語彙力という魔力と凹凸【頭の中の本棚から】
こんにちは。にゃんちーです。
11日しかない有休をあっさり使い果たし、本日欠勤にございます。こんなことしたの、人生で初めてデス。ちーん。
blog書く。読書感想はまた後程。
昨日の続きを書こうと思った次第にあります。
(凹凸(通称ADHD)の私と、言葉との付き合い方について、詳細はこちら↓)
nyanchii-no-hondana.hatenablog.com
私、言葉に対して、過敏です。ASDのきらいもあるので、どちらにせよ凹凸(でこぼこ)なのですが、ADHD由来なのかASD由来なのか、何しろ言葉に敏感です。自分のblogの書き言葉が、きちんと成されているかは定かではないのだけれど。
※今更だけど…
ADHD:注意欠陥多動性障害
ASD:自閉症スペクトラム のことです。どちらも発達障害。
それでね。語彙力の話。
スパルタ母ちゃんのお蔭で、『辞書』という言葉の源泉というアイテムを早々にゲットするわけなのだけれど、読書だけでなくて、活字を含み口もたつようになっちゃって、大人を論破してしまった事を思い出しました。
そう。語彙力って、言葉の力って、年齢とは全く関係がない。
今、振り返ってそれを活字にすると、語彙力は魔力だ と思ったんです。
中3の体育祭の話。なんだかもうあまり覚えていないけど、何しろ体育祭は縦割りで競う仕組みになっていまして。
(縦割り、1~3年の同じクラスが1チームなのです。1年2組・2年2組・3年2組と、これで1チーム。)
自分が3年だったから、後輩たちを引っ張っていかなければならない訳なのだが、どうやら担任は、2年の先生にチクチク言われたらしい。
それが少しばかしややこしくて、私の担任も2年の先生も、同じ社会科。年功序列で言えば、2年の先生のほうが圧倒的に上。つまり私の担任はぺーぺーみたいな扱いを受けていたし、私の担任の先生は先輩である2年の先生にどうにか認められたい、という事情だった模様。
その矛先が生徒に向いてしまい、「〇〇先生(2年の先生)に認められなければ意味がない!」と私たち生徒にキレちゃった。
3年生、最後の体育祭なので頑張ってないわけがない。まあ当然だけれど、私たち生徒からは反感を買う。多分にもれず私もカチンときてしまった…。
その場で言い返すこともできたのだけど、それでは生徒の前で先生を公開処刑してしまい先生のメンツ丸つぶれだろうし、そうなった暁には学級崩壊し兼ねないと思い、学級崩壊したらまたそれを束ねる羽目になるので、その場では、もう本当にとりあえず黙っておきました。
でも、私の腹の虫が(当然他の生徒も)おさまらない…。
当時、毎日予定帳を書かされていてのだけれど、予定帳には、次の日の授業予定と持ち物とか、そして最後に日記を書く欄がありました。
ここで反撃にでてしまいました。書けるスペースも限られていたので、すごく簡潔に。
先生のための体育祭ではない。私たち生徒は、先生が〇〇先生に認められる為に努力するのではない。生徒は先生の出世道具ではない。そもそも、体育祭自体が教員ではなく生徒のためのものであり、生徒主導で行われるべきものである。
以上。
である調だったかまで覚えていないけれど、ほとんどこれに近い口調だったと思う。なんせ書くスペースが狭くて、簡潔に書くあまりキツイ口調だったことは間違いない。
ちょっとリンカーン大統領みたいなこと言っているけれど、思ったことを書いただけなのだ。
そして、こういう向こう顧みずなところが凹凸だなって、今なら思う。
まさか次の日、体育祭の練習に担任が来なくなるだなんて、予想してなかったもの!
何があったか知らない同じクラスの生徒たちは、がやがや。担任に対して、余計に不信感を抱いてしまった。
その日の体育祭の練習後、ばったり担任に会ったので、「先生なんで練習に来なかったの?」と聞いてみると、「だってお前が先生の体育祭じゃないと書いてあったからね」と。
お…マジか。私のせいか…。
ということで、どうやら私自らで蒔いた種だったようで、ことの収拾に追われました。とほほ。
潔くみんなには予定帳に書いたことを話して謝り(幸いにも同調してくれたので良かった)、比較的仲の良かった3年の英語の先生に事情を説明して担任をつついてもらうようにお願いし、学年主任にも事情を説明して体育祭の練習どう?ってちょっと様子を聞いてもらうようにお願いし、縦割りが同じ2年の先生とは面識なんかほとんど無いけど、やっぱり事情を説明してすみませんと謝りに行きました。
話はそれますが、根回しってこういうことだと学びました。笑
するとどうでしょう…その次の日の体育祭の練習には居るではないか!担任が!
バカみたいな話ですけど、この時、担任を論破し、他の先生にも頭を下げたりと、大人を動かすのに「言葉には力がある」ことを、身をもって感じました。
言葉ひとつとっても、何をどう言うのか、つまりそれが語彙力だったり話し方だったりが必要なんだなと。
そして、どうやら語彙力というのは大人子供関係がないということ。
あの時、担任の先生のプライドを少々傷つけたのだと思います。言葉の選びようによっては、大人だって傷つけてしまう。
だけど、練習すっぽかすという幼稚な返り討ちに合うとは思っていませんでした。笑
方々の先生に話に行き、そこで動いてくれるかどうかは、私の話次第だと思ってました。だから正直、当てにしていませんでした。でも大人が動いてくれた。
当時の私はまだ、自分が凸凹(ADHD)であることを知りません。
知らないけれど、良くも悪くも、言葉が私を強くしてくれました。
凹凸の子って、中でも落ち着きのない子は、ものすごく怒られて育ってきます。とにかく頭ごなしに怒られまくって育つものだから、怒られないようにしよう!が先にたちます。私もそうでした。
その時、自分の気持ちや考えはあるんだけれど、言う隙を与えられない。結果、抑え込んで生きていきます。
人によっては、何て言っていいかわからない!怒られてばっかり嫌だ!という感情の入り乱れから、ひどい癇癪(かんしゃく)を起します。
この時の気持ちや考えを活字でいいから言葉に出来たら、どれだけ楽か。
凹凸に限らず、すべての人に言えると思いますが、言葉一つで簡単に人を傷つけてしまう。また、同じようにたった一言で、人を突き動かすことができる。
いわば魔法のツールです。
幸いにも言葉は、語彙力はいくつになっても強化していくことが出来ます。何でもいいのだ。読んで覚えて使って…を繰り返すうちに、語彙力上がって、自分の表現の幅がぐんと広がる。その時に読書って、すげー!って思ってもらえると嬉しいにゃ。
言葉の魔法に魅せられたにゃんちーでした。
それでは後程。