ない。

いないのに、何故か流行っているのが不思議でならない。

AKB48じゃないけれど、少し手の届きそうな存在というところが、自分もやったら出来るかも!?みたいに思わせる妙な親近感になっている気がする。

 

生き方、ってトレンドなんかじゃない。

シャネルは彼女の生き方そのものが、本当にトレンドで、それはファッションのみならずスタイルとして確立されていったけれど、あれは女性が社会進出しだしたという社会的背景の後押しも大いにある。

 

一方で、今、これといって、そういうものはない。

そう考えると、本当にただの流行で、しょせんファッションアイテムというか、結局本質を掴めていないので、流行が去れば自分も消える、みたいになりそう。

働き方改革とやら、仮想通貨とか。確かに時代の変革期にはあると思う。

でも、どうもそこから抜きんでた人は見当たらない。横並びと言ってもいいかもしれない。

面白そうな人、それも結構~そこそこ成功している人が何人もいる。

でもぶっちぎりの勝者はいない、みたいな。

 

自分がどう生きるかなんて、自分が決めれば良いことだ。

それを考えるきっかけとして、今あるトレンド感に乗っかるのはあり。でも、全力でトレンドにおんぶに抱っこじゃ、まずいと思うんだ。

「生き方」探しが、トレンドじゃなくなったら終わりだから。

 

だって一昔前もあったよ?

「自分探しの旅」とかいうの。

ある程度の年齢の人にはわかると思うけど、みんなあのキャッチフレーズで、バックパッカーとかやってみたり、どっか旅行いったりしたでしょ?

自分探し中、とか言うのがカッコいい時期もあったでしょ。

 

時代は繰り返す、を見ている気がする。

きっとここから先は、自分そのもの、自分の人生の本質に辿り着けなかった者は、結局社会から淘汰され葬り去られていく気がする。

 

おー怖い。

 

ん?私?

私は自分の障害とどう付き合っていくか、だ。目下これにつきる。

そのうえで、自分のしたいことをどうすべきか、好きな人と一緒にいるにはどうしたらいいのか。悶々と考えているところじゃよ。

 

今日はこの辺で。

最近の変なトレンドについて、でした。

またにゃん。