自分の本棚=頭の中【頭の中の本棚より】
こんばんは。にゃんちーです。
ちょいと最近は短めの記事になっております🙇💦
今日、ふと、自分の本棚を見て、びっくりしたのだ。だからか、独り言っぽい内容です。悪しからず。
棚に収まっているもの=その人の大事にしているもの
本棚でもいいし、食器棚でもいいし、ちょっと違うけれどクローゼットでもいい。
棚に収まっているものって、その人の趣味が出るよね。
音楽が好きな人はCDが。
映画が好きな人はDVDが。
読書が好きな人は本が。
食事が好きな人は食器や調理器具が。
だからって訳じゃないけれど、例えば人の家に行った時、つい、見ちゃう。
にゃんちー、悪趣味だな・・・って言わないで―!
見るだけ。口にもしないし、まして物色しないから。笑
うむ。でも、まあ悪趣味なのよ (´-ω-`)
大事にしているもの から分かる価値観
例えば私は、本もCDも多い。
これでも引っ越しの際に、マジで大量に処分した。
と、いいながら、まだ運びきれていない本もCDも実家にあるのだけれど。笑
私の本棚って、本当に少し前までは、美術関係の書籍(カタログ・専門書)か、絵本と小説しかなかったんだよね。
ところが、今日、ふと自分の本棚を見て驚いた。
この1年足らずで、信じられないくらいビジネス書系・自己啓発系、臨床心理系の本が増えていた。
ほんの1、2ヶ月前に、本棚を整理して1つ棚を空けたにも関わらず、もう本棚に入りきらなくなっている。残念ながら、読めていない本が山の様にあるけれど。
これって、私の関心事がシフトしつつある、ともとれる。今の自分の深層心理を量るのに本棚の定期的チェックはいいかもしれない。
例えば他にも、音楽のCDって言っても、どんな音楽が好きなのかが垣間見える。
服や食器もそう。
好きなものから、もうちょっと具体的に、この人って何のどんなところに「価値」を置いているのかが見えてくると思うんだ。
だから棚って、見せ方も含めて、結構人柄が出るものだと思っている。
本当はどんな人なのか知りたければ、棚を見るといいかもしれない。笑
わたしにとっての本の価値、それは心が動くかどうか
ここ最近、私は読書に対する焦燥感とか虚しさを感じている。
この焦燥感は、おそらく、課題図書(読めていない本)が多すぎるからだと思う。
じゃあ、虚しさは??
今のところ私の中では、頭で読んでいて、心で読む本を読んでいないからなんじゃないかという仮説がたっている。
頭で読む本、私にとってはビジネス書。
別にビジネス書がつまらない訳じゃない。得るものも多いし、新聞やネットよりも案外と社会のことが分かったりもする。ビジネス書はある意味で自伝にも近く、著者の人となりも分かるし、その人が何年もかかって築き上げてきたものを、たった1冊で収穫できる点でコスパが良い。
だけど、常々思うのは、ビジネス書って生モノなのだ。
本当に長きに渡って読み継がれている経営学の本もある。だけれど、大半は消費に近い形でバカスカと出ては、どっと売れて、すっと消えていく。実際のところ、本が売れなければ書店も出版社も潰れるわけだから、いづれ廃れるものを旬な時に売ることが必要だ。
悲しいかな、これ、ビジネスの鉄則、だと思っている。
これは他の分野で言えば、ファッションがいい例だ。ビジネスにしていくには、一刻も早くその流行りのファッションが廃れてくれなくては、次の一手は売りようがないからだ。
本当に良いものって、ずっと残っていくのだけれど、そこにお金が絡むとやっかいだなあと思う。それでも、語り継がれていくものは、やはり本物だ。例えばシャネルのスーツのように。
そう。私は本の消費が好きじゃない。(ただし、今のところ推測)
ビジネス書って頭で読むから、1冊読むのに2時間とかからない。何しろ気持ちはどうであれ、頭で理解すればいいからサッサと読めてしまう。勿論、読み返すこともあるし、読んだ時は感動することさえある。だけど、よほど熱量こもった本でない限り、その感動は打ち上げ花火のように瞬間的に消えていく。
原点回帰してみないと分からないところなのだけれど、私は心で読む本が好きなようだ。あるいは、本を読むことで心の栄養補給をしてきたってこと。
私にとっての読書は「琴線を震わせる」こと。
私が本のどこに価値を置いているかと言えば、心が動くかどうか、「本物」に出会えるかどうか、ということろなのかもしれない。
心で読む本は、読むのにうんと時間がかかるから、蔵書ペースが遅くなるかもしれないにゃー・・・。
本物と言えば・・・美術作品!?
今、これを書いていて自分の中で勝手につながった!
図書館長をしているけれど、私の専門は本当は美術なのだ。学芸員資格は持ってないけど、一通り勉強はしている。そして、何より、美術が大好物。じゅるり。
もっぱら観る専門なのだが、私が美術好きなのって、もしかしたら「本物」と出会えるからかもしれない。
美術作品って、答えがない。*1だから、ひたすら作品と心の中で対話をする。
すると不思議なことに、作品のほうから心を開いて本当の姿をさらけ出してくれることがある。この時、「感動」することが多い。
感動って、まさに「琴線に触れる」ことだ。本当にごく稀にではあるけれど、琴線に触れ過ぎて、大根おろせそうなくらいに鳥肌たったり、無意識に突然涙することもある。
おわりに 余白を楽しむ
ここに何かヒントがある気がするぞ。むむむ。
心が動く時、もしかしたら、「余白」が必要なのではないか。
それは解釈の余地という意味。本であれば行間を読むような感覚に近い。
本でも美術だけでなく、何にでも当てはまりそうなのだけれど、解釈の余地=想像できる自由があることだと思うのだ。
逆説だけれど、自由度の低いものは、もしかしたら、心に触れにくいのかもしれない。
なんだか、書き始めた時に思い描いていたものと全然違う終着点になっちゃった。
不思議だけど、なんか今日はこれが良い気がしてる!笑
ほぼほぼ独り言みたいな、日記みたいな内容になっちゃった。だけど、これを書いていて、「余白の自由」が楽しいんだって気が付いて、near2図書館の在り方が見えてきたかも。
と、言うことで非常に纏まりのないところで終わります。
またにゃん🐈
≪追伸≫
いつも遊びに来てくれる方、本当にありがとうございます◎
数字上(PV数)からは分からなかったけれど、内訳見てみたら、ダイレクトにここにアクセスしてくれている方がめっちゃ多くて驚きました。直でここに来るって、ブックマークしてるとかじゃん。
もう、本当にありがとう。とても嬉しいです。
本当に、本当に嬉しかったんだ!(語彙力が乏しくて言い表せない・・・。苦笑)
だから忙しくたって、疲れていたって、私がここに来たくなるのは、画面の向こうに誰か居るんだって思えるからなのだ。
いつか本当にみんなに会えるといいんだけどな。そういう場所、作りたいんだー。
*1:実際のところ、古い日本画であったり、西洋の宗教画は、知識がないと観れないことが多い。それは、美術がとりわけ富裕層の教養・たしなみであった時代と関係していると考えられる。だから今それを観ると、知識ないとつまらないものも多いってのは事実。