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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

愛はいつだって目に見えない【読書感想文】

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こんばんは。にゃんちーです。

こうも寒いと、人肌恋しくなるものですね。

ということで、ゆるっと大きな愛を感じていただこうではないか。

 

 

今日の1冊。

 

『ぬるい眠り』 江國香織 新潮文庫


江國香織には珍しく、短編集です。

小説を読まない人でも、彼女の名前くらいは聞いたことがある作家さんなのではないでしょうか。

『きらきらひかる』は彼女の代表作で、ドラマにもなりましたね。

(平成生まれの子達はこのドラマを・・・きっと知らないんだよね!?どひゃー。)

ドラマや映画化されている作品が多いので、作品タイトルを聞いたら、それ知ってる!って方もいるのではなかろうか。

 

 

さてさて。本題。

代表作の『きらきらひかる』の続編が含まれています。それを期待して読んだ読書愛好家さんも多いことでしょう。

 

この短編集は、賛否分かれる作品な気がします。

江國ワールド全開ではないし、でも、ちょこっと色んな江國さんを摘まみ食いするにはいい本だと、私は思っています。

江國香織の文体って、独特の空気感がある。

『きらきらひかる』といった代表作から入っていった人には、もしかしたら、文体に違和感のある作品もこの本にはおさめられています。

この本の文体は、少し言い方が悪いですが、不安定。

 

読んでいてそれでもやっぱり、江國香織だ、と思います。彼女が書き連ねる文章の流れはいつも、まったりとゆるやかで、それこそぬるくって。

質感としてとろっとしている。そしてどこかいつも浮遊感をもっている。

 

どれを紹介しようかなと悩んだのだけれど・・・

 

 

「ラブ・ミー・テンダー」

この本の中でも、というか江國香織の作品の中でもずば抜けて短い小説だと思います。

ページにして10ページ足らず。

私はこの本の中でも、この作品がとてつもなく好きです。やられたーって泣いちゃうくらい好きです。

紹介にあたり、ごめんなさい!ネタバレです。悪しからず。

 

 

あらすじ

離婚騒ぎが日常茶飯事の老夫婦。主人公の「私」の両親である。

主人公が実家を訪ねるところから物語は始まる。

両親が離婚するかもしれない、ということではなく、母がエルちゃんから電話がかかってくるのと言い出したことに、主人公は驚く。

エルちゃんとは、母が愛してやまないエルビスプレスリーのことである。彼はとっくに亡くなっている。

 

そう。母は、痴呆症なのだ。

通称エルちゃんから、毎晩電話がかかってきて、ラブミーテンダーを歌ってくれるんだと、言ってしまうくらいに、その症状は進行している。

故人から電話がかかってくるわけがない。お医者さんに相談したほうがいいのではないかと、ちょっとイライラする主人公。

一方で、「いいじゃないか、電話の一人遊びくらい」という、なんとも悠長な父。

 

痴呆の母が言う。「きょう、十二時まで待ってたら?」

どうやらエルちゃんからは、夜中の十二時に電話がかかってくるらしい。かかってこなければ母の目が覚めるかもしれないと、主人公はそれに付き合う。

 

もちろん電話はかかってこなかった。私たちは十二時半まで待ち、最初に匙をなげたのは父だった。

「くだらん。俺はもう寝るぞ」

 

それでも母の目は覚めなかった。「今日は都合が悪かったんだろ」とにやにや笑う母。

諦めにも似た気持ちで、主人公は帰る。

しかしそこで目にしたものは、

 

ぽっかりと明るい電話ボックスで、父が電話をしているのだ。パジャマにジャンパーを引っかけた姿で、大きなラジカセを抱えて―。

 

 

愛はいつだって、目には見えない

まさかエルちゃんの電話が、父の仕業だったとは。

私がこの老夫婦の子供だったら、何が離婚だ、この野郎!ぐすん…。と、なる。

 

痴呆の妻の戯言に付き合って、毎晩電話ボックスにいそいそと出かけては、ラブミーテンダーをかける夫。

 

勿論、母は本当にエルちゃんから電話がかかってきていると思っている。

痴呆である限り、母にとって、この父の愛は、エルちゃんの愛なのだ。本当のことは、肝心の本人には一生知り得ないものなのだ。

 

夫婦であり、その前に男女であり、その前には同じ人間である。

法律上は夫婦という同じ戸籍に入っている。でも妻の頭の中では、夫との離婚話が進み大好きなエルちゃんとやっていく所存、というところまできている。

 

夫婦であれ、恋人であれ、友人であれ、どんな関係にせよ、自分から離れようとしていて尚且つ他の誰かを愛しちゃっている人に、こんなことが出来るだろうか。

自分の気持ちは、きっと、ずっと、きちんとは届かないのに。

そう考えると、本当に誰かを想う気持ちというのは、時に残酷だ。

この「ラブミーテンダー」の中の、父の愛は、自己犠牲にさえ見えるだろう。

 

でも本当にそうなのだろうか。

自分のことは分からなくてもいい、離れたいならそれでもいい。

それでもいいから、好きな人が笑顔になるなら、エルビスプレスリーでも何にでもなる。そうして愛が伝わるなら、それでいい。

 

ただただ、好きな人の幸せを願ってやまない。

在り来たりな言い方だけれど、そこに見返りは求めていないのだ。これが愛じゃないなら、何なんだ。

 

素敵な老夫婦だなー。こんな両親、いいなー。

 

これを読むといつも、大好きな人に会いに行きたくなるの!

みんなボケちゃうわけじゃないけど、大好き!って伝えに行きたくなるのだ。

愛がきちんと伝わらなくてもいいだなんて、私にはまだまだ思えない。そこまで私の器は大きくないので、出来れば大好き!って伝えて、伝わったということを知りたい。

別にそれ以上は求めていない。いいの、大好きだよって、一方的に言いたいだけだから。

 

 

愛は出し惜しみしてはいけない。

出し惜しみしている時点で、もはや愛じゃない。それは、損得勘定をしているわけだから、見返り求めちゃっている証拠なのだ。

 

強がって、かっこつけて、愛を伝えないのも、違うよ?

それ、一番ダサいぞ。

言えるうちに、言っておけ。

言葉じゃなくたっていい。気持ちを伝える方法は、何も言葉だけじゃないのだから。

「ラブミーテンダー」の父のように、変化球だっていいのだ。

 

だって、自分も含め、みんないつボケちゃうか分からないし、いつ天に召される運命(さだめ)なのかも分からないじゃない。

ありがとうとか、大好きとか、どんな形でもいいから伝えてみて欲しい。

 

この小説の痴呆の母のように、本人には「誰の」の部分は伝わらないかもしれないけれど、「愛しているよ」という気持ちだけはきっと伝わる。

そして、きっとそれは他の誰かが見てくれている。この小説の主人公が見つけてくれたように。

 

愛って、それを見た人も、愛でいっぱいになる。

そこには、幸せの連鎖しかない。

ぜひ、出し惜しみなどせずに。

 

今日はこの辺で。

またにゃん。