20代にして愛を知るとは恐ろしや【読書感想文】
こんばんは。にゃんちーです。
なんか急に冷え込んできましたね。心地よい秋はどこへやら。肉がついていない膝小僧が、寒い。
にゃんちーこと、私、今でこそ自己啓発系の本を読みますが、それまで専攻分野の専門書以外は、専ら小説を読むばかり。好きな作家に出会えば、その作家の本をかたっぱしから読んでいきました。きっと文体が好きとか、言葉のチョイスが好きとか、なんかかんか理由があったんだと思います。
でも、私、これっきり、この作家の本は読んでいません。好きとか嫌いとかではなく、衝撃的でした。色々と。他の作品は読んでいませんが、これ以上の作品はもう無いと感じてしまったからです。
『ナラタージュ』 島本理生 著
大学二年の春、片思いし続けていた葉山先生から電話がかかってくる。泉はときめくと同時に、卒業前に打ち明けられた先生の過去の秘密を思い出す。
リンク、あらすじというか、物語の始まりの紹介は角川のHPより拝借。
島本理生の2作目です。
映画化もされていましたねー、そういえば。配役、全然イメージ違うけど。
恋愛小説です。
前に紹介した『4teen』と同じく、受験勉強真っただ中に読みました。ということは、おそらくこの本が刊行されてほどなくして読んだのかにゃ?多分そう。
※『4teen』については こちらをどうぞ。↓
当時、私のなかで、恋愛小説といえば 山田詠美でした。何冊もあるので、これもまた何かの時に感想文をあげよう。そうしよう。
それでね。
『ナラタージュ』をすごーく簡単に紹介するなら、高校教師と教え子の純愛物語。
当時の私の感想はといえば…
完敗
これに尽きる。いやはや、別に作家を目指してたわけでもないので、何に負けたんだよと思いますが、言い換えるなら、感服です。それは今読み返しても、変わりません。
何故そんな風に思ったかというと、自分と大して年も変わらぬ女子(おなご)が、こんなにも淡々と冷静に、そして深く「愛」だの「恋」だのについて物語にして、しかも活字化できてしまうことに、もう歯が立たないと思ったんです。私、まだきっと何も知りやしない…って思ったんです。
これを書き上げた当時作家は、20代そこそこです。
まだ酸いも甘いもそう知らぬでしょうに、早々と「愛」とか書けちゃうことの恐ろしさったらない。
そして『ナラタージュ』というタイトルからも、作家の教養の深さとセンスの良さというのか、語彙力が高いのなんのって。
小説の主人公 泉 と思い人である葉山先生はともに演劇部です。泉は演劇部員で、顧問が葉山先生。だからタイトルがナラタージュなのではないかと。
ナラタージュ、映画やドラマでよくある手法ですけど、おそらく演劇でもあるでしょう。ナレーションというか、人物による語りもしくは、回想によって過去を再現する手法のことを指す言葉です。業界用語として使われているんじゃないでしょうか。もう、島本理生が演劇部だったか映像部だったことにしてくれって思いました。
よって、小説は、泉の日記でも読んでいるかのような気分になります。
過去を振り返るわけですから、淡々と進んでいく。渦中にいたら登場人物の感情表現が豊かな文章になっていたことでしょう。そうではなく、回想なので、繊細でちょっと冷たいくらいの筆致で物語が書かれています。
人によってはこれを、だらだらしてんなあ…と感じるかもしれません。日記なんてそんなもんです、きっと。
長編恋愛物語、もっとも、ありがちな教師と生徒の恋だなんて、そんな、たらったら書かれたら読めたもんじゃないにゃ。そんなもんは少女漫画で腹いっぱいですってばよ。
それでも飽きずに読めるのは、作家の情景描写のうまさと、「愛」「恋」「性」を余すところなく、そして明確に描き分けているからだと思います。
初めは先生に恋する生徒の淡い恋、それが理由はどうあれ泉が20歳になって葉山先生と再会すると不倫関係になってしまう。どろどろーん。
でも昼ドラみたいなドロドロ感は全くありません。不倫というだけで生理的に受け付けない人もいるでしょう。それも、ごもっとも。
そりゃ本人の回想からなるんだから、綺麗に、美化されて書かれていてもおかしくありません。
でもそうじゃない。
主人公の泉のもつ、他の登場人物に対する冷静なものの見方。それと相反する、愛する葉山先生に対する熱を帯びた眼差しが、たまならく愛おしく思いました。
正直なことを言えば、登場人物のどれにも感情移入しずらく、共感もしずらい。それは大人になった今でも同じです。恋も愛の違いもよう分からん10代のにゃんちーが読んだら猶更分かりまへん。
それでも魅力的なのは、どれもが人間らしいからです。人のずるさ、優柔不断なところ、自分勝手なところ、誰かを想うことに伴う痛みや苦しみが描かれています。
純愛、なんて言われるこの小説ですが、苦い部分があるから、その「愛」だの「恋」だのの、「甘さ」が分かるのでしょう。ずーっと甘かったら、胃もたれしちゃう。
実際のところ、誰かを好きになるって 甘味100%で出来上がってないです。
無意識に相手を自分の思い通りにしたがってみたり、勝手に期待しては落胆したり、じれったい思いをし、時に患い苦しんで、それでもやっぱりその「甘さ」が手放せなくてまた苦しんで…とか。
そして時に自らの命を捧げるかのごとく、盲目的になってしまう。これを、見返りを求めない、だから「愛」という気もします。その線引きがとても難しいと思います。
献身的というのか、自己犠牲の上のものであればそれは「愛」なんかじゃないと思う。もはや想う気持ちに自分自身が服従しているか、相手に支配されて下僕と化しているのではないでしょうか…。
そして愛でも恋でも、切っても切り離せないのが「性」。性描写がありますが、過激ではなくそこに孕むあるしゅの自分勝手さ、快楽が本当の意味で描かれているように感じました。
で、だ。
私がこの本を読んで、愛や恋の描き方に感心したのではなくて、作家の情景描写の巧さにやられてしまいました。是非とも、いくつか紹介したい!
携帯電話を頬から離すと、右耳がぼんやりと熱くなっていた。
たなびく雲が重なって上弦の月を抱いているようだった。
…中略… 細かい仕草や表情に余韻があって、 …中略…
途端に止んでいたと思っていた風が生まれて、…略。
などなど。雲が月を抱く、とか、風が生まれるとか、まるで擬人化された表現。主人公と重なる。
仕草や表情に余韻とか、考えたこともない!流れるような仕草とは言いますが、仕草に余韻…そう来ますか…と。でもイメージつきますよね。なんというか、お習字みたいに、しなやかでまるで一連の動作でなって書き終わっても筆が空をきる。そういう余韻。
こんな感じで情景描写が秀逸なのです。
今日の1冊はこの辺で。
何故か英会話の練習に付き合って先生役になっちゃったので、更新が遅くなっちゃったー。ちなみに英語はしゃべれまてん。
またにゃん。