既製品みたいな幸せを捨てた日【頭の中の本棚から】
こんばんは、にゃんちーです。
本当は朝にblog書きたいなって思っている今日この頃。たぶん、朝書いたらめっちゃポジティブですっきりした文章だと思うんだけどな。
さて、さすがに1日1冊本を読み切らない。ビジネス書ばっかり読むとか、私は全然楽しくないもんだから。笑
昨日のblogの続き、みたいなもの。
昨日のblogは、一昨日の続きみたいなものだったけれど…。
『愛がいない部屋』 石田衣良 を読んでのこと
今日は私の話だけなので、その前の読書感想文はこっちからどうぞ。
刊行されてすぐに読んでいて、タイトル小話がきっかけで、昨日のblogを書くのに改めて読み直したところなのね。
それからずーっと、自分のこと、考えていたのだ。昨日のblogでも紹介しているのだけれど、『愛がいない部屋』という短編集の中の「空を分ける」という短編小説が、どうにも過去の、ちょっと前の自分に響いてしまって、長らく頭のなかはぐるぐるとしていた。
答えが出た時、泣けてきてしまったのは、ここだけの秘密。へへへ。
愛し合う を求めることを辞めた
私はその日を、自分の独立記念日と呼んでいる。
離婚した日のことだ。
忘れもしないけど、全部自力で引っ越し作業して、片付けもようやく落ち着いて部屋でごろんってしてみて、嗚呼なんて幸せなんだ!って思ってしまった。
ずっとずーっと、離婚を悩んでいた。今思えば、躊躇っていたのかもしれない。
上手くやっていく方法は本当に他にはないのかな?これ以上ないのかな?って。
諦めたくなかったのかもしれない。
何を諦めたくなかったのかと言えば、きっといつか本当に愛し合える日が来るのを、だと思う。
でも無理だった。まるまる5年も一緒にいたけど、出来なかった。
野球じゃなくて、キャッチボールがしたかった
思い返せば5年もの結婚生活は、完全に一方通行だったし、一人相撲だった。
「空を分ける」ことができたら良かったのだけど、そうやって何か共有していくには、自分だけがどうにかしても出来っこないのだ。
私はキャッチボールがしたかった。
投げたボールを受け取ってもらって、投げ返してくれたボールを私が受け取る。
そうやって一緒につくり上げていきたかった。誰かと一緒に生きていくって、そういうもんだと思っていた。
でも現実は違っていた。現実は、というよりあの人は違った、というのが正しいだろう。
私はキャッチボールがしたかったのに、ボールを投げるとバットで打ち返される、みたいな日々だった。いつもスパコーンと気持ち良くバットでボールをぶっ放されて、なんでか知らんけど、走ってボールを取りに行く私、というよく分からない構図だったと思う。分かりにくいかな?
要するに主従関係だったんだと思う。自分は下僕だと思っていたくらいだ。
それでもきっと、どこか相手にも自分にも期待していて、相手の望むものを与えていったら、いつかきっとキャッチボール出来るのかなって思っていた気がする。
早い話、愛されたかったのかなあ。
でも愛されたいと同じくらい、自分もちゃんと愛してみたかった気がする。
社会的な幸せ、それはまるで既製品
ある程度の歳になったら結婚して、結婚したんだから子供作って、そしたら家建てて。
家庭持ってからの幸せって、いつ決まったのか知らないけれど、みんながみんなこうして同じようなものを思い描いている。
その社会的な幸せは、私にとってまるで既製品で、量産型のものだった。だから、私はそれらに兎角拘りはなくて、どうしても子供が欲しい!とかないし、結婚したい!とかもなかった。
なかったんだけど、あの人は、そういう絵に描いた餅じゃないけど、社会がつくり上げた幸せという偶像を永遠と求める人だった。
だから平気で私にこう言うんだ。
仕事辞めるなら、次探してからにしてね。
どうせ転職するなら、(子供生まれた時の事考えて)福利厚生のいいところにしてね。
自分の稼ぎだけじゃ家を建てるの無理だから、正社員でよろしくね。
子供欲しいから、病院調べて。(妊娠しなかったものでね)
あげたらキリがないんだけれど、そうだね。私はあの人にとって、夢をかなえる道具に過ぎなかったのだと思う。
そこに、愛 など、あるはずがない。
なんでだろうって、ずっと思っていたんだ。
結婚するのも、子供作るのも、家建てるのも、別に私とじゃなくたって、他の女とでも出来る事じゃん?って。
そういう既製品みたいな幸せって、良くも悪くも目に見える形でしょ?
形が欲しいだけなら、相手は誰でも良いんじゃないの?って。
私がどんなにボール投げても、それは目に見えないものだから、一向に受け取ってもらえなかった。
私は永遠に終わらない玉入れ競争をしてたのかもしれないね。投げても投げても、網からすっこ抜けちゃう感じでさ。
あれこれしてみても、全然受け取ってもらえなくて、気が付いたら5年も過ぎていた。
ある日突然、「とりあえず、私の幸せはこれじゃない!」って思った。
本当に突然だった。そして、じゃあ自分にとっての幸せって何?と聞かれても、答えられなかった。
答えられなかったけど、これじゃない!っていう事だけは、ものすごくハッキリとしていた。
その時、私は、愛し合うという目に見えないことを求めるのをやめた。
自分にも、相手にも、それを求めることを辞めた。
そもそも 籠の中の鳥 ではいられないタチだった
離婚する1年前から体調が絶不調だった。
ちょうどその頃、仕事でもバタバタしていたから、何が原因かさっぱりわからなかった。むしろ仕事のせいだと思っていた。
体重変動なんかほとんどしない私が、ものの2ヶ月で5キロも落ちた。そしてみるみるうちに10キロ痩せてしまった。
6キロ落ちたころ、内科にかかってみたら尿蛋白でていて、貧困の国の子供なみに栄養失調だと言われ、消化器科にかかることになった。
胃カメラ通して、十二指腸までみたけど、何も問題はなかった。
でも痩せてく。そして食べれない。
さすがに10キロ痩せた時、もう自分では限界だなあと思って、しぶしぶ心療内科にかかった。
摂食障害で鬱だった。ただ、それは二次障害で、何よりもこの時に、私は自分が発達障害だということを知った。
ADHDだし、ASDっぽさもあった。
心療内科の先生に、昭和的価値観(まさに別れた夫だけど)の人とはやっていけないよ、そういう結婚は無理があるよと言われた。
ADHDの人はね、籠の中の鳥ではいられないんだよって。
私には結婚が向いていなかった、社会的な幸せ、既製品みたいな幸せに浸ることは無理なんだって思った。
そもそも、出来ないんじゃんってわかった。
自分が欲しくもないものを、相手の期待に応えるかたちで、手にしようとしていたこの5年が、いつのまにか私を蝕んでいたんだということに、ようやく気が付いた。
性格に名前ついただけでしょ
自分が心療内科にかかったこと、発達障害だったことを告げたときのあの人の言葉だ。
「性格に名前ついただけでしょ。一緒に気持ち的に沈んでも仕方ないし。」
いや、まあ、そうなんだけど。
そうなんだけど、違う!って思った。
私も私で往生際が悪くて、この期に及んでまだ相手にも自分にも期待していたんだなあと。あの時の私は私で、とても未熟だったんだ。今思うとだけど。
今振り返ってみても、つらかったなーって思うばかりだ。愛されていた、と感じた記憶がない。同じように、自分の気持ちが相手に伝わった記憶もない。本当に愛せていたのかさえ、定かではない。
きっと、何もできない自分に、頑張っていない自分に、自信がなかった5年間だったと思った。
思い返すとただただ辛いというところから脱出できたのは、本当に昨日のことだ。「空を分ける」を読んでひたすらに考えてみたからだ。
結局のところ、愛ってなんだろう
愛ってなんだと思う?(必殺、丸投げの術)
私にも正解は分からない。
分からないんだけど、私は1つ答えを見つけたよ。
愛は誰かと一緒に作っていくものだということ。
そして、少なくとも私は、それを求めているということ。決して愛に飢えているわけではないのだけれど、例えば今好きな人と一緒に築いて共有していけるのだとしたら、それはもう「愛」だな、って思った。
見返りを求めないのが愛、とかいうじゃん?
なんかそれって少し違うんじゃないかなって思っている。確かに、愛を表現するには一人でも出来るんだけど、それ、愛なのかな?って思う。
たぶん、一人でも愛を形に出来る時っていうのは、相手が絶対的に自分に依存している時なんだよ。
石田衣良の『愛がいない部屋』の中の「十七か月」という短編小説がまさにそうだと思う。これ、母と乳飲み子との関係のお話。母がほっといてしまったら、あっという間に命が絶える乳飲み子は、母に依存するしかない。母はそこに無償の愛を注ぐ他、選択肢がない。
そういう状態なんだと思うんだ。勿論、母と乳飲み子にとって、それは「愛」なんだけど、ある程度自立した人間同士における愛って、そうじゃないと思う。というか、そうあってしまっては嫌だなあ、寂しいなあって思う。
だとしたら、私にとっての愛って、って考えてみた。
友達でも親でも恋人でも、間柄はなんでもいいんだけど、結局自分の好きな人と、形じゃないものを共有して、空をわけあって、一緒に築いていく、目には見えないお城のようなもんが、愛なんじゃないかなあって。
愛という言葉は呪いだ。幸せという言葉も呪いだ。
このひどく抽象的な言葉の本質に辿り着けない以上、それは呪いの言葉以外の何物でもない。
きっと多くの人が、この呪縛に縛られて生きている気がする。
でも私はそこからほんの少しだけ、その呪縛からほんの少しだけ、解き放たれた気がした。
昨日、私は既製品みたいな幸せ・愛を捨てた日。
自分の愛を探す旅は始まったばかりのようです。
っていう、長いながーい、独り言でした。おわり。
とてつもなく長い独り言にお付き合いいただき(最後まで読んでいただき)ありがとうm(_ _)m
したらば、またにゃん。