真に生きる為に哲学する【読書感想文】
こんばんは。にゃんちーです。
毎日感想文を書いていたら、1年で365冊も書く羽目になる!?
盲点…しまった。
今のところはただのOLで残業もするし、ちょっとポツポツ書いていこうかな。
否、書きたい本は山のようにあるのだけれど、時間が足りません!畜生。
好きなことしていると寝食忘れるのですが、それだと今は生命維持活動が出来なくなるので、好きなことと言えど、ペースを考えねば。ぐぬぬ。
毎日これだけ書いて、生きていけないもんでしょうか。笑
読書家とか、読書感想家とか、YouTuberみたいな新しい仕事にならんのかな。
Amazonのレビューで充分なのかしら?
私、絶対レビューなんか読まないけれどね。書いたこともないです。
さて、今日は何にしようかなーと。
比較的最近の本にします。
訳あって今年春先から一人暮らしですが、これに伴って読書再燃。
何というか、読後に、うわー!って思ってもはや今の私のバイブルと言える本が2冊あります。うちの1冊を。
『超訳ニーチェの言葉 エッセンシャル版』 翻訳:白取春彦 ディスカヴァー
私、基本的に本に書き込んだり付箋つけたりしないです。
読んでないかの如く、綺麗に保管したいので、めっちゃ綺麗に読みます。
専門書も小説も雑誌も何でもです。
思ったことがあったとしても、絶対に書かない。ある種のポリシーで、どうしてかというと、再読した時にその書き込みが邪魔だからです。
でも見てください…この付箋の量‼︎
早い話、そのくらい刺激的でした。
元から哲学が好きです。
大学入学すぐに読んだ本、ロラン・バルト著 『明るい部屋 写真についての覚書』いわゆる写真論の本ですが、バルトが哲学者だと知ったのは最近です。
バルト、哲学者だったんですね。だからあんなに面白かったのか…。
この本の話はまた今度。
ニーチェ、全然難しいことは言っていないんです。
時代的に、当時ニーチェは散々に言われていますが。
出る杭は打たれるといったところでしょうか。
何につけてもそうです。
絵画の世界で印象派だってクソミソに言われていたし、当時。
地球は平べったいと考えられていた時代に、いや、地平線をごらん?地球は球体だ!なんて言えば、お前頭大丈夫?ってなった訳です。はい。
キリスト教が全てで、そこに真実と真の幸福があると考えられていた時代の中で、違うんじゃね?なんて言ったニーチェ、それは叩かれますって。
しかもニーチェ、牧師の子供だっと思うのよね…。
『超訳ニーチェの言葉』は、ニーチェの様々な本の総集編です。
色々な本から抜粋されたごく一部にすぎません。
それでも非常に興味深かったです。分かりやすさは抜群です。
人間は考える葦である、なんて言われるよりもずっと分かりやすいです。
翻訳のうまさだとも思いますが、ちょいちょい入るニーチェの、お前正気か!?みたいな、どうかしてるぜ!っていう呆れにも似た表現がとてもツボでした。
それも結構ストレートに書かれているので尚更。
翻訳の妙だったとしても、ニーチェの人柄が出ている気がして、親近感が湧きました。ニーチェ先生、仲良くなれそう…ぜひあの世で。
とても簡単な言葉で書かれている分、思考を巡らせる余地があります。
それが刺激的、という感想につながります。
あれこれ遠回しに小洒落て説明されるよりも、すんなり腑に落ちます。
だからその余白を、それはどういう意味なのかな?私だったら…って考えます。
その思考を巡らせる、嫌でも自分と向き合う時間が、正に「哲学する」時間な気がしました。
言われなければ素通りしてしまうようなことに、真摯に向き合わざるを得ない。
哲学者って、こんなことを終始考えていた訳です。ご苦労なこった。
でもそこに哲学の面白さがあると思っています。
ある意味、今ある真実を疑うことから始まるのです。
真実は時に、人の解釈によって歪んでいきます。真実ではなく、たった一つの事実を追求するんです。思考を通して。
悲観的な事ばかりを言う哲学者もいます。
ただのネガティブと言えばそうかもしれません。でも、そんな暗さと向き合うって物凄くエネルギーが必要な事で、嫌なら見ないふりをすれば良いところでもあります。
それができない正直者でもあり、逃げない強さがある、そう言った意味では、哲学者は机上の空論者なんかではなくて、精神的にタフで真の幸福の追求者だと思っています。
私は四六時中そんなことを考えている訳ではありません。
だから時々、哲学っぽい本を読むんだと思います。
自分から逃げない時間、自分にとっての事実を追求する時間を、哲学の本を通して確保しているんだと。
そうしないと、「私、今、何してんだろ?」とか、「なんで生きているんだろう?」ってなっちゃうから。
時事刻々と自分の環境も変化するし、否応がなしに歳は食うし、死に向かって転げ落ちていくだけなんです。ぼーっとしていると。
でもせっかく産まれてきたんです。
どうにか「幸せ」とやらを、「使命」とやらを見つけ出したいじゃないですか。
産まれてきた時点での、幸不幸というのか、環境設定でのいわゆる勝ち組と負け組みたいなものはあると思います。
それが事実です。
平等なんかじゃない。
ただ、平等を求めるから不平等がうまれるのも事実です。
自分にとってどうなのか、が自分にとっての事実です。
生きていく上で、それがとても重要だと思っています。これはニーチェ先生の本を通して学んだことです。
必ずしも、自分にとっての「幸せ」が、他人にとっての「幸せ」ではないということも。
一人暮らしするまで、正直なところ、私は自己犠牲の元で人の「願い」とか「幸せ」とかを叶えてきました。
そんなことを何十年もしてきましたから、今更自分のやりたい事とか、自分の幸せって言われても…出てこないよと悩んでいた時期にこの本に出会いました。
必然だったと思っています。
ちょっとスピリチュアルなヤバイやつっぽい発言になってしまいました。むむ。
でも今の私にはとても必要な事でした。
数十年、すっぽかしてきて、力づくで蓋をしてきた、私にとってのパンドラの箱が開いちゃった瞬間でした。
今までの私を、ニーチェ先生の言葉を借りるとすると、
愛することを忘れると
人を愛することを忘れる。そうすると次には、自分の中にも愛する価値があることすら忘れてしまい、自分すら愛さなくなる。
こうして、人間であることを終えてしまう。
正にこれでした。自分のことを奴隷か下僕だと思っていましたから。
でもそうじゃなかった。というか、そうしてきてしまった、自らの手で。
愛の表現方法が大幅に間違っていたんです。
よくよく考えていれば分かるはずなのに、盲目的に周りに尽くしてきてしまった。
それで自分が達成感とか幸福感を味わえているなら正解だったんだと思います。
でも、私はそれを感じられなかった。
やっても、やっても終わらない。求められるばかりで、それに必死に応えても何も満たされない。それどころか、どうしてか消耗ばかりしていく。
何度か心身崩壊状態になってもなお、気がつかなかった、私はど阿呆です。
一人暮らしを決める前、何年も悩んでいましたが、ふと、「私の幸せはとりあえずこれじゃない!離れなくちゃ!」と思った時がありました。
じゃあ、 私の幸せって何?と聞かれても、答えられませんでした。
周りに、どうすればいいの?って聞かれでも、そんなこと尚更分かりませんでした。
そんな事はわからないけど、現状のこれが私の幸せじゃないのは確かなんだよ!と。
とうの昔に、限界を超えていました。早い話が、病んでいました。特に体が。
周りに沢山の迷惑をかけたと思います。混乱させたとも思います。
だって自分でも説明出来なかったんですもん。
それでも、いろんな意味で一人でいることを決めました。そして人知れず、黙々と準備して決行しました。突然に。笑
一人になってからというもの、自分にはこんなに時間があって自由なんだと気がつきました。
自分の心の声を聞かずに無理やり蓋をして生きてきたこと、空気読んで先回りしてそそくさと人の期待に応えて来たこと、いわゆる普通という社会の枠組みに自分を合わせて来たこと、色々なことを突き付けられました。
正直、自分のこの数十年ってなんだったんだ?って思い、虚しくもなりました。
じゃあこれからどうするの?
それは今、人並みの生活をしながら、沢山の本を読みながら考えている最中でございます。
模索中の今、一番寄り添ってくれるのがニーチェの本でした。
きっと何かあると思う。
万人に響くとは思いません。でも現状に何か違和感とか、本当にこれでいいのかと疑問を持っている人には、いい意味で考える時間が生まれると思います。
今はその答えは分からなくてもいいんです。
頭の片隅に置いておいてください。時々、それをぼーっと考えてみる。
気が付いているのと、いないのでは雲泥の差だと思っています。
何も考えずに生きていければ楽でしょうけど、それ、ただのロボットです。
私、人間として生きていきたい。
だから考える事から逃げたくないし、思考することを大切にしています。
人間でいるために。
今日の一冊はこの辺で。過去最高に長いかも…。
日に日に長くなってくな。どうしたらいいんにゃ!まあいっか。
少しずつ、感想文じゃなくて自分の頭のことも書いていこうかなと思っています。
まとめるに時間かかりそうなので、これこそポツポツ小出しでと。
それではまたにゃん。
(思い出したかのように急に語尾がネコ語になるのはご愛嬌ということで許してちょんまげ)