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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

ありふれた日常の、刺激的な断片【読書感想】

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こんばんは。にゃんちーです。

本が読みたい!と思って、全然読めていない気でいました。

が、よく考えてみれば、blogを書くために、本を再読しているのだ。今日は何書こうかな、どれにしようかなって本を選んでいます。

課題図書ならぬ積読がそのままだから分からなかったんだけど、いや、ほぼ毎日何かしら読んでるじゃん、本。

なーんだ!って、一人でニヤニヤしながら、今書いています。ぐふふ。

 

 

さて、今日の1冊。

 

『思い出トランプ』 向田邦子 新潮文庫


言わずと知れた作家、向田邦子。

脚本家としてのイメージが強いかもしれません。

直木賞受賞作がおさめられている、短編集です。向田邦子の雰囲気は、存分に味わえると思います。

 

本当に短い小説なので、サクッと読めるます。

向田邦子の文章の小気味良いリズムがとても心地よい。なんでしょう、鋭すぎず優しすぎず、それでいて至極端的なものいいです。簡潔なのです。

向田邦子の良さは、その観察眼にあります。なんてことはない、ありふれた日常をとても鋭い視線で、丁寧に描く。些細な情景が、一変して見えるのです。

 

 

「花の名前」

昭和な匂いが香る家庭像、夫婦像。でも、未だにこういう家庭、あると思います。

こんな風景、どこにでも転がっていそう。

そこにチクっとした刺激がある。それがドラマチックになることもあれば、災いの様になってしまうこともある。そして長年の月日が、日常を色褪せて見せる。

 

紹介にあたり、ごめんなさい!ネタバレです。悪しからず。

 

あらすじ

 常子と松男、50に近い夫婦の話。若いころは肉が削げ、筋張った体だった夫。いつしかその体は分厚くなっていた。

 

夫とはお見合い結婚。

花の名前もろくに知らない男であったので、常子はその見合い結婚にさほど気乗りはしなかったのだが、母が乗り気だったために常子は松男と結婚する。

結婚したら、花を習ってください。ぼくに教えてください。

松男にそう言われ、危うく飛びつくところだったが、はしたないのでぐっと堪え、常子はこの結婚を決めたのであった。

 

そして言われた通り、花を習い、花の名前を松男に教えていく。

 

ある日、夫の松男は上役夫婦の家に呼ばれる。そして、そのお宅の床の間にあった花の名前を言い当てたことで、上役にえらく気にいられた。見直したよ、と松男は何度も畳に手をついた。常子が夫のそんな姿を見るのは、初めてであった。

 

日常のこまごましたことを妻が教え、その夜、教わったぶんだけ、お返しというか仕返しをする習慣

 若かりし頃はあったそれは、このころから自然に少なくなっていったのであった。

 

ある日、1本の電話がかかってくる。見知らぬ女、つわ子から。

花の名前、つわぶきからとったであろう、つわ。

常子は電話を切ると、急におかしくなって笑った。花の名前…。

 

いつもの顔をして帰ってきた夫に、常子は投げかけた。

「つわぶきの花、しってます」

「つわぶきか。黄色い花だろう」

「つわ子って人、しってる」

「この頃、見かけないなあ、あの花は」

「電話があったわよ。あの人、一体・・・」

「終わった話だよ」と、夫はそのまま奥へ入っていった。それがどうした、と言わんばかりの分厚い背中を見せて。

 

 

ありふれた日常の、刺激的な断片。時間の経過と歩幅のずれ。

常子からすれば、そんなために花の名前を教えてきたわけじゃない、と思うだろう。

きっと最初はそうだったはずだ。

松男は純粋に、常子に寄り添う如く花の名前を教えてもらっていたのだろう。

ただそれはうんと前の話で、結局「花の名前」は、いつしか上司に気に居られるための世俗的な側面を帯び、女事へと移り変わっていっていたのだ。

常子が知らぬ間に。

女の物差しは二十五年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる。

 

向田邦子は「物差し」と書いているが、常子がずっと持ち続けてきた当たり前の価値観は、結婚して二十五年の間に、夫である松男の中では細々と、そして物差しの目盛りはぶくぶくと太り、変化していっていたのだ。

肉のなかった薄っぺらい男つまり夫が、「それがなんだ」と背中で語れるほど太々しく、分厚くなるまでに、夫婦の時間は過ぎていっていた。

 

いつの間にか、その歩幅はずれていたのだ。

 

常子からすれば、信じていたはずのものが崩れ落ちた瞬間でもあり、当たり前だと思っていたそれは、実は今では間違いであったと自分を疑わざるを得ないほどに、夫を見ていなかったのだ。

松男もまた、そんな妻の常子の気持ちを見もせずに、隣の寝床から手を伸ばし、

常子の耳のところに溜めていた息を吐き、急に目方をかけてくる。自分の四股名の上に勝の白星を付けてから眠る

 

なんて悲しい夫婦なのだろう。

いったい、二人は何を見て一緒に歩んできたのだろうか。松男は「終わったはなしだ」と言うけれど、これから二人は何を見て共に歩んでいけばいいというのか。

 

この短編にある情事の描写は、いわばマウンティング。

先に引用しているが、向田邦子のこの書き方は本当に妙である。*1

日常のこまごましたことを妻が教え、その夜、教わったぶんだけ、お返しというか仕返しをする習慣

 

 常子の耳のところに溜めていた息を吐き、急に目方をかけてくる。自分の四股名の上に勝の白星を付けてから眠る

 

妻に花の名前を教わっておきながら、要するにそれでは自分が下のままなので、お返しすることで自分が優位にたつ。最後は自分がマウントを取りたい、自分が満足をさせてやっていると言わせたい夫。

愛し合う、という行為には程遠く、愛もへったくりもない。

そんな無味乾燥な情事を受け入れる常子もどうかと思うが、それで二十五年も連れ添ってきたのだから、実に滑稽だ。

結局のところ、互いに何も見ていなかったのだから。

 

でもこんな夫婦、今だってゴロゴロいると思うの。

 

その虚しさに目を瞑り、経済力だったり子供だったりを理由に、形だけの夫婦を演じ続ける。

その先に、何があるというのだろうか。

夫、元気で留守がいい、だなんて、そういうことだろう。熟年離婚だってそうでしょう。

 

そんな愛の居ない場所に帰る夫は夫で、外ではけ口をつくるだろう。今じゃ女もそうだけど。私はそこに性差はないと思っている。

不倫の容認はしていない。でも、愛のない男女が一緒にいる意味が、私には分からない。独身の癖にと言われても困るので、先に申し上げておくが、私とてかつては結婚していた。

愛し合うよりも、ずっと大事なものが夫婦の間にあるのだろうか。

勿論、例えば子供が生まれて環境も役割も変わって、家族になっちゃうところも分からないわけではない。でも夫婦じゃないか。私が夢見すぎ?

 

社会の最小単位は家庭であり、その最もたるものが、夫婦という形だ。

その小さな小さな社会に愛がないだなんて、私は無理だった。

24時間営業で年中無休で給料なしのお手伝いさんも嫌だし、ダッチワイフもご免だ。お金は自分で稼げばいい。とても厳しい言い方だけれど、よほど事情がない限り、自活できない奴が、誰かと一緒になんて生きていけるものか、と思う。

 

こんなつまらない日常、愛がなければ退屈でしかない。

夫の不倫相手からの電話だなんてチクっとした刺激がなくたって、一見こんなつまらない日常に、もし愛があったとしたら、当たり前の幸せ、という愛すべき日常になるのだ。

愛って、そのくらい偉大なんじゃないのだろうか、と思う。

それを追い求めるなんて哀れなのかもしれない。でも、それが叶わないと分かっている環境に死ぬまで身を置くほうが、ずっと哀れで無意味な気がしてならない。

本当は愛されたいんじゃないの?

本当は愛したいんじゃないの?

 

そんな単純なことが、どうして出来ないんだろうって思う。

人は思いのほか、「愛」を難しくしているのかもしれないね。

 

 

今日はこの辺で。

今思ったけど、私、取り扱う本や題材によって、かなりblogの文体かわっちゃうね。笑

自分の熱量のせいかもしれないけれど。ま、いっか。

今日は長くなっちゃったにゃ。最後までお付き合い頂き、ありがとにゃん◎

それではまたにゃん。よい週末をー。

 

*1:妙である、とは、「言い表せぬほど優れている」という意味