文化って、多様性って。そして"個"の価値って。【読書感想文】
こんばんは。にゃんちーです。
(名乗ることから始めようかと…だってはじめましての人、いると思うし。)
夏が戻ってきたのか、うだるような暑さですね。
たまらんので、痩せ我慢などせず冷房いれます。熱中症にはお気をつけください。
はてさて。
いつか自分の本棚を写真にあげたいところですが、引っ越しの際に大量に捨てたり、廃品回収にだしたり(基本売らない)、実家にも置きっぱなしの本が沢山あるので…いつか広いひろーいお部屋に引っ越しでもして、持っている本を整列させた暁には、blogにアップしようと思います。うむ。
飽きもせず読書感想文です。
今まさに読了したものは、後回しとなっております。
なんだろう、熱いうちに打て的な感想文より、ちょっと冷めた方が個人的には好みです。どうでもいいですけど、にゃんちーこと私、猫舌です。
にゃんちーの読書世界どっぷり、というのもいいのだけれど、それもつまらないので(特に私自身が書いていて)ちょっと軽い専門書でも…という冒険をします。
冒険するには早すぎるかも。まだ3冊目の感想文なのにね。ははは。
前置きが長くなりました。(本文も長いです…)
『多文化世界』 青木保著 岩波書店 2003年
イズムの角逐や苛酷な他者攻撃を経験してきた20世紀を経ながら,新世紀の世界は,宗教・民族間問題の先鋭化と同時に,グローバル化による画一化・一元化に直面している.真の相互理解や協調は可能なのか.その鍵となる「文化の多様性」の擁護をめぐって,理念・現状・課題を,文化人類学者としての豊富な経験・観察と共に具体的に説く.
とーってもざっくりした概要は、岩波書店のHPから拝借。
大学時代に読んだ本です。JDにゃんちー。
好きなことに没頭していた時期です。周りに成果を求められることもなく、学費をはじめ親の脛をかじりまくって、好きなことを、好きという気持ちだけで、好きなだけやれる時間は、後にも先にもこの4年間しかないと思って、社会に出たら何の役にも立たないであろう分野の追究に勤しんでおりました。
これだけ読んだら、とんだ体たらくJDにゃんちーだな。笑
(でも実は奨学金借りて大学いったんだぜ。ちゃんと返済したぜ。ということで、そんなに親の脛はかじれなかったっす。)
私の専門分野はもう少し違うところにあります。
なんでこれを読んだのかは、もう覚えていませんが、レポート書くのに必要だったのかもしれません。なんだっけなー、異文化理論とかあったから、その辺かも。
この本、私の手元にあるものは2005年の版のもの。
今ざざっと読み返してみても、現状、何も変わっていないと思う。(日本において)
2001年の同時多発テロ、いわゆる9.11を機に書かれた本です。
ショッキングだったのは、テロという事件そのものだけではありませんでした。
価値観の中でも特に幸せの定義や、文化的価値観が世界中で揺らいだ瞬間だっと思います。そういった意味でも、結構ショッキングな事件でした。
著者の青木保先生は、文化人類学者であります。
内容に触れる前にちょっとだけ寄り道を。
そもそも「文化」って、説明できますか?
ちなみに今皆さんが思い浮かべる「文化」という言葉は、坪内逍遥によるとされています。って、坪内逍遥、明治に生きた人です。
勉強した私も曖昧にしか説明できません。辞書的意味なら分かります。
それは何故か。
英語の翻訳から来ているはずなので、意味は後付けだからじゃないでしょうか。
(↑ごめん、これ推測。坪内逍遥、翻訳家でもあるので。)
(曖昧な情報を揚げるべきではないという事は承知しとります。ので、どなたか気になった方は真偽のほどをお調べください。必殺丸投げの術。)
要するに言葉という枠組みが先で、中身つまり概念は後から詰めたという感じ。
明治時代、翻訳から生まれた新しい言葉と、それに伴う概念が誕生します。
今、普通に使っている、芸術、美術、彫刻、音楽などなど。
ちなみに夏目漱石先生は museum を百物館と訳し、今の「博物館」という言葉の語源と概念を作りました。
まさに今、そうして誕生した言葉と概念が溢れかえっているわけで、実際のところ、文化と芸術の違いを明確に説明できる人は、学者でもない限り、もしくは物好きでもない限り、いないんじゃないでしょうか…。
それでね。
英語でいうcultureは、ラテン語のcolereからきています。「耕す」という意味です。
派生語ですが、cultivateのほうが、今と同じ意味を持つ「文化」に近いかもしれません。
土を耕すことから、心を耕すに広がり、教養・文化という意味になっていきます。
それが今皆さんが思い浮かべる「文化」ってやつです。
その文化とやら、どうやら1つではない。
これを、当たり前じゃないか!と簡単に思う方は少々危険な気がしますよー。恐らく本当の意味での文化、多様性を理解していないから。
その沢山ある文化は、それぞれの文化の中に価値観が根付いている。(文化の中核を担う普遍的な尺度ないし神髄がある、と言うほうがいい気がします)
世界は多様だが、それでもその「違い」を認め合い尊重して、時に文化による価値観の違いに折り合いをつけながら、共に生きていくことが出来るのではないか、ということ。
で、文化って結局、違いの中にある、魅力なんじゃないの?
切磋琢磨じゃないけれど、魅力を高め合うことで、多文化世界が初めて実現できるんじゃないの?というお話。
多文化世界というタイトルですが、例えば文化の多様性と、盛んに言われた時期がありました。それこそテロの後かもしれません。多元主義なんて考え方もあります。
(だめだ。この辺、めっちゃ専門的になるから、端折ります。)
この本の第2章の後半は、ちょっと理想論的で、机上の空論っぽいところもありますが、そうなったら素敵なのになとは思います。
どうして今、この本を紹介したのか…
『多文化世界』は、もっぱら文化について書かれていますが、これ、現代社会に生きる個々人に落とし込むことが出来るからです。
特に多様性と、個の主張についての問題は、文化に限らず一個人としても、まったく同じことが言えると思ったからです。
著書の中から引用します。
・さまざまな人間が異なる地域に住み異なる文化を持ち、それぞれ違った価値の世界に生きていることを、とかく無視してしまうような傾向。p.8
・「理解することは、必ずしも評価することではない」p.98
・「さまざまな文化の価値は違っており、それらの価値は必ずしも両立しない」p.99
著者はヴィーコを引用しています。 ※孫引きで失礼します。
・「多文化世界」は、ただ単にこの世界にさまざまな文化が存在している状態のことをいうのではありません。また自己の文化的アイデンティティを主張することでもありません。p.194
p.8については、インターネットの普及とともに打ち出された、グローバル化という考え方でしょう。でもこれ、みんなの普段の生活でもあるんじゃないのかな?
画一化と言い換えられると思います。右向け、右。
価値観でいえば、人類は共通の幸せがある、だから同じ方向を向いていこう!
え?君、左斜めに行くの!?…そんなお前はこうしてやる!!(といって、政治的圧力をかけてみたり、駆逐したり、懲らしめたり、と敵対するわけだにゃ。)
著書が引用しているヴィーコの言葉は、SNSが盛んなこのご時世に、ぴったりだと思います。
SNSでつまらん炎上なんかがあるけど、言葉尻だけを捕らえて、寄ってたかって袋叩きにするのはどうかと…。
差別と区別の意味をはき違えているその感じとか、多勢と違ってなんぼでそれが”個”つまるところ個性だと勘違いしている感じとか。その個性を主張し合うことで、多様で豊潤な社会になっているんじゃないかと錯覚しちゃってる痛い感じとか。
そういうの、そろそろ、やめれば?って思う。(しまった!毒舌がバレる…)
文化は広い意味では人の営みそのものであり、多様性って、単にいろんなものがありますよという状態でもない。そして個性なんてものは、他と比べて差別化して生まれるものでもない。
お互いの「違い」の認識は「差別」を生むとも言われるのだけれど、本当にそうだろうか。それを、差別にするのか、区別して尊重し合うのか。それは個人にかかっているんじゃないでしょうか。
出来れば、「違い」を褒めて互いの魅力をのばしていきたいもんですな。
今日の一冊は、この辺で。
うげー。レポートより長い…3,500文字超えたにゃ…。
無駄に長い戯言に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
白熱するとどこまでも書ける感想文。
どうやって落とし前をつけるのか、その秘訣を誰か伝授してほしいと感じ始めた、にゃんちーでした。
またにゃん。