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near2図書館 館長こと、にゃんちー。私の読書感想文と、頭の中の本をご紹介。日々の徒然(凸凹日誌)

読んだことになっている本 其の一【図書館便り】

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こんばんは。にゃんちーです。

もはや読書感想文じゃない!でも自分の中では鮮烈で、読んだことになっている。

茂木健一郎さんも、読んだことになっている本があると著書の中で言っていたので、ありだ、あり。(超強引。笑)

 

さて、今日の1冊。

 

 

『みだれ髪』 与謝野晶子 新潮社

 

 

小学校の国語の資料や、高校の教科書、社会の資料にもでているので、きっと聞いたことぐらいはあるはずにゃ!

与謝野晶子の代表作でございます。

 

私の手元にあるものは文庫版ですが、この初版と同じハードカバーのものは、とても素敵だったんです。

写真に添付した白い部分、短冊のように縦長の珍しい形のハードカバーなんです。

と、市立図書館で、この装丁の可愛さにつられ、うっかりこの本を手に取ったのが全てのはじまりだったのだ・・・。

 

 

母親の部屋で、エロ本見つけちゃった…

この本との出合いは、もう、これ以外に例えようのない衝撃でした。

 

母親の部屋にいったら、本棚の隙間に何かが…と手に取って、エロ本!?

見てはいけないものを見てしまった!ああ!どうしよう!

素知らぬ顔で本を戻し、母とは普通に話してみるものの、視線が合わせられない。

大人って、そういうことなの?え?お母さんも、実はこんなエロい感じになっちゃってるの!?みたいな。(あんまりリアルに想像すると気持ち悪いのでお気をつけあそばせ)

 

父親なら、まだわかるよね、きっと。

でも男じゃなくて、母親の部屋からね。もう、お姉ちゃんでもいいや。とにかく女の部屋から、エロいもん出てきた!?っていう感覚。

 

幸い、そんな経験ないですけどね。笑

 

 

『みだれ髪』との馴れ初め

にゃんちー、子供のころは毎週図書館に連れていかれていました。母親に。

返すついでに何か違う本を借りてきて、また来週返しに行って・・・と、そんな感じでした。何故か決まって土曜日が図書館の日で、市内のあちこちの図書館に連れて行ってもらっていました。(正確には連れていかれた)

母の中でどうやらお気に入りだったのか使い分けがあったようで、ゆっくり長居する時は大きな図書館でした。

 

そう。あれは小3の夏休み。忘れもしない、この本との出合い。

大きな図書館に連れて行ってもらったあの日。

そろそろ子ども向けの小説にも飽き、今日は読みたい本がないなー、そうだ大人の本があるコーナーを探そう!(漢字読めないのに)と、ふらふらしておりました。

作家の名前を見ても、小説のタイトルを見てもなんだかパッとしない。どうでもいいけど、やたらと本がどれも分厚い。今思えば、小説コーナーをふらついていたんだと思います。

そもそも、小3んのにゃんち、さくらももこ以外に大人が読むような作家さんを知らなかったんです。そりゃ、ずらーっとならんだ本を見ても、パッとしないさ。どれもこれも知らないものばかりなのだから。

 

と、本棚をぐるぐる歩いているうちに、この本に出合ってしまったのです。

 

この本、可愛い!薄いし、私にも読めそう!

なんて思って、衝動的に手を伸ばし、偶然開いた箇所が、かの有名な歌のページだったのです。

 

やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君

 

これだけであれば、古典もまだ習っていない年齢だったので、歌の意味はろくすっぽ分からずに、なんだか綺麗な響きだなー、で終わっていたことでしょう。

 

残念ながら、そう素敵な思い出とはならず、なにせこの本はご丁寧に現代語訳まで載っていたのだ。私が読める漢字ばかりで、歌以上の解釈が盛り込まれた、熱の入った現代語訳には、こう書いてある。

 

柔らかな肌の下を流れる熱い血潮、そんな若さと情熱にあふれた私に触れようともしないで、寂しくはないんですか、世のありふれた道徳を説いてばかりいるあなたといったら…。

 

 

男も女も知らぬうちから、大人の甘美な世界に片足突っ込んじゃったんです、私。

だから変な想像しちゃうじゃない!

仕方ないじゃない、その世界を知らなかったんだもん、まだ。

これでも控えめな現代語訳なのだろうけど、つまるところ、どうして貴方はこんな食べ頃の私を脱がさないのですか?って誘っているようにしか聞こえなくて。

 

もう、ドキドキよ。読んでるこっちが、ドッキドキ。

いかん・・・大人の女性というのは、こんなに過激なのかと。ということは、お母さんも、もしかして学校の先生もこういう道を通ってきたの!?って思ったら、もう読んでいられなくて。

 

いえ、私は何もしていませんと平静を装って、そそくさと本を棚に戻しました。 

 

情熱の歌人、と呼ばれた与謝野晶子。

こんな出合いの方をしたばっかりに、私の中では与謝野晶子=エロスの神様として今もなお刷り込まれております。

 

 

後日談

この本のことなどすっかり忘れていたはずなのに、再び思い出すのです。

小学5年生の社会の授業で、歴史的人物として、与謝野晶子がでてきちゃったのだ。

授業中だったのだけれど、思わず「知ってる!」って口走ってしまった。当然のことながら、先生に「なんで知ってるの!?」と聞かれ、答えられるわけもないので間誤付く始末。とほほ。

その授業、歴史上の人物について調べてまとめあげるものだったのだけれど、自ずと与謝野晶子についてやらざるを得なくなった。まさか、私にとってエロスの神様だなんて書けるわけがないので、図書館の資料をそこそこにまとめあげただけの単なるレポートになったのは、言うまでもない。

 

この本が刊行されたのは明治の話。

その時代の女性がこんなに刺激的な恋の歌を世に出していただなんて、想像しただけで震えてくる。

女性が性や愛だの恋だのを歌うことに否定的ということではなく、さらには文学的な評価がどうということでもない。

当時の社会の中でこの歌を歌う勇気というのか、まっすぐな愛情表現は凄まじいエネルギーだと思うからだ。

女性の性発信は、現代もタブー視されていることは否めない。現代ですらバッシングを受けるのに、明治何て猶更でしょう。

でも本当は、いつの時代だって、男だろうが女だろうが、そういう気持ちがあるはずなのにね。

 

 

最後に

未だにこの歌とともに、当時の記憶がありありと脳内シアターで再生され、感情がよみがえって鼻血がでそうなくらいドキドキしてしまう。ということで、この本はまだきちんと読んでいない。

けれども、与謝野晶子のことは散々調べあげたし、幸か不幸か代表歌との衝撃的な出合いもあって、私の中ではすっかり「読んだことになっている本」になっている。

燃え上がるような恋心と女心を、こんな素敵な響きで歌える与謝野晶子は、きっととても素敵な恋をしてきた、純粋な女性なのだろうな。

 

私がこの本を冷静に読めるようになるには、もう少し先になりそうだ。

愛だの恋だのが、それこそ恋しくなったら、読めるのかもしれない。本当に愛する人が居るうちは、もしかしたらずっと読めないままかもしれないにゃ。

 

 

今日はこの辺で。

またにゃん。